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優れたヘッドハンターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑧

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

7回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

7回目は、前々回のファシリテーターとしての手腕に続き、ヘッドハンティングとしても優れた徳川家康の力量を見て見ます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取ったということを、第5回目のファシリテーターとしての徳川家康の回で申し上げました。第5回では、家康の人材育成力に焦点を当てましたが、実は外部からも人材を積極的にスカウトしました。織田信長や豊臣秀吉に比べると、地味であり目立たなかったのですが、これは三人の事情が違ったからです。

織田信長と、信長に仕えていた秀吉は、織田家の領土拡大が急速であったために、人材がいくらあっても足りない状況でした。いわば、急速に拡大する事業や会社で、人材不足が常態となっているようなものです。

従って、二人は必要に駆られて、人材を血眼になって常に探し求めていたわけです。

二人に比べると、初期の家康は着実な領土拡大をしていたため、育成重視でも間に合いました。しかし、家康も何度か、飛躍的に領土を拡大するチャンスに恵まれました。

一度目は、武田信玄と示し合わせて今川氏真を攻めたときです。このときに、遠江国(愛知県西部)を得ました。このときには、今川家から離反した遠江国の豪族たちを家臣としてスカウトしました。

二度目は、武田家の滅亡と本能寺の変の直後に、空白となった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を手に入れたときです。いわゆる、「天正壬午の乱」の時ですね。

このとき、徳川家康には強い思いがあって、長い間敵として戦った旧武田家の家臣たちを争うようにスカウトしました。

生前の織田信長は、家臣たちも含めて武田家を徹底的に滅ぼす政策をとりましたが、家康は優れた人材の宝庫と見て、武将と兵士たちを大量に召し抱えました。

武田の旧臣たちは、家康の四天王と呼ばれる家臣の一人である井伊直政に帰属して、装備も赤で統一され、「赤備え」と呼ばれるようになりました。武田家で最も勇猛とうたわれた山県昌景の軍勢が赤で統一していたのを、真似したのです。

井伊直政も、徳川軍団の切り込み隊長として、その勇名を天下にとどろかせることとなります。

また、家康の武田好きはこれにとどまらず、軍法まで全て徳川式から武田式に統一するまでに至りました。会社で言えば、営業手法であるとか、内部の規程などを全て買収した会社に合わせるようなものです。普通は、合併された会社が合併した方に合わせますが、家康は逆に武田に合わせたのです。

優れた軍法を採用することで、徳川軍の戦力をアップさせるというもくろみもありましたが、それ以上にスカウトした武田の旧臣たちが、存分に力を発揮できるように計らったということも理由の一つでした。

家康は、ヘッドハンティングにおいて、スカウトした人にむしろ組織を合わせるという、普通とは逆の発想をしたわけですね。

この逆転の発想により、徳川軍はさらに強くなって、強大な豊臣秀吉の軍勢と互角に戦い、最終的には秀吉の譲歩を引き出すことに成功しました。

家康のヘッドハンティングは、信長や秀吉のように派手ではありませんでしたが、スカウトした人を有効に活用するという点では、二人よりも優れていたと言えるでしょう。

人材の発掘、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

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後継者の学校

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