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優れたヘッドハンターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑧

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

7回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

7回目は、前々回のファシリテーターとしての手腕に続き、ヘッドハンティングとしても優れた徳川家康の力量を見て見ます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取ったということを、第5回目のファシリテーターとしての徳川家康の回で申し上げました。第5回では、家康の人材育成力に焦点を当てましたが、実は外部からも人材を積極的にスカウトしました。織田信長や豊臣秀吉に比べると、地味であり目立たなかったのですが、これは三人の事情が違ったからです。

織田信長と、信長に仕えていた秀吉は、織田家の領土拡大が急速であったために、人材がいくらあっても足りない状況でした。いわば、急速に拡大する事業や会社で、人材不足が常態となっているようなものです。

従って、二人は必要に駆られて、人材を血眼になって常に探し求めていたわけです。

二人に比べると、初期の家康は着実な領土拡大をしていたため、育成重視でも間に合いました。しかし、家康も何度か、飛躍的に領土を拡大するチャンスに恵まれました。

一度目は、武田信玄と示し合わせて今川氏真を攻めたときです。このときに、遠江国(愛知県西部)を得ました。このときには、今川家から離反した遠江国の豪族たちを家臣としてスカウトしました。

二度目は、武田家の滅亡と本能寺の変の直後に、空白となった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を手に入れたときです。いわゆる、「天正壬午の乱」の時ですね。

このとき、徳川家康には強い思いがあって、長い間敵として戦った旧武田家の家臣たちを争うようにスカウトしました。

生前の織田信長は、家臣たちも含めて武田家を徹底的に滅ぼす政策をとりましたが、家康は優れた人材の宝庫と見て、武将と兵士たちを大量に召し抱えました。

武田の旧臣たちは、家康の四天王と呼ばれる家臣の一人である井伊直政に帰属して、装備も赤で統一され、「赤備え」と呼ばれるようになりました。武田家で最も勇猛とうたわれた山県昌景の軍勢が赤で統一していたのを、真似したのです。

井伊直政も、徳川軍団の切り込み隊長として、その勇名を天下にとどろかせることとなります。

また、家康の武田好きはこれにとどまらず、軍法まで全て徳川式から武田式に統一するまでに至りました。会社で言えば、営業手法であるとか、内部の規程などを全て買収した会社に合わせるようなものです。普通は、合併された会社が合併した方に合わせますが、家康は逆に武田に合わせたのです。

優れた軍法を採用することで、徳川軍の戦力をアップさせるというもくろみもありましたが、それ以上にスカウトした武田の旧臣たちが、存分に力を発揮できるように計らったということも理由の一つでした。

家康は、ヘッドハンティングにおいて、スカウトした人にむしろ組織を合わせるという、普通とは逆の発想をしたわけですね。

この逆転の発想により、徳川軍はさらに強くなって、強大な豊臣秀吉の軍勢と互角に戦い、最終的には秀吉の譲歩を引き出すことに成功しました。

家康のヘッドハンティングは、信長や秀吉のように派手ではありませんでしたが、スカウトした人を有効に活用するという点では、二人よりも優れていたと言えるでしょう。

人材の発掘、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

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事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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内部の危機に対して、どのように対処するか ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡④~

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

3回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

またまた、前回から空いてしまいましたが、3回目は独立したての家康が遭遇した「三河一向一揆」という、内部の危機に対してどのように対処したかを見ることで、後継者が会社を継いでまもなく到来する危機へのヒントを得られないか、見ていきましょう。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者にとって、事業を承継した直後は、経営の全てを掌握していないため様々な危機に襲われる可能性が低くはないでしょう。ある意味で、不安定な時期です。

徳川家康も、ようやく今川氏から独立したとはいえ、内外にリスクを抱えていました。

 

それが表面化したのが、永禄6年(1563年)でした。独立してから3年目ですが、本願寺の寺領(寺の管理する土地)に不用意に踏み入ったことをきっかけとして、三河の西部で一向一揆が吹き荒れました。一向一揆とは、浄土真宗の門徒(一向宗)による宗教一揆です。戦国時代の後半では、越後(新潟県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、越前(福井県)、三河と尾張(愛知県)で、この一向一揆が大名に対抗しうるほどの勢力を持っていました。

 

徳川家康にとって誤算だったのは、少なくない家臣たちが自分から離反して、一揆側についたことです。

原因としては、一向宗の結びつきが強く、家臣たちが主君よりも一族の信仰による結束を選択せざるを得なかったことです。また、今川などの外部からの揺さぶりもあったかもしれません。

なによりも、二十歳にようやくなったばかりの徳川家康が、まだ家臣から認めてもらえていなかったことが、主たる原因と思われます。

今川氏による苦難の支配を経て、ようやく独立して主君と家臣ともにほっとしたものの、落ち着いてみるとまだ主君である家康に頼りないところがあったのかもしれません。

 

隣国には今川が健在であり、同盟者である織田信長も美濃国(岐阜県)の斎藤氏との戦いの展望が見えず、家康は内外にリスクを抱えることになります。

まして、宗教を中心にしている勢力は士気も高く、戦いも手強いため、妥協する大名も少なくありませんでした。

 

しかし、徳川家康はむしろこれをチャンスに変えます。

 

家臣が二分されたおかげで、戦いには苦戦するものの、一つ一つしらみつぶしに反乱を正面から戦って抑え込んでいきます。

反乱側についた家臣たちも、主君を相手としては戦いにくく、降伏したり他国へ逃亡したりして、次第に一揆の勢力は減退していきました。

戦いを通じて、本願寺(浄土真宗)勢力も弱められ、徳川家康の支配下へと組み込まれていくことになります。

 

結果として、一揆が終息したときには、戦いを通じて家康と家臣との絆は深まり、また家康の声望も上がっていました。

まさに、ピンチをチャンスへと変えたわけです。

 

一揆側について、家康に負けて他国へ逃亡し、後に家臣へと帰参した中には、かの有名な本多正信もいます。他国を流浪する中で、様々な経験や人脈を作り、後に家康が天下を取るにあたって多大な力を発揮しました。

また、同じように一揆側について、降伏して家臣になった中には、夏目吉信がいます。家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとなって戦死します。

「犬のように忠実な」三河家臣団が、数々の紆余曲折を経て作り上げられていったのです。

 

独立したばかりの時、あるいは事業を承継したばかりの時は、様々な苦難が襲ってくることもあるかもしれません。

しかし、その時こそ自らの力量を上げるチャンスなのかもしれませんね。

 

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

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意見の対立を考える

経営者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。
1925年にアメリカで起きた「スコープス裁判」をめぐるお話です。
スコープスとは、アメリカ南部テネシー州にあるデイトンという町の臨時教員「ジョン・トーマス・スコープス」のことです。彼は、何をしたのか。生物の授業で「ヒトの進化」について生徒に教えたのです。
「何が問題なの?」そう思いますよね。彼は、法学部卒業で正式な生物の教師ではなかったから?そもそも、フットボールのコーチのはずなのに・・・、越権行為?
ではなく、進化論を学校教育の場で教えることを禁止するテネシー州法違反に問われたのです。

この裁判は、進化論を是とする人(進化論派)と聖書の書かれた事実「神が自分に似せて人間を造った」が正しいとする人(創造派)との論争の場になり、全米の注目を集め「モンキー裁判」と呼ばれるようになりました。

そう、人間はサルから進化したのか否かが争われたからですね。
神がこの世を造ったことが書かれている創世記は聖書の冒頭にあります。
「神は、6日掛かってこの世を造り、最後の6日目に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう、そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と人を造られた。

そして、全てを造った7日目に神は休まれた。(それで、「日曜日はお休み」なんですね)」([聖書 スタディ版]新教出版 要約)
「この世のすべての生き物を支配する我々人間が「地の獣」サルから進化したなどという誤った考えを子供たちに教えるなんてとんでもない。」創造論者は主張します。
進化論者の主張は、ご存じのように「突然変異によって獲得した、環境に適した形質が受け継がれる」というチャールズ・ダーウィンの自然淘汰説が中心です。
ところが、創造論者は、「キリンの首が高いところの葉っぱを食べるために伸びたのなら、首があの長さになる中間の長さの首を持つキリンがいたはず(中間型の不存在)」とか、「アメーバ―が進化して人間になるなんて、鉄くずが嵐でかき混ぜられて飛行機ができるような話だ(あり得ない)、そもそも、進化の過程など誰も見たことがない(創世記とお互い様)」
裁判の結果は、コープス氏の100ドル罰金で決着したのですが、アメリカにおけるこの論争は続きました。
決着を図ろうとした出来事があります。日時は、残念ながらわからなかったのですが、イリノイ州オーロラ市で行われた、決闘です。

開催中の博覧会場に線路を引き、機関車「進化号」と「非進化号」を正面衝突させ、脱線した方が負けというものです。
神は正しい方を勝たせるはずというわけですね。
果たして結果は、・・・。時速48㎞で衝突した機関車は、両方とも脱線して結論は出ませんでした。(「人生の鱗 第五十話 決闘」武田邦彦ブログ 要約)
これを、なんてくだらないと考えるとただの笑い話ですが、実は、不完全性の定理のお話です。
アメリカで、そんなことが起きている頃オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが証明した定理です。

すっごく難しくて、誤用誤解が多いというこの定理ですが、恐れずに解釈すると「ある理論体系に矛盾がなければ、その体系自身に矛盾がないことを証明できない」ということ(のよう)です。
「我が家の孫の澄香ちゃんは絶対、隣の花子ちゃんよりかわいい(我が家では矛盾はありません)のですが、隣のおじちゃんは絶対花子がかわいい(これも、全く矛盾はありません)と言います。このどちらがかわいい問題は、隣と我が家の間では決着がつきません。
決着をつけるには、評定する向かいの佐藤さんのおじさんにお願いするしかない。」ということに、よく似ています。

お互いが、同じ問題で対立する場合は、両者を統合する上位の観点(メタ概念)が必要ということです。
アメリカの出来事も、創造論と進化論、決着のつかないこの問題を「神」に委ねたわけです。委ねられた、神の方も、迷惑なので両方とも脱線させたのでしょうが、こんなことってあなたの会社でもありませんか。
社内の出の対立やトラブルが膠着状態なんてこと。

無いに越したことはありませんが、そんな時、問題の所在を俯瞰する(メタな)見方で対応することが大事なのです。「企業理念の実践のために、その問題はどんな意味があるのか」とか。
ところで、アメリカのピュー・リサーチ・センターが2015年11月明らかにした調査によると 、アメリカ人の6割が進化論派になったとか。(日経ビジネスON LINE 要約)あのときの神の判断は正しかったのか、そうでなかったのか。

 

後継者の学校では事業承継の本質と

後継者経営の不易の価値について学び

あらゆる学びの実践力の基礎を作ります。

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歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③ 「独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか」

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。
久しぶりに、投稿させていただきます。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。

ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。

あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。
この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。
地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。
そうすれば、大きな失敗をすることはありません。
徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。
しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。
しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。
今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。
今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。
今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。
家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。
味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

もちろん、この家康の行動には二面性があります。
今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。
一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。
織田信長ですね。
織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。
この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。
そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。
人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。
そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。
隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。
この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。
そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。
チャンスの時に、どのように行動したらいいか。
それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

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時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。
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後継者の学校
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運が良い人について考える。

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

渡部昇一さんが亡くなって5カ月が経とうとしています。

渡部昇一さんといえば、保守の論客として有名ですが、我が国の歴史や国際社会における我が国のあり方、教育問題などなど切れ味鋭い論評は、私たちに人生から国際問題まで多くの気づきを与えてくれていました。

渡部さんは努力ということについて度々語っています。

よく話されるのが、アメリカ留学の選に漏れたときのことです。

「着ているものがだらしない」という(貧乏学生だったようなのでみすぼらしい服装だったのでしょうが、理由にもならない)理由から面接で不合格になるのですが、腐らずに勉強したおかげで、後にイギリス、ドイツに留学するチャンスをつかんだのです。もし、アメリカに留学していたら本職の英語の国で英語を学ぶこともなかっただろうし、ドイツ語をマスターすることもなかったと言っています。(「人生の手引書」(扶桑社新書))

また、「よい運というのは仮装してやってくるということです。最初は貧乏とか、逃げ出したくなるような形でやってくる。しかし、私はその貧乏のために、否応なく勉強したおかげで、まったく確率を超えた偶然がしばしば起こり、よい運に恵まれた。」(渡部昇一 「渡部昇一一日一言」出版記念会公演会)とも。

そして、渡部さんの本職?は、英語学者ですが、『英語の「ハッピー」という言葉は、語源をたどると「ハプニング(=出来事)」と同じである。同じく、日本語の「幸せ」はもともと「仕合わせ」、つまり、「事の成り行き」という意味だった。』(「人生の手引書」(扶桑社新書))と言っています。

目の前に起こる出来事に一喜一憂せず、目標に向かって努力する。その結果は、事の成り行きであって、それを受け入れることも重要だということでしょう。

しかし、氏はそこに甘んじるべきではないと言います。欲求の5段解説で知られるマズローを引用して「自分が不平不満を感じているとき、それがそのレベルのものなのかを見る必要があるという。そして、そのレベルが高ければ高いほど、いい傾向だというのである。」(前掲書)と、『「事の成り行き」を受け入れた後は、その原因を内に求め高次の不満を抱いて、さらに努力せよ。』と叱咤してくれます。

陽子崩壊を観測するための実験装置で偶然「ニュートリノ」を発見した小柴昌俊教授や間違え作ってしまったグリセロールとコバルトをもったいないと使って「ソフトレーザー脱離イオン化法」を開発した田中耕一さんを例に「幸運は準備された心に味方する」と、決して「事の成り行きだけではない」と励ましくれます。

我が国はこのところ、毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していますが、小柴さんや田中さんだけでなく、山中さんも、大隅さんも大村さんも・・・(たくさん,いすぎて。嬉しい悲鳴です)努力の人でした。凡人の私への救いでもあります。

済んだことに対してどう評価するのか、何にでも感謝して満足する心も大切ですが、不満を感じるからこそ、人は向上できるのです。

「棚からぼた餅」。思いがけない幸運が舞い込んでくることをいいますが、ぼた餅が棚から落ちてくるときに棚の下にいなければ、他の人がそのぼた餅を手にするところを見て指をくわえることになるだけですね。

棚から落ちてくるぼた餅を手に入れるためには、棚の下にいなくてはならないのです。そして、棚の上には何があるのか、知っている必要があるのです。そこで、ラッキーもそう簡単に手に入れられないと考えるのは、普通の人です。経営者なら、自社とその置かれた環境を理解して、行動を起こせば成果(=幸せ)は手に入れられると考えるのです。

そのうえで、求めた幸せをもたらしてくれるのは、やっぱり「事の成り行き」であることを受け入れる心もまた必要です。

でも、常に自省する心、そして自分を高みへ進めたいという向上心も持ち続けたいものです。

事業を進める過程での戦略や取組みとその結果を受け入れながらも、自省して成長する社長の成長と会社、従業員の成長は相似形です。

職分に徹する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

私の故郷、北海道の「ソメスサドル」という会社をご存じでしょうか。

北海道砂川市に本社、工場を構える馬具、革製品メーカーです。

内外の一流ジョッキーが使う鞍を手がけ、宮内庁に馬具を収めている国内唯一の馬具メーカーです。

そして、鞄やベルトなどの高級革製品を製作するだけではなく、修理まで全て行うという会社で、最近話題になった銀座シックスに出店しているというすごい会社です。と、ここまで書きましたが、私自身、まったく存じ上げませんでした(すみません)、北海道関係者の小さな集まりで社長である染谷昇氏のご講演をお聞きするまでは。

 

私が、あえて実名でご紹介したいと考えたのは、先に述べたようなすごい会社だからではありません。社長のご講演の中で触れられた企業理念にビビット(ずいぶん昔の松田聖子さんみたいですが)来たからです。

 

《企業理念》
道具屋であることを誇りに持ち、社員とその家族が幸せになること。
《行動基準》
お客さまから一流と評価される、ものづくりとサービスを提供する。
北海道企業として、地域の活性化に貢献すること。

 

企業理念や行動基準と言えば、相当に美辞麗句を並べた抽象的なものが多いのですが(大企業では、事業が多岐にわたり、すべてが共有できる理念は抽象的にならざるを得ないという側面があります)、それらが具体的な社員の行動に結びつかなければ、外向けの宣伝文句に終わってしまう危険があるのですが、この企業理念や行動基準は言います。

「俺たちはただの道具屋だけれど、その道具屋であることに誇りを持って仕事をしよう。そして、女房も子供も、爺ちゃん婆ちゃんみんなで幸せになろうよ。そのためには、一流のものを作らなければならないし、修理もお客さんおために一流の技術で対応する準備と努力を惜しまない。そうすれば、わがふるさと北海道が元気になるために役に立てるような会社になれる。だから、頑張ろう」と。

ご講演の中で、皮革加工の職人さんたちの平均年齢は優に70歳を超えているなかで、何と当社のそれは30歳代(社長のご講演では両方正確な数字をおっしゃっていたのですが何せ認知症予備軍の身)だとか、そのような若い人たちが一流ジョッキーや宮内庁御用達の超一流品をつくることができていることが驚きを禁じ得ません。

高校を卒業したての若者が流れ作業ではなく、すべての工程を先輩社員と一緒に携わるそうですが、そのなかで技術が受け継がれて行く上下と、互いに切磋琢磨する水平の人間関係がつくられ、一流の職人が育っていくのだと思います。

 

一方で、染谷社長は毎日すべての社員に挨拶をして回るのだといいます。人と人からできている会社という組織が、まわりの人を含めて幸せを届けるためには、ここの人のみならず、むしろ人と人の間にある何かが生み出す力が必要だとお考えで、その繋がりの入り口であり基本である挨拶を率先垂範されているのだろうと思います。そして、一人ひとりの価値を大事に育てる強い意志が伝わってきます。

「職分」という言葉があります。「その職についている者がしなければならない仕事」「各人がそれぞれの立場で力を尽くしてなすべき務め」(デジタル大辞泉)という意味ですが、

武士、商人、学者、医者そして人の行い全般について、与えられた職分を全うすることで

本来もつ善なる本性に至ることを説いた江戸時代中期の思想家「石田梅岩」は、士農工商の身分制度の中で、それぞれの職分を誇りを持って全うすることを訴えています。

また、そのうえで、こんなことも言っています「或る者は心を労し、或るものは者は力を労すと日うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治るものは人に養わるるは、天下の通義なり」

江戸時代、京都市井の思想が北の大地で花開いています。

すごい会社には、訳があるのですね。

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ワインの香り

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

先日、教育テレビ「サイエンス・ゼロ」で「今宵はワイン夜話 香りのヒミツ大解明!」という番組がありました。

ワインといえば、私のようなおじ(い)さんには少しおしゃれで高級なお酒といったイメージです。でも、ワインのおいしさの大きな要素である「香り」について科学的に分析するということで、「少しは女性に薀蓄を語れるかも・・。」という下心とともに、興味深く見させてもらいました。

番組では、目隠しをし、鼻をつまんでワインをストローで飲んだ、番組MCの南沢奈央さんが、「赤ワインと白ワインの違いが本当に判らない」と驚いていました。

また、ガスクロマトグラフで数十の成分に分解された臭いを順番に南沢さんが嗅いでいましたが、マスカット、チョコレート、乳製品、薬品などと順番に出てくる臭いから感じるイメージをを報告していましたが、嫌な臭いと顔をしかめる場面も何度かありました。ワインの臭いの研究をしている東原和成東大教授によりますと、味覚には甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つですが、臭いは数十万種類もあるそうです。

ワインの香りを造っているにおいの成分も数百種類あるそうで、南沢さんが嗅いだワインの臭い成分も20種類くらいあったようです。

東原教授によれば、「くさい臭いがベースにあることによって、ワインの香りが立体的になり奥深さができて、よりおいしく感じる」とのことでした。

ニュージーランドでは、近年ワインの品質があがっており、その重要な役割を果たしている「サーカロマイセス・セルビアジェ」という酵母の存在が明らかになったそうです。

野生のその酵母はワイナリーのなかには生息しておらず、6キロも離れた花などで発見されたそうです。

酵母は一人で移動できませんから、それを運んできたものを調べたところ、なんとハエらしいとのこと。

ここでも、どちらかというと嫌われ者の「ハエ」の羽が、おいしいワインをくれたキューピットの羽であったことになります。

なんと、私たちの心まで癒してくれるワインの香りやおいしさは「嫌な臭い」や「嫌なハエ」の働きなしに、私たちは享受できなかったのです。

このことから二つの気づきを得ることができました。

一つ目は、私たちが生きる地球という環境の恵みの偉大さと奥深さです。

ワインに象徴されるような、私たちが受け取る恵みは、ブドウの実や木、あるいは太陽や雨といった目に見えるものだけではなく、はるかに大きな自然の仕組みの中でもたらされているということです。

なので、役に立たないからとかいった単純なあるいは表面的なことで、人やことを排除することは自分自身のメリットを排除することになるということです。

もう一つは、私たち自身や社会などについてです。人は、正しいことや思いやりや優しさ、一生懸命など、いい人と評価される面だけではなく、人を妬んだり、怒ったり、時には意地悪くなったりしたりするものです。

特に、経営を考えてみると、社員やその家族に対する愛情や思いやりは、もちろん重要ですが、時には、解雇を言い渡さなければならないようなつらい局面に出会うことも覚悟しなくてはなりません。

人もワインと同じで、いろいろな側面をもっているからこそ、そして嫌な自分を(嫉妬や正義面の両方)自覚しているからこそ、さらに、そのすべての自分を、その必要なときに行動として出していける自信と覚悟があるからこそ、おいしい味が出てくるのではないかということです。

その為には、自然に自分らしく生きていくことを、失敗をして反省を積み重ねていくしかないのかもしれません。

そう簡単に深い味は出せません。ワインだって熟成が必要です。ただし、人は寝かせるだけでは熟成しませんのでお気を付けを・・・。

 

後継者の学校

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経営理念を実践する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

経営理念は、会社の向かう方向や考えを示すために必要なものです。

でも、それをどう実践できなければ意味がありません。

朝礼で毎日唱和する。大きく書いて壁に貼っておく。社員手帳に記載して、いつでも見て、確認できるようにしておく。すべて有効な方法です。

でも、日々の仕事にどう生かしていけばよいのでしょうか。

経営理念は、一人ひとりの社員が、生産や営業の現場で、毎日の仕事のなかで、その理念に基づいて、行動=実践しなければ意味がありません。やる気を出して。

企業理念を実践するといっても、やる気がなければ、壁中に貼っておいても(もちろん。やるなということではありません)、無理ですよね。無視されては。

やる気=モチベーションは、やりがいとか、生きがいとかという物語から生ずるものでした。それは、「何故、その仕事をするのか」とか、「何のために商品を売るのか」ということ問いに対する哲学(的な回答)が求められているのです。

企業理念とは、従業員の「何故」に対する究極の回答なのです。それは、同時に顧客の「何故」にたいする究極の回答でなければなりません。

一人ひとりの従業員のモチベーションが、一致して一つの方向へ向かわなければ、効率的ではありませんし、大きな成果を生むこともできません。

そして、日々の仕事の現場で実践していくことが何より重要ですし、そのことが、顧客満足を生み出すことになる訳です。

私が、顧客の歓びを求めてプレゼンテーションの質を高めるのは、会社の理念「顧客の喜びを追求します」だとします。

私は、顧客が商品を使用する場面の応じた最適な使用方法や、商品の特性を学習して顧客に提供することで、その商品を使う目的が達成されて、顧客の喜びにつながることになります。

経営理念は、良い製品の提供ではなく、顧客の喜びにあるわけです。よい商品を提供することは、目的ではなく、経営理念実現の手段なのです。

しかし、経営理念実現のためには、もちろん良い商品が必要ですから、製造あるいは仕入の現場では、品質をいかに向上させるかが、経営理念実現のために行うべき仕事になります。

調達部門では、良い製品を適正な価格で提供するために原材料、仕入れ商品の安全性や価格についての十分な配慮が求められるでしょうし、輸送についても同様の配慮は求められます。

このように、企業理念実現のために、私が営業の現場で、プレゼンテーションのために行った、商品知識の学習と同じように、会社の各部門で経営理念実現のために求められる具体的取組が、それぞれ決められることになります。

これと同じように、会社の各部門、各グループ、係と、経営理念実現のために「何をすればよいのか」がより具体的に下位の組織に浸透することになります。

つまり、「顧客の喜び」のために会社は「何」(どんな商品)をどうやって顧客に届けるのかが、会社全体として一つの意志を持った行動が生まれることになるわけです。

この「何」と「どうやって」を一人ひとりが現場で実践すると、私が苦手なプレゼンテーションを何とか克服したように、自信ややりがいの正のスパイラルが生まれ、更なるモチベーションのアップと、業績のアップにつながっていくことになるでしょう。(自分の話は、少し控えめに・・・)

具体的に、そのような組織の構造をつくりあげ、実践していくのはそうかんたんなことではありません。

だからこそ、多くの組織や人事管理に関するノウハウ本が読まれているわけです。それらは、ほぼそのすべて正しい主張がなされているとおもいます。(ノウハウ本はあまり好きではないというか、嫌いな部類に入りますので、ほとんど読んだことがありませんが)

しかし、会社をはじめとする組織は、(社会はと言ってもいいかもしれませんが)、人と人の関係で作られています。人生と同じように、ノウハウで解決できることはほんの少しです。難しいから、面白いのです。経営も、人生も。

これらの話は後継者の学校でも。

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トランプ大統領とブッシュ元大統領

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

トランプ大統領の発言に関連して何度か取り上げさせてもらいました。入国規制の問題や貿易についてなど、発言の内容はそんなにおかしくないのですね。でも、マスコミとの関係は最悪であるようにみえます。トランプ大統領が乱発する「フェイクニュース」という言葉は今年の流行語大賞にノミネートされるのではないかという勢いですね。

たしかに、マスコミと時の政権の間は、だいたい良好であることはないようです。それは仕方のないところです。マスコミは権力の番人といったりしますが、時の権力の動向について、私たち国民に知らせるという重要な役割を果たしています。一方で、第4の権力といったりもします。司法、行政、立法に次ぐ権力という意味で、報道を通じて一般国民を一定の方向に誘導して、民意を背景に大きな権力となっているということですね。

トランプ大統領は行政の長ですから、当然に国民から負託された正当な権力を有していますからそれを行使すること自体は当然である訳です。ただし、法治国家である限り「法律の許す範囲で」ですね。

王権神授説という言葉を世界史で習いました。「王様の権利は神から与えられたものであり、誰も反抗できない。」というものでした。確か、イギリスの革命のときにそれに反抗したのが最初だったのではないかと思い調べてみました。1628年に「議会の承認なしに課税しないこと・法律によらなければ逮捕できない」ということを国民の権利として明確にした(権利の請願(世界史の窓http://www.y-history.net/appendix/wh1001-028.html))とありました。

トランプ大統領も自らのルーツであるヨーロッパの歴史はご存じでしょうから、400年後に王権神授説を持ち出すほど時代錯誤ではないと思います。

権力の正統性はどこから来るのでしょうか?それは権威だと私は思います。王権神授説では、神というキリスト教から与えられたという宗教的権威です。トランプ大統領の場合は、国民の多くが支持し、法律に定める手続きによって選ばれたというアメリカ国民の支持と法律という権威に裏打ちされています。日本の天皇陛下の場合は、2千年も続く歴史と伝統に基づく権威だと思います。それに加え、天皇家が常に国民をともにあったことに対する国民からの支持が常にあったわけです。信長や秀吉、家康も天皇という権威を後ろ盾があったからこそ国を治めることができました。

と考えていくと、結局、民衆の支持が権威の創り出すのであり、権力の根源であることに思い至ります。

そこでブッシュ元大統領に登場願います。アメリカNBCでのインタビューのなかで、トランプ大統領に関連した質問に答えたものです。

「私は、メディアは民主主義にとって不可欠だと考える。私のような人々に説明責任を果たさせていくため、メディアは必要だと思う。権力には時に高い依存性があり、(人々を)むしばむものだ。権力を乱用する者の説明責任をメディアが追及していくことが重要だ。」(米43代大統領ジョージ・W・ブッシュ)

これに対して、トランプ大統領が障害のある記者をばかにするような物まねをしたことを取り上げましたが、この二人の大統領の発言や行動どちらが大統領らしく思えるでしょうか。

大衆の支持には、品位とか品格も必要です。小学校の学級委員をしていたとき「岡部君は無責任だと思います。」といわれ、なぜそのように言われたかわからなかったのですが、その発言にたいする答えを、いまだに探している私ですが、学級委員でさえそうなのです。ましてや、大統領ですから、その地位にふさわしい行動や振る舞い発言を求められるのは当然のことなのではないでしょうか。(時々は、親近感をアピールしてもよいかもしれませんが)

トランプ大統領が、アメリカとしては巨大ではないにしても、オーナー経営者であることが気になります。誰も、意見を言うことができない。すべて一人で決めてしまう。「俺がやらないと誰がやるんだ!」「アメリカを偉大にするにはこの道しかないんだ!」「誰もわかっちゃいない。文句を言うやつはみんな首だ!」(テレビ番組の「ファイヤー!」で人気だったそうですが)

こんな人、近くにいませんか?

 

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