独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。

この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。

地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。

そうすれば、大きな失敗をすることはありません。

徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

 

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

 

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。

しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

 

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。

しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。

今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

 

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。

今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

 

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

 

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。

今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。

家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

 

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。

味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

 

もちろん、この家康の行動には二面性があります。

今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。

一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

 

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。

織田信長ですね。

織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。

この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。

そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

 

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。

人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。

そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。

隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。

この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

 

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。

そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

 

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

 

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。

チャンスの時に、どのように行動したらいいか。

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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後継者の学校

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論理的判断は理にかなっているのか

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年初めてのブログです。前回のから2か月以上経ってしまいました。

少しばかり、言い訳を言わせていただくと、年末らしく「2017年を振り返って」と題して投稿させていただこうと思っていました。しかし、2017年の日本企業を振り返るとすれば、やはり、「不正」「ねつ造」について書かなければならないことになってしまいます。「一体何回書けば終わりになるのか?」と気が滅入ってしまって、筆(キーボードを打つ手)が進まないのです。

いくら批判してみても、彼らの行為には、(彼らなりの)合理的な理由(=論理)がある(はずな)のです。そうでなければ、こんなにも多くの大企業で起こるはずがない(はずな)のです。

そこで今回は、二年越しの宿題になった論理的な判断について考えてみたいと思います。

論理的な考え方は、「経営学」の世界では、ロジカル・シンキングと格好よく言い直して使われたりしています。

なるほど、会社では「ああすればこうなって、この部分はコストに見合う利益があがらないから削ることにしよう」とか、「統計的に考えて、この商品は女性層に受け入れられそうだから、生産量を増やそう」とかいうことはよくききますね。

ところが、往々にして削った機能が原因で故障が起きたり、受けるはずの商品が意外に受けが悪かったりして、なかなか思い通りにはいかないものです。

それはそうですよね、今まで問題がなかったからといって将来もそうなるのかは保証の限りではないし、統計だって過去の出来事の集計や分析である限り、将来の出来事を正確に言い当てることなんてできない(はずな)のです。論理的思考の典型ともいえるスーパーコンピュータを使っても、明日の天気予報が外れるんですから。

もちろん、私たち人間は経験や過去の教訓に学んで未来を予測し現実に対処し繁栄をしてきたわけです。しかし、その結果は必ずしも正しいと言えることばかりではなかった、例えば、地球温暖化問題や私の人生のように・・・。

これは人間の知識の形成過程が経験によらなければならないという超えることができない限界があるためで仕方がないことなのです。

かのドイツの哲学者ヘーゲルは「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な言葉を残しています。これは、人間のことを考える哲学は、夕暮れに現れる梟のように(ミネルバはギリシャの女神アテナ(ゼウスの子)のことで、梟とともに智の象徴とされています。日本では「福朗」のお土産もありますね)現実の出来事におくれて現れるという意味で、我々人間の認知能力の悲しい現実を表しているのだそうです。

論理的であることには、常に認知的な限界を持っているのですね。

また、私たち人間は論理だけで考え、行動しているわけではありません。私たちの経験は感情も作りだします。思考とその結果の限界を補完しているのが感情といえます。

私たちは、理屈に合わないことに対して怒ったりしますし、悲しい経験や嬉しい経験が糧になって努力を重ねて成功するなどということもよく聞きますが、感情が私たちの行動に強い影響を及ぼしていることは実感としても納得できると思います。

そして、私たち人間は自我を持っています。自我とは、自分が自分である根本といえるものですが、これも自分を取り巻く人々や物事との関係や経験から形作られています。

私はこうしていわば他人から創り上げられた自我というフィルターを通して世の中で起きる様々なことを経験し生活しているわけで、そのうえで論理や感情が生まれるわけです。

この様に論理的思考そのものに認知的な限界があるうえに、人間の行動には感情や自我の介在があり論理的思考だけでは説明できないのです。

このブログを書いている最中、星野仙一さんの訃報が流れました。星野さんといえば、闘将と呼ばれ強力な個性で闘争心むき出しの姿がすぐに浮かびますが、その一方で選手やスタッフの奥さんお誕生日に花束を贈るなど、細やかな心遣いの人であったそうです。

星野さんの野球理論の話はあまり聞いたことがありませんが、人間としての感性が人を惹きつけ、そう強いとは思えない3つの球団を優勝に導いたのです。

論理は勿論大切ですが、物事を論理通り進めるのは人の力なのです。人は論理だけでは動かない、むしろ、論理では動かない。人を論理通り動かす仕組みを常に供給することこそ経営者(リーダー)の仕事ですね。

▼後継者が経営者となり先代を超えていく者達の学び場

後継者の学校
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