カテゴリー別アーカイブ: 会社の統治基盤

日本の首都を作った徳川家康(前編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑨

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。8回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

8回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったことを申し上げたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

日本の首都である東京は、世界的にもたぐいまれな街です。2017年の「世界の総合都市ランキング」でも、ロンドン、ニューヨークに次いで3位に入りました。首都圏(ほぼ関東地方)の人口は3600万人であり、日本の人口の3分の1が集まっています。

 

しかしながら、東京の中心部は、400年あまり前はほとんど人の住んでいない湿地帯だったのです。大きな河川の河口が集中しているため、大雨が降るとすぐに氾濫してしまい、まともな農業も営めないような地域でした。

 

しかし、そんな誰も省みないような土地に大きなポテンシャルを見いだして、今の東京に至るような開発を始めたのは、何を隠そう徳川家康だったのです。

 

 

織田信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りによって没した後、その後を乗っ取りに近いやり方で承継した秀吉が柴田勝家との戦いに勝利して、天下の事業は豊臣(当時は羽柴)秀吉が進めることとなります。徳川家康は、豊臣秀吉と当初は対立して「小牧・長久手の戦い」で勝利しますが、最終的には秀吉に臣従して、秀吉の天下統一事業に協力することとなりました。

 

その総仕上げである「小田原征伐」(関東地方を制圧していた北条氏を攻め滅ぼした戦い)に徳川家康も従軍し、いよいよ北条氏の本拠地である小田原城も落城目前となったある日のことでした。

 

小田原城を見下ろせる丘へ、秀吉が家康を散歩に誘いました。

はるかに関東平野が遠望できる丘の上に立ち、風景を眺めながら(一説には、立ち小便しながら、ともいいます)秀吉は家康に話しかけます。

 

「徳川殿、このたびは格別のおん働き、まことにご苦労でござった」

「いえいえ、滅相もござらぬ。全ては上様のご威光でございましょう」

「ここから見ると、関東は広いのう。どこまでいっても真っ平らだのう」

 

ひとしきり雑談を交わした後で、秀吉は家康に申し渡します。

「この関八州、貴殿に差し上げる。いかがかな、徳川殿」

驚く家康に、秀吉は間髪入れず念を押します。

「その代わり、これまでの領地は召し上げる。よろしいな?」

 

こうして、徳川家康は先祖代々受け継いだ三河の地から、関東に移ることとなりました。

 

領土は、これまでの5カ国150万石から250万石と、価値は飛躍的に上がったわけです。1石は、成人一人を養える米の量を表すので、一気に250万人まで養うことのできる領土を得たということになります。

 

しかしながら、この移封にはメリット、デメリットそれぞれあり、秀吉としては下記のデメリットで家康の力を落とそうとした密かな狙いがありました。

 

・先祖代々からの土地から移すことで、領民との良好な関係を切り離す

・年貢(税金)が安く領民との関係がよかった北条氏の領土に移すことで、家康の統治をさせにくくする

・秀吉が家康に「与えた」土地に住まわせることで、家康との主従関係をはっきりさせる

・江戸は、その石高とは裏腹に洪水が多く人が住みにくい土地である

・家康を箱根の向こうへ追いやり、東海道沿いに豊臣秀吉の恩顧が深い大名を配置して、家康を関東に「封じ込め」る

 

先祖が自ら切り開いた土地を受け継いでいる大名は、その地において特別な存在となります。例えば、薩摩(鹿児島)の島津氏は、鎌倉時代から続く名門であり、家臣や領民から神のように崇められていました。豊臣政権においては、もちろん島津氏は政権に臣従しているものの、秀吉から土地を与えられたわけではないので、秀吉に取り立てられた大名とはその存在感や秀吉への忠誠心が全く異なります。

そして、代々住んでいるわけですから、住み慣れていて愛着もある、ということもあります。慣れない土地は行くのは、誰でも不安ですし、不便なものです。

例えば、織田信長の三男である織田信雄は、小田原征伐の後で尾張(愛知県西部)から徳川家の三河(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)へと国替えになりましたが、先祖代々の尾張を離れるのを嫌がって断ったため、秀吉の怒りをかって領土を全て没収されてしまいました。

 

まして、当時家康が本拠地としていた駿河国(静岡県東部)の駿府城(静岡市)は、家康が幼少期に人質として過ごした地です。ここに支配主として凱旋したわけですから、格別の思いがあったはず。現に、織田信長から武田攻めの軍功として駿河国を譲られた後、すぐに駿府城へ本拠地を移しています。並々ならぬ思い入れがあったと思うのです。

 

また、関東を代々治めていた北条氏(鎌倉時代の北条氏とは血縁がないため「後北条氏」とも呼ばれる)は、年貢率が低く、善政を敷いていたため領民からの評判もよかったことも、家康にとっては不利になります。

北条氏は、小田原の防衛のために、あえて江戸のあたりの洪水を放置していたというのもあります。越後国(新潟県)や常陸国(茨城県)から攻め下ってくる上杉謙信や佐竹義重は、江戸の湿地帯を避けなくてはならないため、小田原城へ攻め寄せることを躊躇せざるを得ませんでした。

従って、実質的には250万石の価値はなかったと思われます。

 

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した後、尾張国に子飼いの家臣である福島正則を置くなど、東海道の各地に忠誠心の高い部下を配置して、家康を完全に封じ込めます。

 

以上のデメリットをみて、皆さんはどう思いますか?関東へ移るか移らないか、例えばSWOT分析などすると、移らない方がいい、というのが正解になりそうですよね。

 

ところがです。

 

徳川家康は秀吉からその命令を受けた後、織田信雄のように渋るどころか、1ヶ月足らずで駿府城から江戸城へ移動を完了してしまいます。単なる個人の引越ではなく、今で言うと本社が移転するようなものですから、上も下も大騒ぎのはず。秀吉も驚くほどの早さで、家康は移転を決行します。

 

もちろん、そこには家康ならではの考えがありました。

この続きは、次回に続きます。

 

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後継者の学校

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武田勝頼に見る統治基盤の大事さと恐ろしさ|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑦

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

6回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

6回目は、武田信玄亡き後、信玄の事業を継いで織田信長や徳川家康と戦って滅亡した武田勝頼の敗因を分析して、当時も今も後継者が存分に力を発揮するためには、「統治基盤」が大事であることをお伝えしたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、第4回目で申し上げたとおり、織田信長と協力して武田信玄と戦って敗れました。しかし、信玄はその後まもなく病気でこの世を去り、武田軍も甲府へと撤収します。

その後を継いだのは、信玄の四男である武田勝頼でした。

武田勝頼は、これまでの一般的な評価としては、戦闘能力には長けているものの、武田家をまとめる力はなく、親類や家臣たちに背かれて武田家を滅亡させた張本人とされてきました。

しかしながら、実は大名として優れた資質の持ち主であり、信玄の事業を継いだ当初は信長や家康との戦いに勝ってさらに領土を拡大し、信長や家康は「極めて優れた後継者である」と警戒していたことが、記録の丹念な読み込みによって最近明らかにされてきました。

しかし、それもそのはずです。人材を見極めることについては人後に落ちない信玄が後継者に抜擢したのですから、優れていないわけがないのです。

実は、武田勝頼の時に、武田家の領土は最大になるのです。

しかしながら、長篠の戦いで有力な家臣を一気に失った後、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いで次第に押されていき、ついにはあっけない最期を迎えることになります。

織田信長は、勝頼の滅亡後、「優れた武将であったけれども、不運であった」と評したそうです。

「不運」とは、どういうことでしょうか。

 

皆さんは、「統治基盤」という言葉をご存じでしょうか。
英語では、「governance(ガバナンス)」と言います。
権力を振るうための拠って立つ基盤、ということになりますでしょうか。
要は、「部下はなぜその上司の命令に従うのか」ということです。

統治基盤、いわゆるガバナンスというのは、実は極めて複雑でして、時代、状況、人間関係、その他様々な要因で決まってくるのです。
株式会社で言えば、これは極めてシンプルでして、株式を最も多く保有している株主の支配力が最も強いわけです。
ただし、その株主に対して人間力で影響力を与えられる人がいるとすれば、その人のガバナンスも無視することはできないでしょう。
このように、統治基盤というのは、普段はあまり意識されないのですが、組織の命運を分ける状況においては極めて大きな要素となります。

戦国時代であれば、「家臣たちは、なぜその大名の命令に従って命を懸けて戦うのか?」ということが、統治基盤であると言えるでしょう。

実は、武田勝頼の資質は極めて優れていたのですが、その統治基盤が脆弱でした。

「武田家」は、武士にとって極めて高貴な血筋である「清和源氏」の嫡流(本流)であり、要するに武士の「貴族」でした。会社で言うと、古くから続く「老舗」のようなものですね。
老舗なので、たとえ親族であっても他の家に養子に行った者は武田を継ぐことができない、という暗黙の了解がありました。

 

実は、武田勝頼は諏訪家の養子となって、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
諏訪家は、信玄が滅ぼした大名ですが、諏訪大社の神官を務めており、信濃国においては絶大な権威があったので、勝頼が養子となって継ぐことで信濃国と武田家との結びつきを強くしようと信玄は考えていました。

武田信玄には、長男である武田義信がおり、彼が武田家を継ぐことが決まっていました。義信は今川義元の娘を妻としてめとることで、武田と今川の同盟を強めていました。

このように、武田信玄は婚姻と養子で周辺国との結びつきを強めて、武田家の外交関係を安定させようと苦心していたのですが、そこに驚天動地の出来事が起こります。

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
この出来事が、武田家に大きな波紋を呼ぶことになります。

武田信玄は今川家が衰退すると見て、織田・徳川連合軍に今川が滅ぼされる前に、領地を乗っ取ろうと企みますが、義信から強硬に反対されます。妻の実家を攻めるなどとんでもないと。
武田の家中を二分させる騒動に発展しそうになったため、信玄は義信とその関係者を切腹させて粛清します。
これを通称「武田義信事件」といいます。

義信がいなくなったため、武田信玄はやむなく武田勝頼を跡継ぎとします。しかし資質には全く問題ないとはいえ、勝頼は既に武田家から見ると外様である諏訪家にいったん出されているため、「出戻り」となります。出戻りが後継者となることは、武田家では御法度でした。

従って、武田信玄は自分の正式な跡継ぎは武田勝頼の嫡男である武田信勝(武田信玄の孫にあたる)とし、勝頼はその後見人であると遺言に残すという苦肉の策をとります。つまり、武田勝頼は正式な跡継ぎではなく、その後見人というのが形式的な地位であったため、必然的に武田の家中から軽んじられることとなってしまいました。

要するに、武田信玄が今川の領土を欲したことが、結局は武田家の弱体化を招くこととなったと言えるでしょう。

武田勝頼は、それでも勝ち続けている間は家中を治めることができましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は次第に親類や家臣から背かれるようになります。

そして信玄の後を継いで10年足らずで織田信長の「甲州征伐」により、武田家は親族や譜代の家臣の裏切りや逃亡であっけなく崩壊し、わずか1ヶ月足らずで惨めに滅亡してしまいました。

どんなに後継者の資質が優れていたとしても、それを支える統治基盤が不安定であれば、人からの支持が得られず後継者はその能力を発揮することはできないのです。それが、統治基盤の恐ろしさです。

それを、すぐそばの敵として近くからつぶさに見ていた徳川家康が、学ばないわけはありません。

徳川家康は、資質は平凡でしたが、状況から考えて一番承継するのに無理のない秀忠を後継者に定め、その周りに自分の一番の腹心の家臣を補佐として置きました。
また、秀忠の跡継ぎについても、親から寵愛されていた次男ではなく、長男である家光を定めるように秀忠に命じます。跡目争いを起こさせないようにするためでした。
それだけではなく、直系の子孫が断絶することも考慮して、尾張藩(愛知県西部)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)に親藩(徳川家の親戚)を置き、直系が途絶えた場合にはその藩から跡継ぎを出せるように定めました。いわゆる、リザーブですね。
できるだけ血筋を絶やさないことで、徳川家の統治基盤を守ろうとしたわけです。
このような家康の苦心により、徳川幕府は15代まで続く長期政権となったのですね。

統治基盤は、いざというときに巨大なリスクを発生させる可能性があります。会社で言えば、株式をどれだけ持っているか、ということは経営者や後継者の手腕には全く影響しませんが、手腕を発揮するための前提としては極めて重要となります。株主総会で過半数の決議があれば、どんなに優れた経営者であっても、解任されてしまうのです。

従って、経営者のみならず組織を掌握しようとする人は、必ずその組織における統治基盤を見極めて、それを完璧に掌握する必要があります。逆に言えば、統治基盤を熟知して掌握してしまえば、トップでなくともその組織を動かすことができてしまうのです。
いわゆる「フィクサー」とか「陰の実力者」と言われる人たちがいますが、彼らはたとえ表向きはトップでなくても、その組織を意のままに動かせます。なぜなら、彼らは統治基盤を完璧に握っているからです。

統治基盤は、株式に限られず、人事を動かす力とか、取引先を引っ張ってくる力であるとか、一概に定義することはできません。組織の置かれている環境、制度、人間関係、財産、様々な要素によって柔軟に変化します。
株式会社であれば、株式を多数(できれば全部)掌握しておけば、統治基盤のリスクをかなり低くすることができます。

統治基盤の掌握、これは事業承継の最重要なテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

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止まらない製造業の不正

経営者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年もあと二か月足らずとなってしましました。

異常な暑さと寒さが交互に訪れた10月も、連続して二つの台風が、列島に大きな被害を残して走り去っていきました。

台風に引き込まれた寒気をともなって、木枯らし1号が吹き荒れ、晩秋の装いが増していく時期になりました。

これからは、だんだんと寒さが増して冬に向かっていくこの時期に、もっと寒いニュースが駆け巡っています。

ニュースの源は、神戸製鋼、日産自動車そしてスバルも加わりました。

神戸製鋼は供給するアルミ・銅製品、鋼板など供給先が500社以上に及び各社での品質検査に係る賠償等の経費が膨大になり決算見込みが立たない事態になっています。

日産自動車は、先月末から国内向けの全車種の製造を中止していましたが、製造再開を発表した途端、今日は、検査員の試験での不正が報道されました。

スバルでも無資格検査対応に100億円の追加費用が見込まれると発表しています。

今年を振り返ってみると、私のブログの題材に大企業の不祥事が度々取り上げることになってしまいました。

最初は、フォルクスワーゲンでした。その頃は、日本の製造業は大丈夫、「他山の石」とすべしと思っていましたが、相前後して、旭化成、東芝、神戸製鋼、日立、スバル・・・。

日本の製造業は、大丈夫なのでしょうか?

と考えてみると、フォルクスワーゲンを含めたこれらの企業は全て世界を舞台に戦う世界企業なのです。

世界企業のなかに、我が日本の企業が名を連ねるのは当然なのですが、できればこんな形でない方がよかった。

世界市場で戦う大企業で相次いで起こる不祥事、それも皆企業の存続さえも危うくしかねない深刻な影響を及ぼす事態にまで追い込まれることになるにも関わらず。

「優秀な(であるはずの)企業トップにそのような顛末に思いが至らないはずはない。」はずなのですが・・・。

世界企業の戦場は、「花形商品」をもたらす最先端技術にしのぎを削る一方で、その財源は「金のなる木」である主力商品から供給される資金による構造になっていると言えます。

主力商品の市場は、商品としては成熟しているがゆえにコモデティ化が進み、厳しい価格競争にさらされています。

その製造現場では、当然のようにコストダウン圧力が強くなってきます。

考えてみれば、先にあげた世界的製造業の問題は、製造部門でいえば直接利益を生み出さない「コストセンター」である検査部門における不正であることに気が付きます。

結局、最大の固定費、人件費が最大の削減対象になった結果が今の事態です。

「最先端の生産設備と最先端の生産技術があれば、最先端の製品となる。従って、検査は不要、コストそのものでしかない。」実に論理的です。しかし、その目線の先は、工場の門までしか届いていません。

品質には、工程の設計にあたって目標とする最も高い品質である設計品質、製造にあたり標準となる製造品質、使用にあたり標準となる仕様品質、メーカーが消費者に対し保証する保証品質があります。

当然、設計品質が一番厳しくて、一番低い保証品質が全ての製品で確保されるように製造品質の最低ラインに品質検査基準が設けられていて、使用品質が確保される仕組みになっています。

だから、メーカーは保証品質を確保できる(はずな)のです。

このように、品質管理の視線は、工場の門の更にその先にある顧客が評価する品質(知覚品質)までも届かせるものなのです。

わが日本のものづくりに話を戻すと、江戸末期から黒船来訪に始まった世界デビューは、イタリア、中国との絹糸市場競争において、当時日の出の勢いのアメリカ市場での圧倒的勝利からの紆余曲折を経て、現在の地位を築くに至ります。

それは、アメリカ市場向けに太く改良された製糸と富岡製糸場で知られる上州座繰による生産性の向上であると言われています。
問題があるときこそ、初心に戻れとよく言います。

フォルクスワーゲンはともかく、日本のものづくりの原点は、知覚品質までを見据えた生産工程管理にあると言えるのではないでしょうか。

雑誌「致知」に坂村真民のこんな詩がありました。
期待を込めて紹介します。

しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
どこまで書いたら
気がすむか
もう夜が明けるぞ
しっかりしろ
しんみん

(「坂村真民が目指したもの」西澤孝一(坂村真民記念館館長)、横田南嶺(臨済宗円覚寺派管長)による対談【致知】2017.12)

いい詩ですね。自戒を込めて・・・。

 

人生の後半を考える

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

少し前、休日というのに年寄りの常で早起きした朝、NHKのインタビュー番組を何気なく見ていました。
ジャズシンガー織戸智恵さんが出演していて、自分のこれまでを振り返るという内容だったと思います。何気なく眺めていた番組の最後に、60歳になった自分のこれからをお話になった言葉の内容に感動しました。

『(今まで一生懸やってきて、皆さんのおかげここまで登ってこられた)これからは、人生の下り坂をしっかり、ゆっくり降りて行こうと思う。やる気というのは体重計に乗ってもわからない、だから、齢をとってもいくらでも、やる気をもてる。(後から来る人のために)「私を見なさいと」言ってあげたい。そう言えるように頑張りたい』
ジャズシンガーとして、アメリカや日本で活躍する一方で、シングルマザーとして子育て、最近では、お母さんの介護を懸命に、しかも明るくなさっている姿でマスコミに登場したりしていらっしゃいます。

普通、このうちのひとつだけでも大変だろうと思うのですが、自分に与えられた役割を、やり抜いて行こうとする強い意思とやりきった自信、彼女の人生観が見えてきて、爽快感を覚えます。

「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」

私が、高校1年生の体育祭で知った言葉を思い出します。(孟子だそうですが)
北海道小樽市にあるその高校では、体育祭はクラス対抗の「ムシロ旗」作品展がありました。

ムシロ旗と言えば、江戸時代の農民一揆を思い出す方もいると思いますが、我が校のムシロ旗は、8畳分の畳をつなぎ合わせ、カラフルな絵と共にクラスの主張を書き、やぐらを組んで立て、絵もさることながら、その主張で自分たちの心意気を示すのです。

初めての体育祭で上級生のあるクラスが立てたムシロ旗が「千万人と雖も、我往かん」
未来へ向かう私の胸に響く言葉でした。

単身アメリカに渡ってジャズの世界に飛び込んだ織戸さんも「千万人と雖も、我往かん」と希望と不安の人生を踏み出したのでしょう。(私もそのはずでした)
そして、子供を育て、介護を続け、人生の終盤近くになって「ゆっくり下っていく私を見なさい」というと言える人生は、絶対に充実しているものに違いありません。

遥かな夢と強い意思をもって歩み始めた道が、そろそろ終わりを迎えようとするとき、終わり方を考えることはとても大切だと思います。
終わり方はそれまでの人生があってこそなのですが、人生の終わりに臨む自分の姿を考えて進んでいくのも人生です。
社長ならずとも誰しも、せっかく頑張ってきた自分の人生の下り坂を堂々と下る姿見せられるようになりたいものですね。

充実した人生を後に続く人に示すのも、先に歩む人の責任でもあります。

「人を見るにただその半截を見よ」(人生は、後半が大事)は菜根譚の言葉ですが、終わりよければすべてよしとも言いますが、終わり方がとても大事です。
私といえば、志の竜頭蛇尾と言われないためにも、人生の終わりをもう少し先延ばしするしかないかもしれません。残念ながら。

 

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籠池夫妻逮捕で考える補助金で注意すべきこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

森友学園を巡る国の補助金を不正受給したとして、逮捕された籠池夫妻が、大阪府の補助金の不正受給で再逮捕されました。罪状は、どちらも詐欺罪だとのことです。

詐欺罪は、刑法に定めがあり、ご存じのように刑事罰が科せられます。

(刑法第246条)
1.人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2.前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

人をだまして、お金を手に入れたのですあれば、詐欺罪罰せられて当然ですよね。

ご本人たちの群を抜いたユニークさ?はともかくとして、私たちがお世話になる補助金の使い方を「罰則」という切り口から考えてみるのも経営者として必要なことです。

籠池夫妻の場合は、「詐欺」という刑法に定める罪ですが、経営の現場でお世話になる「ものづくり補助金」(革新的ものづくり・商業・サービス開発支援補助金)や「持続化補助金」(小規模事業者持続化補助金)などの国の補助金制度を規定する「補助金適正化法」(補助金等にかかる予算の執行の適正化に関する法律)にも、籠池夫妻のような(というより、詐欺とまでは言えないような)不正を罰する規定があるのをご存じでしょうか。

そのうち、特に私たちに関係がありそうなものを見てみましょう。

 

第29条  偽りその他不正の手段により補助金等の交付を受け、又は間接補助金等の交付若しくは融通を受けた者は、五年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

2  前項の場合において、情を知つて交付又は融通をした者も、また同項と同様とする。

 

量刑は、5年と刑法よりは軽いですが、罰金百万円も合わせて課せられる可能性もありますし、不正を見逃した方も罰せられる可能性があるのです。(役人が厳しいのも理由がないわけではないんですね)

罰則規定は次の条文にも、

第30条  第11条の規定に違反して補助金等の他の用途への使用又は間接補助金等の他の用途への使用をした者は、三年以下の懲役若しくは五十万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

とあります。第11条は、「目的以外に使ってはいけない」と規定されています(長いので引用はやめておきます)。すなはち、目的以外のものに使うと、懲役3年、罰金50万円なのです。

次は、

第31条  次の各号の一に該当する者は、三万円以下の罰金に処する。

一  第13条第2項の規定による命令に違反した者

二  法令に違反して補助事業等の成果の報告をしなかつた者

三  第23条の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、検査を拒み、妨げ、若しくは忌避し、又は質問に対して答弁せず、若しくは虚偽の答弁をした者

 

なんか軽い感じですね。3万円の罰金ですから・・・。でも、念のため、第1号にかいてある第13条を確認すると、

 

第13条  各省各庁の長は、補助事業者等が提出する報告等により、その者の補助事業等が補助金等の交付の決定の内容又はこれに附した条件に従つて遂行されていないと認めるときは、その者に対し、これらに従つて当該補助事業等を遂行すべきことを命ずることができる。

2  各省各庁の長は、補助事業者等が前項の命令に違反したときは、その者に対し、当該補助事業等の遂行の一時停止を命ずることができる。

となっていいて、きちんと事業を進めていなかったら、補助金の執行停止を命令するし、それでも聞かなかったら罰金ですよということですし、第2号、第3号は、報告書をキチンと出さなかったり補助金の調査に非協力的だったりした場合も罰金ですということを言っているわけでして、結構厳しい罰則が用意されているんです。

 

このほかにも、この法律には罰則が続いていますが、県や市町村から交付される補助金ももともとの財源が国の補助金である場合がほとんどですから、皆さんは間接補助事業者としてこの法律の縛りを受けることになります。

補助金の申請や交付の段階で、籠池さんのように大胆に振舞える大物?はそう多くはありませんが、事業が終わったときの説明が十分でなかったり、事業の成果と補助目的との関係がうまく説明できなかったりすることは、起こりうることです。罰金とまではいかなくとも、最終的に補助金返還や経費の一部や全部が補助目的にそぐわないとの判定がくだされて、結局、補助金が下りなかったということもあるのです。お金を使ってしまった後に、あてにしていたお金が来ない、つまり、結局、すべて自腹ということです。

「創業・事業承継補助金」もそうですが、補助金を上手に活用するには、補助目的との整合を考えたり、上手に説明したりと経験やノウハウの必要になったりするのです。

このような時流の事も押さえつつ
事業承継においては

本質的なことをしっかりと押さえておかなければ
大火傷をします。

大切なことは後継者の学校で。

後継者の学校
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事業承継と遺言

今回取り上げるテーマは遺言です。具体的な事業承継のケースを踏まえ,遺言の基本的なところや裁判例のお話をさせていただき,遺言についての理解を深めていただければと思っています。

 

第1 はじめに

こんにちは。後継者の学校,パートナーの佐藤祐介です。

今回,私は,後継者の学校のブログとは別に長めの記事を描かせていただきました。

その記事は,後継者の学校のHPでご覧いただけると思いますが,本ブログでは,そのダイジェスト版として,掲載させていただきます。

今回のテーマは遺言ですが,法的な話をする前に,2つのケースを紹介します。一澤帆布とニトリのケースです。

いずれも相続の場面で,遺産分割協議書や遺言の有効性が争われ,裁判にまで発展しました。

これらのケースで,もし仮に遺言について,適切な対応をしていれば,ここまで大きな争いに発展していなかったかもしれません。

 

第2 遺言の基本的内容

では,遺言の基本的内容です。

まず,遺言を作るメリットですが,遺言者の希望に沿った財産分配の実現とスムーズな相続の実現にあります。

また,遺言の種類としては,大きく分けて普通様式と特別方式というものがありますが,後者はあまり見かけることが無いと思いますので,今回は普通方式の遺言に焦点を絞ります。

普通方式遺言の種類は3つで,自筆証書遺言,公正証書遺言,秘密証書遺言です。

それぞれにメリット・デメリットがありますが,公正証書遺言を用いることをおすすめします。

たしかに,この公正証書遺言は,作成するにあたって手数料がかかりますが,その作成においては公証人という法的知識を有する専門家がチェックをするため,方式・内容について不備が発生するリスクが低くなるからです。

とはいえ,公正証書遺言であっても,遺言者が作成時に遺言能力,つまり有効に遺言を作成できる能力を有していなければなりません。

高齢者人口が進む中,近時,高齢者が作成した公正証書遺言について,その遺言能力の欠如から,遺言が無効であると判断される裁判例が見られます。

その1つとして,東京高裁平成25年8月28日判決というものがあります。

 

第3 最後に

以上,駆け足ではありましたが,ダイジェスト版をお届けしました。

より具体的な記事をご覧になる場合には,こちら(後継者の学校 佐藤祐介のコラム 事業承継と遺言)をご覧ください。

そして,この記事が,事業承継に望む方々の「技」の醸成に少しでも役立っていただければ幸いです(この「技」というのは,後継者が養うべきポイントとして後継者の学校が考えるものです。全てで3つあり,「心」「体」「技」となります)。

なお,遺言は事業承継における有効なツールではありますが,これだけで全てを解決できるものではないことは言うまでもありません。

上記事案では,たとえば,人的要因が鍵になっていたかもしれません。この点,後継者の学校では,事業承継に取り組むにあたって多角的な視点を養う場を提供しており,後継者の方々が事業承継に向けたロードマップを形成できるようなお手伝いをさせていただいています。

以上

 

歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(3)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密を、今回もまた続けて考えたいと思います。

 

前回、石田三成の挑戦を探る鍵が、当時の三成をはやした次の歌にあると申し上げました。

「治部少(じぶしょう・三成のこと)に 過ぎたるものが二つあり

島の左近に 佐和山の城」

 

「島の左近」、島左近は前回申し上げましたね。

今回は、「佐和山の城」です。

 

「佐和山の城」とは、現在の彦根市にある佐和山城のことです。城は現存していませんが、城跡が彦根城のすぐそばにあり、電車の車窓から眺めることができます。城跡といっても、単なる山なのですが。

 

もともとは六角氏や浅井氏の城だったようです。秀吉の時代になって、三成が佐和山19万石の領主を任されて、佐和山城に入りました。

 

石田三成は、城主になってすぐに、佐和山城を徹底的に改修します。改修どころか、ほとんど別の城に作り替えます。

標高が232mもある山の上に、5層(5階建て)もの大天守を築くのです。

 

秀吉の築いた大坂城、徳川家康が徳川幕府を開いてから築いた江戸城も、それぞれ天守は5層でした。

19万石ごときのちっちゃな大名が築くような規模の城ではありません。だからこそ、「過ぎたるもの」と歌われたわけですね。

もちろん、三成にはそれだけの大きな城を作った目論見がありました。

 

彦根市をGoogle mapなどで見てください。

地形がわかる地図だともっといいのですが、岐阜から滋賀県へとたどってみると、関ヶ原付近は南北の山に挟まれていて、滋賀県に入ると平地が広がるような地形になっていますね。

彦根は、関ヶ原を通り抜けて平地に入ったすぐのところに位置しています。

 

岐阜方面から滋賀県を通って大阪に攻めてくるような敵は、大軍であるほど関ヶ原を通らざるを得ず、その関ヶ原を過ぎると彦根に突き当たります。

ここに強力な要塞を作れば、関ヶ原に敵を封じ込めることができます。

 

豊臣秀吉が、石田三成を佐和山城に入れた理由がわかりますね。また、三成も自分の役割を十二分に理解していました。

仮に徳川家康が大軍で攻めてきても、持ちこたえられる城を築いたわけです。

 

また、当時の城は単に敵が攻めてきたときにこもる「軍事目的」だけのものではなく、内政や外交の拠点であり、かつ城の周りには「城下町」ができるため、経済の中心としての機能も果たしていたわけです。

 

特に、佐和山城は日本の五街道の一つである「中山道」に面していて、旅人の往来が多い場所でした。そこに見上げるような立派な城がそびえ立っていると、いやでも人目につくようになります。当時は、みな徒歩で旅をしていましたから、道中は退屈なんですね。立派な建造物があると、ついつい見とれてしまうわけです。「なんて、すごい城なんだろう!なぜ、こんな鄙びた場所にこんな立派な城があるのか!」と。

その評判は人から人へと伝わり、ついには世間の評判になります。世間の評判が高くなるにつれて、佐和山の人たちは佐和山城を誇りに思うようになり、また石田三成への忠誠心も高くなるのです。

 

関ヶ原の合戦のあとで、石田三成の領地を任された井伊直政(徳川家の重臣)は、その佐和山城を使わずにこれを徹底的に破壊して、改めて新しく彦根城を築きました。おそらく、石田三成への領民の思いを消すためでしょうか。いかに、佐和山の人たちが佐和山城を誇りに思っていたか、石田三成を信頼していたかがうかがえるエピソードです。

 

さらに石田三成が徹底しているのは、城の外観が立派であるのに対して、内装は極めて質素だったことです。内壁を塗ることもなく、床は板張りで、庭にも大したお金をかけていませんでした。まさしく実用一点張りの城だったのです。城内に金銀の蓄えもほとんどありませんでした。いかに、三成が自分のためではなく、豊臣秀吉に尽くすため、あるいは領民のためにお金を使っていたかがわかります。

 

この佐和山城があるおかげで、徳川家康の行動も大きく影響を受けます。城を攻めるのを極端に苦手としていた家康は、関ヶ原の合戦の直前に石田三成が大垣城に籠もっていたことをみて、より強固な佐和山城へ籠もられないように、大垣城を迂回して佐和山へ向かいます。それを見た石田三成がそうはさせじと家康を先回りすることで、関ヶ原で戦いが起きることになるわけです。

 

石田三成は、自分に足りないところ、また自分がするべきこと、準備することをよく心得ていて、そのためだけにお金を使ったのです。すなわち、「人」と「器」に投資したわけですね。立派な武将と城を持つことで、石田三成の力量に対する世間の信用力はぐんと上がりました。

 

島左近を招き、佐和山城を築いた石田三成は、どのように家康に挑戦したか、それをさらに見ていきたいと思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校 http://school-k.jp/

相続の法的基本①

後継者の学校パートナーで弁護士の佐藤祐介です。

これまで「相続」に関する法的知識についてあまり取り上げてきませんでした。ですが,事業承継を行うための前提となりますので,改めてここで書いておきたいと思います。

1 はじめに

久しぶりの記事になります。

今回は,相続の法的知識に関する基本的なところを書いていきます。事業承継とは,必ずしも相続とはイコールではありませんが,とはいえ相続の話も避けては通れません。

そのため,これまで当然に相続の話が出てくることもありましたが,よく考えてみると,相続そのものの話をしたことはありませんでした。ネット上には相続や事業承継に関する色々な記事が存在しますが,中には,この記事が相続や事業承継に関するページとして初めてご覧になってくださっている方もいらっしゃるかもしれません。

なので,今回は,相続に関する記事を書くことにしました。

2 相続とは

相続とは,①亡くなられた方が②残した財産を,③残された方々が,④承継すること,をいいます。

①から④は説明の便宜で付けました。まず①について,これは言うまでもなく,亡くなられた方を指します。このような方を,「被相続人(ヒソウゾクニン)」といいます(これに対して,財産を承継する側を「相続人(ソウゾクニン)」といいます。)。

次に②について,相続の対象となる財産を「相続財産」と呼ばれます。これは,被相続人(おさらいすると,亡くなられた方のことです。)のプラスの財産のみならず,マイナスの財産も含まれます。なので,土地や預貯金等だけでなく,借金なんかも含まれることになります。

そして,このプラス財産の中に,株式の含まれることになるので,これが事業承継の際にポイントになってくるのです。

ちなみに株式がなぜプラスの財産として相続の対象になるのか,ご説明します。

たとえば,時価1000万円の土地を,あなたが100%所有している場合,あなたは,1000万円の価値を持っていると評価されます。

これを疑う人はいないと思いますが,その根拠は,土地を「所有」していることにありますが,株式も同じような発想をします。

つまり,株式とは,土地で言うところの「所有」を表しているので,あなたがA社の株式全て持っていることにより,A社の価値を全て所有していると同義になるのです。

そのため,株式がプラスの財産として見られるのです。なお,上記説明はかなりざっくりとしたものであることはご了承ください。

3 最後に

このように,亡くなられた方のプラスマイナスの財産を,③残された方々に,④承継していくことになるのですが,③④の点は次回にまた書いていきたいと思っています。

なお,後継者の学校では,今回私が書いた記事に限らず,広い視点から,後継者が事業承継をするにあたり不可欠な知識を分かりやすく学ぶことができます。

興味のある方は,お気軽にHPをご覧になったり,各パートナーにお声がけいただければと思います。

また,後継者の学校では,各パートナーが後継者となる又は今後なるかもしれない方々に,無償で「後継者インタビュー」というものを行っています。

(詳しくはhttp://school-k.jp/interview/ をご覧ください。)

後継者の方々にとって「気づき」の場面となるとして,これまでに多くの方々から好評をいただきました。こちらも興味が湧いた方は,お気軽にインタビューをご検討ください。

 

Photo credit: Finn Frode (DK) via VisualHunt / CC BY-NC-SA

電通強制調査で考える

後継者の学校パートナー、中小企業診断士の岡部眞明です。

女性新入社員の自殺に端を発した長時間労働問題で大手広告会社の「電通」に強制捜査が入りました。電通では、過去にも同様の過労死の事案があったそうで、厚生労働省は度々是正勧告を行っていたにもかかわらず、今回の事件があり、電通の本社だけでなく、関西・京都・中部の3か所の支社を対象として、厚生労働省の職員90人が投入する異例の規模での強制捜査となったと報道されています。

同じ日、社長は社員に対し、業務の分散化など働き方を変える必要があるとした上で、「直面する課題を共に克服しよう」と呼びかけたそうです。これに対して、電通の社員は「業務を見直さないで残業時間だけ厳しく(管理)するから、全部単純にサービス残業分(労働)時間が増えている。」「まず、労務管理をきちんとしてください。」と、批判的な発言をしているようです。

厚生労働省を含め、ここまでの関係者の意見や発言の前提は、労働者は自分の労働力を提供し、それを時間で評価して賃金という金銭をやり取りするという考え方が前提になっているように思われます。(これを、マルクスは、労働による人間の疎外と呼びました。)

また、働き方を変えるべきだという声もあがっています。いわく、「「サービス残業」をなくし、早く仕事を終えて家族とともに過ごす時間を大切にして自分らしい生き方をすべきだ。」と。

最もなお話で、反論の余地はありません。でも、ちょっと、この点について、経済学的に見てみましょう。

まず、家族とともに(恋人とでも)幸せな時間を過ごすには、少し多めのお金があるといいですよね。そのためには、仕事でできれば、多めの給料をもらえるといいですね。

そのためには、会社ができるだけ利益(≒粗利益、付加価値)があげる必要があります。

相当大雑把の議論になりますが、その源は

「資本量(=生産のための機械や工場など)+労働量(=労働者の数や労働時間)」①

といわれていました。

しかし、今日では、資本量と労働量に加えて、全要素生産性(TFP)が生産性を増す要素であることがわかっています。さらに、その内容について、アイディア、技術革新、労働の質などが挙げられています。

特に、豊富なアイディアや労働の質などは、陳腐化しにくく、持続的な成長をもたらすものといわれています。

今回の電通の場合は、残業を多くすることで労働量を増やし付加価値を得る一方、サービス残業という形でそれに見合う賃金を支払わずに、従業員ではなく会社に利益を留保していたことになります。

①で示した、資本量と労働量で生産性を考えると会社の利益(取り分)を多くするためには労働量に対する支払いを抑えた、会社の判断は、会社の利得を多くするという意味では妥当であるように見えます。

しかし、アイディアや労働の質についての配慮がなく、社員の自殺という最悪の結果を招いてしまったのです。

アイディアや労働の質といったものは、労働を「量」で測ったり、「時間」で評価する考え方とは別の発想から生まれるものではないでしょうか。それは、まったく人間的な営みから生まれるものであり、家族や恋人と過ごす時間と同様に私たちにとって大切なものであり、社会に貢献する重要な営みなのです。電通の社員の方が、会社に求めた「労務管理」は、単にサービス残業を減らすことではなく、社員一人ひとりが会社の業務を通じて社会に積極的にかかわることを意味していることを望みたいと思います。

特に、中小企業では、資本、労働について、質・量ともに十分に確保できない現実があることは、残念ながら否定できない現実があります。

アイディアや労働の質は、コストのかからない貴重な資産になるのではないでしょうか。

経営の4要素(事業戦略、財務戦略、人事戦略、統治基盤)についてバランスよく学ぶには後継者の学校がおすすめです。

http://school-k.jp/

後継者にまつわる小説あれこれ(その13)

novel

司法書士の木村貴裕です。

小説は気軽に読めて、でも何か気づきを得たり、力がわいてくることってありますよね。

ほんの少しでも何か感じてもらえそうなものをこれから少しずつ紹介したいと思います。

後継者の学校パートナーブログですので、もちろん後継者や事業承継に関するものを。

 

後継者の学校パートナーで司法書士の木村貴裕です。

私は通勤時間をもっぱら読書にあてております。

地下鉄なので外の景色を眺めても面白くもなんともないという理由もありますが。

 

経営書ではなくあまり肩のこらない小説ばかりなのですが、結構事業承継にからむ話もあります。

後継者や後継者候補の方に何か少しでも感じてもらえるものがあればと思い、今まで読んだ中から、後継者や事業承継に関係するものを何冊か紹介します。

 

今回紹介するのは、

 

「これは経費で落ちません! 経理部の森若さん」青木祐子 著(集英社)

 

タイトル、そして裏表紙に、「営業部のエースが持ち込んだ領収書には「4800円、たこ焼き代。」」とあったので、てっきり池井戸潤著の「不祥事」に登場する花咲舞のような女性が主人公の話かと勘違いしていました。

勝手な予想に反して、大変おとなしく波風を立てるのを嫌う女性でした。

 

主人公の視点を中心に、たまに他の登場人物の視点を交えて、社内の人間模様を描く作品です。

読後、主人公(のような女性?)に会ってみたいと思ったし、その先の物語が気になるというなかなか楽しめる作品でした。

 

が、しかし、どうも納得のいかない部分が多いのです。

 

本意ではありませんが、作品にけちを付けているように受け取られるだろうなぁというのを覚悟の上で申し上げると、

いくつか生じる問題の解決方法に「それで良いのでしょうか、森若さん。」と問いたい気持ちがわき上がってきます。

 

コンプライアンス上問題だ、と大上段にかまえるつもりはありませんが、今回は小さな問題かもしれないが、小さなほころびがやがて大きなほころびになりはしないかと不安になります。

 

「放っておいたら後々大きな問題に発展するかもしれない。ああ、社内のこのたるんだ空気をなんとかしたい。」と。

でもこの思いをストレートにぶつけるとどうなるのでしょうか。

 

実はここで考えたいのは、後継者が第三者的な目で社内を見ると、色々改善したいところが目に付き、それらに着手するも、社員からはどんどん浮いた存在になっていく。

正論を言い、正しい行いをしているはずなのに、皆からはうっとうしがられ疎外感を味わう。

 

そういう経験をされた後継者も少なくないのではないでしょうか。

 

この「将来的に問題になる前になんとかしたい。」という思いは間違っているわけではありません。

会社を少しでも良くしたいという気持ちは大切です。

 

でもそれを行動に移す前に知っておきたいこと、注意しなければならないことがあります。

 

後継者候補、もしくはもう後継社長となっているかもしれませんが、まだ会社に馴染んでいない浮いた存在のままで、ストレートに正論をぶつけても良い反応は返ってこないでしょう。

 

後継者の学校では、後継者や後継者候補のために、人・組織の問題や独自のリーダーシップ論など事業承継に関する幅広い内容のプログラムを用意しています。

 

ご興味のある方は、一度ご連絡下さい。

 

今回紹介した小説は、「風呂ソムリエ 天天コーポレーション入浴剤開発室」という話の続編のようです。

そちらも読んでみようと思います。

 

もしよろしければ、皆様も一度手に取ってみて下さい。

 

この話が少しでも何かのきっかけになれば幸いです。

後継者の学校
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後継者の経営、後継者の勉強、後継者主導の事業承継を学びたいなら「後継者の学校」へ

 

気になる方は、ぜひ一度、後継者インタビューをお試しくださいね。

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