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日本の首都を作った徳川家康(前編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑨

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。8回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

8回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったことを申し上げたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

日本の首都である東京は、世界的にもたぐいまれな街です。2017年の「世界の総合都市ランキング」でも、ロンドン、ニューヨークに次いで3位に入りました。首都圏(ほぼ関東地方)の人口は3600万人であり、日本の人口の3分の1が集まっています。

 

しかしながら、東京の中心部は、400年あまり前はほとんど人の住んでいない湿地帯だったのです。大きな河川の河口が集中しているため、大雨が降るとすぐに氾濫してしまい、まともな農業も営めないような地域でした。

 

しかし、そんな誰も省みないような土地に大きなポテンシャルを見いだして、今の東京に至るような開発を始めたのは、何を隠そう徳川家康だったのです。

 

 

織田信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りによって没した後、その後を乗っ取りに近いやり方で承継した秀吉が柴田勝家との戦いに勝利して、天下の事業は豊臣(当時は羽柴)秀吉が進めることとなります。徳川家康は、豊臣秀吉と当初は対立して「小牧・長久手の戦い」で勝利しますが、最終的には秀吉に臣従して、秀吉の天下統一事業に協力することとなりました。

 

その総仕上げである「小田原征伐」(関東地方を制圧していた北条氏を攻め滅ぼした戦い)に徳川家康も従軍し、いよいよ北条氏の本拠地である小田原城も落城目前となったある日のことでした。

 

小田原城を見下ろせる丘へ、秀吉が家康を散歩に誘いました。

はるかに関東平野が遠望できる丘の上に立ち、風景を眺めながら(一説には、立ち小便しながら、ともいいます)秀吉は家康に話しかけます。

 

「徳川殿、このたびは格別のおん働き、まことにご苦労でござった」

「いえいえ、滅相もござらぬ。全ては上様のご威光でございましょう」

「ここから見ると、関東は広いのう。どこまでいっても真っ平らだのう」

 

ひとしきり雑談を交わした後で、秀吉は家康に申し渡します。

「この関八州、貴殿に差し上げる。いかがかな、徳川殿」

驚く家康に、秀吉は間髪入れず念を押します。

「その代わり、これまでの領地は召し上げる。よろしいな?」

 

こうして、徳川家康は先祖代々受け継いだ三河の地から、関東に移ることとなりました。

 

領土は、これまでの5カ国150万石から250万石と、価値は飛躍的に上がったわけです。1石は、成人一人を養える米の量を表すので、一気に250万人まで養うことのできる領土を得たということになります。

 

しかしながら、この移封にはメリット、デメリットそれぞれあり、秀吉としては下記のデメリットで家康の力を落とそうとした密かな狙いがありました。

 

・先祖代々からの土地から移すことで、領民との良好な関係を切り離す

・年貢(税金)が安く領民との関係がよかった北条氏の領土に移すことで、家康の統治をさせにくくする

・秀吉が家康に「与えた」土地に住まわせることで、家康との主従関係をはっきりさせる

・江戸は、その石高とは裏腹に洪水が多く人が住みにくい土地である

・家康を箱根の向こうへ追いやり、東海道沿いに豊臣秀吉の恩顧が深い大名を配置して、家康を関東に「封じ込め」る

 

先祖が自ら切り開いた土地を受け継いでいる大名は、その地において特別な存在となります。例えば、薩摩(鹿児島)の島津氏は、鎌倉時代から続く名門であり、家臣や領民から神のように崇められていました。豊臣政権においては、もちろん島津氏は政権に臣従しているものの、秀吉から土地を与えられたわけではないので、秀吉に取り立てられた大名とはその存在感や秀吉への忠誠心が全く異なります。

そして、代々住んでいるわけですから、住み慣れていて愛着もある、ということもあります。慣れない土地は行くのは、誰でも不安ですし、不便なものです。

例えば、織田信長の三男である織田信雄は、小田原征伐の後で尾張(愛知県西部)から徳川家の三河(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)へと国替えになりましたが、先祖代々の尾張を離れるのを嫌がって断ったため、秀吉の怒りをかって領土を全て没収されてしまいました。

 

まして、当時家康が本拠地としていた駿河国(静岡県東部)の駿府城(静岡市)は、家康が幼少期に人質として過ごした地です。ここに支配主として凱旋したわけですから、格別の思いがあったはず。現に、織田信長から武田攻めの軍功として駿河国を譲られた後、すぐに駿府城へ本拠地を移しています。並々ならぬ思い入れがあったと思うのです。

 

また、関東を代々治めていた北条氏(鎌倉時代の北条氏とは血縁がないため「後北条氏」とも呼ばれる)は、年貢率が低く、善政を敷いていたため領民からの評判もよかったことも、家康にとっては不利になります。

北条氏は、小田原の防衛のために、あえて江戸のあたりの洪水を放置していたというのもあります。越後国(新潟県)や常陸国(茨城県)から攻め下ってくる上杉謙信や佐竹義重は、江戸の湿地帯を避けなくてはならないため、小田原城へ攻め寄せることを躊躇せざるを得ませんでした。

従って、実質的には250万石の価値はなかったと思われます。

 

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した後、尾張国に子飼いの家臣である福島正則を置くなど、東海道の各地に忠誠心の高い部下を配置して、家康を完全に封じ込めます。

 

以上のデメリットをみて、皆さんはどう思いますか?関東へ移るか移らないか、例えばSWOT分析などすると、移らない方がいい、というのが正解になりそうですよね。

 

ところがです。

 

徳川家康は秀吉からその命令を受けた後、織田信雄のように渋るどころか、1ヶ月足らずで駿府城から江戸城へ移動を完了してしまいます。単なる個人の引越ではなく、今で言うと本社が移転するようなものですから、上も下も大騒ぎのはず。秀吉も驚くほどの早さで、家康は移転を決行します。

 

もちろん、そこには家康ならではの考えがありました。

この続きは、次回に続きます。

 

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