桜の時期に思い出したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

北陸や北海道に大雪をもたらした三十数年ぶりという寒さの冬も3月終盤ともなれば、例年よりずいぶん早く桜がほころび、この原稿を書いている今日あたりは、ここ千葉県でも桜が5分咲きになっています。東京では、すでに満開を迎え、上野公園などの花見の名所の盛会ぶりをニュースは伝えています。

「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子を食べて花の下を歩いて絶景だの春爛漫だのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html)

これは、山賊と美しい女を描いた坂口安吾の短編「桜の森の満開の下」の冒頭部分です。

山賊は旅人を襲い、女のあまりの美しさに夫を殺し、その女房を奪います。女は、殺された夫の仇を取るかのように、夫となった山賊に我儘を言い続けます。まず、手始めに山賊が旅人から奪った7人の妻のうち、老婆以外の6人を殺させ、その後も、京の街人の死体を求め続けるのです。

山賊は、満開の桜の木の下で感じる不安と、美しい彼女に自分の肚を知られる恐怖とを胸に抱きながら女の我儘に従い続けます。そして、山賊は、女を殺すことを考えますが、決断できません。

あるとき、花盛りのふるさとの山へ帰ることを決意します。すると、女は、山賊の心変わりに鬼となって山賊に襲いかかりますが、山賊は鬼を殺してしまいます。鬼だと思った死体は女となって横たわっています。女を失った後、男が感じた不安や恐怖は孤独だったのかもしれないと気づきます。女を失い本当に孤独になった男は、温かい気持ちに包まれます。もう孤独を恐れることはないのです。男と女の上に桜の花びらが降り注ぎます、女の体も、女の体に降り注ぐ花びらをかき分けようとする男の手も身体も消えていました。

猟奇的ともいえる要求をする女の心の内は、夫を殺された恨みだったのでしょう、むごたらしいこともいとわない山賊の心には深い孤独が宿っていました。それは、彼が桜の木の下で感じる孤独と同じ孤独が花見の喧噪に酔う現代人の心にひそんでいると安吾は言いたいのかもしれません。

安吾は、日本人について「我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約とは逆なものである」といい、また、「歴史は常に人間を嗅ぎ出している。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、洞察の結果である点に於いては全く人間的なものである」((「堕落論」青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html)ともいいます。

「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ」「人間は正しく堕ちきる道を堕ちきることが必要なのだ。・・・堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければならない。」と、安吾は堕落論を結んでいます。

無頼派といわれた安吾がいう、「正しく堕ちきる」には、人間の孤独や恨み、人性への深い洞察が必要なのだろうと思います。

そして、僧侶松原泰道師

「花が咲いている 精いっぱい咲いている 私たちも 精いっぱい生きよう」(松原泰道)

(「致知」2016.2 鎌倉円覚寺管長 横田南嶺「願いに生きた禅僧たちの知恵」より)。

深く人を見つめる目線の先には、同じものが見えているように感じるのは私だけでしょうか。

私たちも、人の弱さや悲しみを全て乗り終えてこんな境地になれれば、きっと良い会社になると思います。

後継者の学校

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日本の首都を作った徳川家康(後編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑩

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。9回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

9回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったこと、という前回からの続きです。家康が感じた、関東への移動のメリットとはなにか、です。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

北条氏を降し、東北の大名も支配下に置いて、文字通り天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、政権の礎を盤石にするべく、東海・甲信地方の大勢力であった徳川家康に関東への移動を命じます。実力者である家康を、箱根の向こうへ封じ込めるのが狙いでした。

しかし、徳川家康はそれを受けて、1月足らずの間に電光石火ともいえる尋常でない早さで移動を完了してしまいます。

しかも、北条氏のいた小田原城ではなく、掘っ立て小屋のような江戸城へと入りました。

 

実は、徳川家康は北条氏を攻める前に、予め関東地方を詳しく調査して、移動を命じられた場合はむしろメリットの方が大きいと判断していたのです。

 

家康が考えたメリットは以下の通りです。

・既に天下は定まって敵のいない今、防衛のために荒れ地となっていた江戸を開発すれば国力が飛躍的に高くなる。

・河川が多いということは、陸上輸送よりも水上輸送が主であった時代においては、物流網を構築しやすい。

・北条氏が治めていた地を引き継ぐのは、前回書いたようなデメリットはもちろんあるが、法制度が統一されていたためむしろ統治はしやすい。

・先祖代々治めていた地から引き離されることは、不便もあるが、昔のしがらみを断ち切って新しい制度を作ることができるし、家康の求心力はむしろ高まる。

・豊臣政権に臣従した以上、秀吉の下ではどのような取り扱いを受けることも覚悟していた。

 

江戸は、利根川、荒川、多摩川という大河川が東京湾に注ぐその河口に位置しているため、前回も申し上げましたが、大雨が降るとすぐに氾濫するような湿地帯でした。北条氏は、小田原城の防衛のために、江戸城の周りをあえて湿地帯のままで放置していたため、寒村があるだけの寂れた土地であったのです。

 

しかし、豊臣による天下統一がなされた今となっては、湿地帯のまま放置しておく必要はありません。治水事業で氾濫を防止すれば、広大な平野は利用しがいのある領地に化けます。

また、河川が多いというのは、徒歩や馬しか陸上の移動手段がなく、舟による水運が主体であった当時としては、交通の便がいいというメリットがありました。現に、秀吉が作った大坂も河川の多い地で、舟運により商業都市として大きな発展を遂げています。

つまり、デメリットは視点を変えれば、あるいはうまく生かせば大きなメリットに変わりうるのです。

 

また、関八州は領民に対して善政を敷いていた北条の支配のもとで、統一された制度が浸透していました。

それまでの家康の領地は、出身の三河国、その次に増やした遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国と、全てそれぞれ統治の制度が違っていたため、代官(知事)もそれぞれ置く必要があり、余計なコストがかかっていたという事情がありました。

ところが、関八州は代官が一人ですむのです。これは大きなコストカットになりました。

 

そして、三河国にしろ他の国にしろ、もともと住み着いていた豪族たちを家臣にしたわけですから、家康としてはそこに遠慮もあったわけです。

しかし、まるごと全員移転してしまうと、家康も白紙の出発となりますが、家臣たちも同じです。過去のいろいろなしがらみがなくなって、改めて主従関係がゼロから出発するわけですから、家康の権威はより強くなるというわけです。

また、昔から続いていた不合理なしきたりや制度も、この移転で全て白紙にすることができました。

 

秀吉からは、箱根の向こうに追いやられて、監視役をいっぱいつけられたわけですが、もともと豊臣政権に臣従した時点で、家康はこのような取り扱いを受けることは覚悟していました。

むしろ、自分から積極的に秀吉の意向に従ってやろう、というくらいの気構えをもっていました。

本当は主人以上に有能な人間が、反抗するどころか主人の半分嫌がらせみたいな扱いにも黙々と従う姿を見ると、主にとっては反抗されるよりも不気味な存在になります。いわゆる「器が大きい」存在ですね。

このような家康の姿勢は、豊臣政権においてその存在感をいっそう際立たせる効果がありました。

 

家康は関東に移ると、ただちに伊奈忠次に命じて河川を改修し、新田開発と検地を行います。河川の改修は、やがて規模が大きくなり、ついには利根川を移動させる大事業に結実します。江戸時代以前は、江戸湾に注いでいた利根川は、この事業によって千葉の銚子を河口として太平洋へ注ぐようになります。

 

家康が命じた大改造によって、寒村だった江戸は、1609年頃には15万人の都市へと発展します。

江戸幕府が家康によって開かれた後は、天下の首府として大発展を遂げ、江戸時代の中頃には100万人のメガポリスに変貌したのでした。

 

徳川家康は、統治制度も全て一から見直して合理的なものに変更し、東の果てに置かれたおかげで朝鮮の役への参加も免れ、着々と天下を取るための力を蓄えます。

 

秀吉が老衰で亡くなった時点では、家康の存在感と実力は他の大名よりも抜きん出たものになっていました。

 

ある事業が有利か不利か、それは現時点ではなく将来の可能性も合わせて考えてみると、デメリットと思っていたことが実はメリットになることもあり得ます。

SWOT分析などで事業の可能性を考える時は、環境や前提を自分で変えられるかどうか、も合わせて考えてみると、答えが全く逆になることもあるでしょう。

 

徳川家康は、秀吉の密かな目論見を全てひっくり返すことで、より大きな飛躍を遂げることができました。

そしてその飛躍は、現代においても「東京」という形で日本人に大きな恩恵を与えているわけです。

器の大きい人がすることは、多くの人に計り知れない影響を与えるということです。

 

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ピョンチャンオリンピックで一番感動したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

ピョンチャンオリンピックが終わりました。わが日本としての結果は、冬のオリンピック史上最高のメダル獲得(金メダル4個、銀メダル5個、銅メダル4個)がという結果で、事前の予想を大きく超える盛り上がりでした。

オリンピックは、スポーツの素晴らしさやその舞台にかけた選手たちの物語に心を打たれるシーンを常に用意してくれます。今回も、スピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒選手がレース後、銀メダルに終わったイ・サンファ選手の肩を抱き健闘をたたえる姿、4年越しの銅メダルを獲得した高梨沙羅選手を抱きしめて祝福する伊藤有希選手を見て感動した!方が多かったのではないでしょうか。

その他にも数々の感動シーンがありましたが、今回取り上げるのは平野歩夢選手(19)です。

皆さんもご存じのとおり、彼は、スノーボードハーフパイプで銀メダルを獲得しました。

彼は、前回、ソチで銀メダルを獲得しているので、15歳の頃から世界の実力者であり続けたのです。2017年3月の大会で、左ひざ靭帯と肝臓を損傷する全治3ヶ月の大けがを負い、それから1年足らずで、彼の実力を世界に示す銀メダルだったのです。

スノーボードといえば何年か前の大麻吸引事件のイメージからか、おじさんとしてはあまり良いイメージではありませんでした。実際、テレビに移される平野選手はピアスをした現代っ子で、近頃の若いもんそのものという印象でした。

発する言葉も「まわりを黙らせるすべりをするしかない。狙うのは金メダル」と強気の発言、「もう少し謙虚な発言はできないのか、若者よ」と、私。でも、口調はあくまで穏やかです「!?」。「この子、いや、この青年、本当はすごいかも」

そして、別のインタビューでは、ここで「イェーイ!とか言いましょうか」との問いに「いえ、僕はそういう人間ではないので」と断る場面に出くわした私は、「歩夢ファンになるかも。」と、印象が変わっていきました。

そんなこんなで、迎えた決勝では、「ダブルコーク1440(4回宙返り2回ひねりということらしい)」という、世界でもできるのは2~3人というわけのわからない大技を2回連続で成功させ一時トップに出ますが、最後に、第一人者のショーン・ホワイト選手に逆転されて、惜しくも銀メダルに終わりというものでした。

昨年の大けがは、ダブルコーク1440(「せんよんひゃくよんじゅう」ではなく「フォーテーンフォティ」と読みます、念のため。)にチャレンジした際に起きたアクシデントだったそうで、恐怖もあったはずのその技をオリンピックの大舞台で2回も決める精神力の強さはさすがと言わざるを得ません。

試合後のインタビューです。「前回も銀で、上を目指すために4年間練習してきたので、ちょっと悔しさも残っているが、自分が今できる範囲の中では、全力でやれたのかな、と素直に思う。楽しかったです。最後の3人、みんな争って、最後の順番もいい並びというか。今までイチの大会だったと思う。本当に、全ての人たちに、感謝しかない。終わってみて考えると…。その力が今回、この大会でも結果になったのかなと思う。」(https://matome.naver.jp/odai/2151921022199982301

平野歩夢、高梨沙羅、伊藤有希、高木美帆、高木菜那…女性ばかりになってしまいましたが…。渡部暁斗さんも言葉もすごかったけれど、骨折していたことを明かさなかったのもすごいというより、美しい!彼の美学なのでしょう。

選手一人ひとりに、悔しさや挫折があり、選手の数だけの物語が詰まった2週間余が過ぎた今、祭りの後のうら寂しさより、日本の若者はことのほかの(失礼)素晴らしさが残った大会でした。

社長、人が育つには挫折も時間も必要です。だから、渡すための時間と心と環境の準備が肝心です。

日本の首都を作った徳川家康(前編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑨

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。8回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

8回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったことを申し上げたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

日本の首都である東京は、世界的にもたぐいまれな街です。2017年の「世界の総合都市ランキング」でも、ロンドン、ニューヨークに次いで3位に入りました。首都圏(ほぼ関東地方)の人口は3600万人であり、日本の人口の3分の1が集まっています。

 

しかしながら、東京の中心部は、400年あまり前はほとんど人の住んでいない湿地帯だったのです。大きな河川の河口が集中しているため、大雨が降るとすぐに氾濫してしまい、まともな農業も営めないような地域でした。

 

しかし、そんな誰も省みないような土地に大きなポテンシャルを見いだして、今の東京に至るような開発を始めたのは、何を隠そう徳川家康だったのです。

 

 

織田信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りによって没した後、その後を乗っ取りに近いやり方で承継した秀吉が柴田勝家との戦いに勝利して、天下の事業は豊臣(当時は羽柴)秀吉が進めることとなります。徳川家康は、豊臣秀吉と当初は対立して「小牧・長久手の戦い」で勝利しますが、最終的には秀吉に臣従して、秀吉の天下統一事業に協力することとなりました。

 

その総仕上げである「小田原征伐」(関東地方を制圧していた北条氏を攻め滅ぼした戦い)に徳川家康も従軍し、いよいよ北条氏の本拠地である小田原城も落城目前となったある日のことでした。

 

小田原城を見下ろせる丘へ、秀吉が家康を散歩に誘いました。

はるかに関東平野が遠望できる丘の上に立ち、風景を眺めながら(一説には、立ち小便しながら、ともいいます)秀吉は家康に話しかけます。

 

「徳川殿、このたびは格別のおん働き、まことにご苦労でござった」

「いえいえ、滅相もござらぬ。全ては上様のご威光でございましょう」

「ここから見ると、関東は広いのう。どこまでいっても真っ平らだのう」

 

ひとしきり雑談を交わした後で、秀吉は家康に申し渡します。

「この関八州、貴殿に差し上げる。いかがかな、徳川殿」

驚く家康に、秀吉は間髪入れず念を押します。

「その代わり、これまでの領地は召し上げる。よろしいな?」

 

こうして、徳川家康は先祖代々受け継いだ三河の地から、関東に移ることとなりました。

 

領土は、これまでの5カ国150万石から250万石と、価値は飛躍的に上がったわけです。1石は、成人一人を養える米の量を表すので、一気に250万人まで養うことのできる領土を得たということになります。

 

しかしながら、この移封にはメリット、デメリットそれぞれあり、秀吉としては下記のデメリットで家康の力を落とそうとした密かな狙いがありました。

 

・先祖代々からの土地から移すことで、領民との良好な関係を切り離す

・年貢(税金)が安く領民との関係がよかった北条氏の領土に移すことで、家康の統治をさせにくくする

・秀吉が家康に「与えた」土地に住まわせることで、家康との主従関係をはっきりさせる

・江戸は、その石高とは裏腹に洪水が多く人が住みにくい土地である

・家康を箱根の向こうへ追いやり、東海道沿いに豊臣秀吉の恩顧が深い大名を配置して、家康を関東に「封じ込め」る

 

先祖が自ら切り開いた土地を受け継いでいる大名は、その地において特別な存在となります。例えば、薩摩(鹿児島)の島津氏は、鎌倉時代から続く名門であり、家臣や領民から神のように崇められていました。豊臣政権においては、もちろん島津氏は政権に臣従しているものの、秀吉から土地を与えられたわけではないので、秀吉に取り立てられた大名とはその存在感や秀吉への忠誠心が全く異なります。

そして、代々住んでいるわけですから、住み慣れていて愛着もある、ということもあります。慣れない土地は行くのは、誰でも不安ですし、不便なものです。

例えば、織田信長の三男である織田信雄は、小田原征伐の後で尾張(愛知県西部)から徳川家の三河(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)へと国替えになりましたが、先祖代々の尾張を離れるのを嫌がって断ったため、秀吉の怒りをかって領土を全て没収されてしまいました。

 

まして、当時家康が本拠地としていた駿河国(静岡県東部)の駿府城(静岡市)は、家康が幼少期に人質として過ごした地です。ここに支配主として凱旋したわけですから、格別の思いがあったはず。現に、織田信長から武田攻めの軍功として駿河国を譲られた後、すぐに駿府城へ本拠地を移しています。並々ならぬ思い入れがあったと思うのです。

 

また、関東を代々治めていた北条氏(鎌倉時代の北条氏とは血縁がないため「後北条氏」とも呼ばれる)は、年貢率が低く、善政を敷いていたため領民からの評判もよかったことも、家康にとっては不利になります。

北条氏は、小田原の防衛のために、あえて江戸のあたりの洪水を放置していたというのもあります。越後国(新潟県)や常陸国(茨城県)から攻め下ってくる上杉謙信や佐竹義重は、江戸の湿地帯を避けなくてはならないため、小田原城へ攻め寄せることを躊躇せざるを得ませんでした。

従って、実質的には250万石の価値はなかったと思われます。

 

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した後、尾張国に子飼いの家臣である福島正則を置くなど、東海道の各地に忠誠心の高い部下を配置して、家康を完全に封じ込めます。

 

以上のデメリットをみて、皆さんはどう思いますか?関東へ移るか移らないか、例えばSWOT分析などすると、移らない方がいい、というのが正解になりそうですよね。

 

ところがです。

 

徳川家康は秀吉からその命令を受けた後、織田信雄のように渋るどころか、1ヶ月足らずで駿府城から江戸城へ移動を完了してしまいます。単なる個人の引越ではなく、今で言うと本社が移転するようなものですから、上も下も大騒ぎのはず。秀吉も驚くほどの早さで、家康は移転を決行します。

 

もちろん、そこには家康ならではの考えがありました。

この続きは、次回に続きます。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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