桜の時期に思い出したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

北陸や北海道に大雪をもたらした三十数年ぶりという寒さの冬も3月終盤ともなれば、例年よりずいぶん早く桜がほころび、この原稿を書いている今日あたりは、ここ千葉県でも桜が5分咲きになっています。東京では、すでに満開を迎え、上野公園などの花見の名所の盛会ぶりをニュースは伝えています。

「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子を食べて花の下を歩いて絶景だの春爛漫だのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html)

これは、山賊と美しい女を描いた坂口安吾の短編「桜の森の満開の下」の冒頭部分です。

山賊は旅人を襲い、女のあまりの美しさに夫を殺し、その女房を奪います。女は、殺された夫の仇を取るかのように、夫となった山賊に我儘を言い続けます。まず、手始めに山賊が旅人から奪った7人の妻のうち、老婆以外の6人を殺させ、その後も、京の街人の死体を求め続けるのです。

山賊は、満開の桜の木の下で感じる不安と、美しい彼女に自分の肚を知られる恐怖とを胸に抱きながら女の我儘に従い続けます。そして、山賊は、女を殺すことを考えますが、決断できません。

あるとき、花盛りのふるさとの山へ帰ることを決意します。すると、女は、山賊の心変わりに鬼となって山賊に襲いかかりますが、山賊は鬼を殺してしまいます。鬼だと思った死体は女となって横たわっています。女を失った後、男が感じた不安や恐怖は孤独だったのかもしれないと気づきます。女を失い本当に孤独になった男は、温かい気持ちに包まれます。もう孤独を恐れることはないのです。男と女の上に桜の花びらが降り注ぎます、女の体も、女の体に降り注ぐ花びらをかき分けようとする男の手も身体も消えていました。

猟奇的ともいえる要求をする女の心の内は、夫を殺された恨みだったのでしょう、むごたらしいこともいとわない山賊の心には深い孤独が宿っていました。それは、彼が桜の木の下で感じる孤独と同じ孤独が花見の喧噪に酔う現代人の心にひそんでいると安吾は言いたいのかもしれません。

安吾は、日本人について「我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約とは逆なものである」といい、また、「歴史は常に人間を嗅ぎ出している。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、洞察の結果である点に於いては全く人間的なものである」((「堕落論」青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html)ともいいます。

「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ」「人間は正しく堕ちきる道を堕ちきることが必要なのだ。・・・堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければならない。」と、安吾は堕落論を結んでいます。

無頼派といわれた安吾がいう、「正しく堕ちきる」には、人間の孤独や恨み、人性への深い洞察が必要なのだろうと思います。

そして、僧侶松原泰道師

「花が咲いている 精いっぱい咲いている 私たちも 精いっぱい生きよう」(松原泰道)

(「致知」2016.2 鎌倉円覚寺管長 横田南嶺「願いに生きた禅僧たちの知恵」より)。

深く人を見つめる目線の先には、同じものが見えているように感じるのは私だけでしょうか。

私たちも、人の弱さや悲しみを全て乗り終えてこんな境地になれれば、きっと良い会社になると思います。

後継者の学校

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日本の首都を作った徳川家康(後編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑩

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。9回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

9回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったこと、という前回からの続きです。家康が感じた、関東への移動のメリットとはなにか、です。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

北条氏を降し、東北の大名も支配下に置いて、文字通り天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、政権の礎を盤石にするべく、東海・甲信地方の大勢力であった徳川家康に関東への移動を命じます。実力者である家康を、箱根の向こうへ封じ込めるのが狙いでした。

しかし、徳川家康はそれを受けて、1月足らずの間に電光石火ともいえる尋常でない早さで移動を完了してしまいます。

しかも、北条氏のいた小田原城ではなく、掘っ立て小屋のような江戸城へと入りました。

 

実は、徳川家康は北条氏を攻める前に、予め関東地方を詳しく調査して、移動を命じられた場合はむしろメリットの方が大きいと判断していたのです。

 

家康が考えたメリットは以下の通りです。

・既に天下は定まって敵のいない今、防衛のために荒れ地となっていた江戸を開発すれば国力が飛躍的に高くなる。

・河川が多いということは、陸上輸送よりも水上輸送が主であった時代においては、物流網を構築しやすい。

・北条氏が治めていた地を引き継ぐのは、前回書いたようなデメリットはもちろんあるが、法制度が統一されていたためむしろ統治はしやすい。

・先祖代々治めていた地から引き離されることは、不便もあるが、昔のしがらみを断ち切って新しい制度を作ることができるし、家康の求心力はむしろ高まる。

・豊臣政権に臣従した以上、秀吉の下ではどのような取り扱いを受けることも覚悟していた。

 

江戸は、利根川、荒川、多摩川という大河川が東京湾に注ぐその河口に位置しているため、前回も申し上げましたが、大雨が降るとすぐに氾濫するような湿地帯でした。北条氏は、小田原城の防衛のために、江戸城の周りをあえて湿地帯のままで放置していたため、寒村があるだけの寂れた土地であったのです。

 

しかし、豊臣による天下統一がなされた今となっては、湿地帯のまま放置しておく必要はありません。治水事業で氾濫を防止すれば、広大な平野は利用しがいのある領地に化けます。

また、河川が多いというのは、徒歩や馬しか陸上の移動手段がなく、舟による水運が主体であった当時としては、交通の便がいいというメリットがありました。現に、秀吉が作った大坂も河川の多い地で、舟運により商業都市として大きな発展を遂げています。

つまり、デメリットは視点を変えれば、あるいはうまく生かせば大きなメリットに変わりうるのです。

 

また、関八州は領民に対して善政を敷いていた北条の支配のもとで、統一された制度が浸透していました。

それまでの家康の領地は、出身の三河国、その次に増やした遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国と、全てそれぞれ統治の制度が違っていたため、代官(知事)もそれぞれ置く必要があり、余計なコストがかかっていたという事情がありました。

ところが、関八州は代官が一人ですむのです。これは大きなコストカットになりました。

 

そして、三河国にしろ他の国にしろ、もともと住み着いていた豪族たちを家臣にしたわけですから、家康としてはそこに遠慮もあったわけです。

しかし、まるごと全員移転してしまうと、家康も白紙の出発となりますが、家臣たちも同じです。過去のいろいろなしがらみがなくなって、改めて主従関係がゼロから出発するわけですから、家康の権威はより強くなるというわけです。

また、昔から続いていた不合理なしきたりや制度も、この移転で全て白紙にすることができました。

 

秀吉からは、箱根の向こうに追いやられて、監視役をいっぱいつけられたわけですが、もともと豊臣政権に臣従した時点で、家康はこのような取り扱いを受けることは覚悟していました。

むしろ、自分から積極的に秀吉の意向に従ってやろう、というくらいの気構えをもっていました。

本当は主人以上に有能な人間が、反抗するどころか主人の半分嫌がらせみたいな扱いにも黙々と従う姿を見ると、主にとっては反抗されるよりも不気味な存在になります。いわゆる「器が大きい」存在ですね。

このような家康の姿勢は、豊臣政権においてその存在感をいっそう際立たせる効果がありました。

 

家康は関東に移ると、ただちに伊奈忠次に命じて河川を改修し、新田開発と検地を行います。河川の改修は、やがて規模が大きくなり、ついには利根川を移動させる大事業に結実します。江戸時代以前は、江戸湾に注いでいた利根川は、この事業によって千葉の銚子を河口として太平洋へ注ぐようになります。

 

家康が命じた大改造によって、寒村だった江戸は、1609年頃には15万人の都市へと発展します。

江戸幕府が家康によって開かれた後は、天下の首府として大発展を遂げ、江戸時代の中頃には100万人のメガポリスに変貌したのでした。

 

徳川家康は、統治制度も全て一から見直して合理的なものに変更し、東の果てに置かれたおかげで朝鮮の役への参加も免れ、着々と天下を取るための力を蓄えます。

 

秀吉が老衰で亡くなった時点では、家康の存在感と実力は他の大名よりも抜きん出たものになっていました。

 

ある事業が有利か不利か、それは現時点ではなく将来の可能性も合わせて考えてみると、デメリットと思っていたことが実はメリットになることもあり得ます。

SWOT分析などで事業の可能性を考える時は、環境や前提を自分で変えられるかどうか、も合わせて考えてみると、答えが全く逆になることもあるでしょう。

 

徳川家康は、秀吉の密かな目論見を全てひっくり返すことで、より大きな飛躍を遂げることができました。

そしてその飛躍は、現代においても「東京」という形で日本人に大きな恩恵を与えているわけです。

器の大きい人がすることは、多くの人に計り知れない影響を与えるということです。

 

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ピョンチャンオリンピックで一番感動したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

ピョンチャンオリンピックが終わりました。わが日本としての結果は、冬のオリンピック史上最高のメダル獲得(金メダル4個、銀メダル5個、銅メダル4個)がという結果で、事前の予想を大きく超える盛り上がりでした。

オリンピックは、スポーツの素晴らしさやその舞台にかけた選手たちの物語に心を打たれるシーンを常に用意してくれます。今回も、スピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒選手がレース後、銀メダルに終わったイ・サンファ選手の肩を抱き健闘をたたえる姿、4年越しの銅メダルを獲得した高梨沙羅選手を抱きしめて祝福する伊藤有希選手を見て感動した!方が多かったのではないでしょうか。

その他にも数々の感動シーンがありましたが、今回取り上げるのは平野歩夢選手(19)です。

皆さんもご存じのとおり、彼は、スノーボードハーフパイプで銀メダルを獲得しました。

彼は、前回、ソチで銀メダルを獲得しているので、15歳の頃から世界の実力者であり続けたのです。2017年3月の大会で、左ひざ靭帯と肝臓を損傷する全治3ヶ月の大けがを負い、それから1年足らずで、彼の実力を世界に示す銀メダルだったのです。

スノーボードといえば何年か前の大麻吸引事件のイメージからか、おじさんとしてはあまり良いイメージではありませんでした。実際、テレビに移される平野選手はピアスをした現代っ子で、近頃の若いもんそのものという印象でした。

発する言葉も「まわりを黙らせるすべりをするしかない。狙うのは金メダル」と強気の発言、「もう少し謙虚な発言はできないのか、若者よ」と、私。でも、口調はあくまで穏やかです「!?」。「この子、いや、この青年、本当はすごいかも」

そして、別のインタビューでは、ここで「イェーイ!とか言いましょうか」との問いに「いえ、僕はそういう人間ではないので」と断る場面に出くわした私は、「歩夢ファンになるかも。」と、印象が変わっていきました。

そんなこんなで、迎えた決勝では、「ダブルコーク1440(4回宙返り2回ひねりということらしい)」という、世界でもできるのは2~3人というわけのわからない大技を2回連続で成功させ一時トップに出ますが、最後に、第一人者のショーン・ホワイト選手に逆転されて、惜しくも銀メダルに終わりというものでした。

昨年の大けがは、ダブルコーク1440(「せんよんひゃくよんじゅう」ではなく「フォーテーンフォティ」と読みます、念のため。)にチャレンジした際に起きたアクシデントだったそうで、恐怖もあったはずのその技をオリンピックの大舞台で2回も決める精神力の強さはさすがと言わざるを得ません。

試合後のインタビューです。「前回も銀で、上を目指すために4年間練習してきたので、ちょっと悔しさも残っているが、自分が今できる範囲の中では、全力でやれたのかな、と素直に思う。楽しかったです。最後の3人、みんな争って、最後の順番もいい並びというか。今までイチの大会だったと思う。本当に、全ての人たちに、感謝しかない。終わってみて考えると…。その力が今回、この大会でも結果になったのかなと思う。」(https://matome.naver.jp/odai/2151921022199982301

平野歩夢、高梨沙羅、伊藤有希、高木美帆、高木菜那…女性ばかりになってしまいましたが…。渡部暁斗さんも言葉もすごかったけれど、骨折していたことを明かさなかったのもすごいというより、美しい!彼の美学なのでしょう。

選手一人ひとりに、悔しさや挫折があり、選手の数だけの物語が詰まった2週間余が過ぎた今、祭りの後のうら寂しさより、日本の若者はことのほかの(失礼)素晴らしさが残った大会でした。

社長、人が育つには挫折も時間も必要です。だから、渡すための時間と心と環境の準備が肝心です。

日本の首都を作った徳川家康(前編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑨

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。8回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

8回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったことを申し上げたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

日本の首都である東京は、世界的にもたぐいまれな街です。2017年の「世界の総合都市ランキング」でも、ロンドン、ニューヨークに次いで3位に入りました。首都圏(ほぼ関東地方)の人口は3600万人であり、日本の人口の3分の1が集まっています。

 

しかしながら、東京の中心部は、400年あまり前はほとんど人の住んでいない湿地帯だったのです。大きな河川の河口が集中しているため、大雨が降るとすぐに氾濫してしまい、まともな農業も営めないような地域でした。

 

しかし、そんな誰も省みないような土地に大きなポテンシャルを見いだして、今の東京に至るような開発を始めたのは、何を隠そう徳川家康だったのです。

 

 

織田信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りによって没した後、その後を乗っ取りに近いやり方で承継した秀吉が柴田勝家との戦いに勝利して、天下の事業は豊臣(当時は羽柴)秀吉が進めることとなります。徳川家康は、豊臣秀吉と当初は対立して「小牧・長久手の戦い」で勝利しますが、最終的には秀吉に臣従して、秀吉の天下統一事業に協力することとなりました。

 

その総仕上げである「小田原征伐」(関東地方を制圧していた北条氏を攻め滅ぼした戦い)に徳川家康も従軍し、いよいよ北条氏の本拠地である小田原城も落城目前となったある日のことでした。

 

小田原城を見下ろせる丘へ、秀吉が家康を散歩に誘いました。

はるかに関東平野が遠望できる丘の上に立ち、風景を眺めながら(一説には、立ち小便しながら、ともいいます)秀吉は家康に話しかけます。

 

「徳川殿、このたびは格別のおん働き、まことにご苦労でござった」

「いえいえ、滅相もござらぬ。全ては上様のご威光でございましょう」

「ここから見ると、関東は広いのう。どこまでいっても真っ平らだのう」

 

ひとしきり雑談を交わした後で、秀吉は家康に申し渡します。

「この関八州、貴殿に差し上げる。いかがかな、徳川殿」

驚く家康に、秀吉は間髪入れず念を押します。

「その代わり、これまでの領地は召し上げる。よろしいな?」

 

こうして、徳川家康は先祖代々受け継いだ三河の地から、関東に移ることとなりました。

 

領土は、これまでの5カ国150万石から250万石と、価値は飛躍的に上がったわけです。1石は、成人一人を養える米の量を表すので、一気に250万人まで養うことのできる領土を得たということになります。

 

しかしながら、この移封にはメリット、デメリットそれぞれあり、秀吉としては下記のデメリットで家康の力を落とそうとした密かな狙いがありました。

 

・先祖代々からの土地から移すことで、領民との良好な関係を切り離す

・年貢(税金)が安く領民との関係がよかった北条氏の領土に移すことで、家康の統治をさせにくくする

・秀吉が家康に「与えた」土地に住まわせることで、家康との主従関係をはっきりさせる

・江戸は、その石高とは裏腹に洪水が多く人が住みにくい土地である

・家康を箱根の向こうへ追いやり、東海道沿いに豊臣秀吉の恩顧が深い大名を配置して、家康を関東に「封じ込め」る

 

先祖が自ら切り開いた土地を受け継いでいる大名は、その地において特別な存在となります。例えば、薩摩(鹿児島)の島津氏は、鎌倉時代から続く名門であり、家臣や領民から神のように崇められていました。豊臣政権においては、もちろん島津氏は政権に臣従しているものの、秀吉から土地を与えられたわけではないので、秀吉に取り立てられた大名とはその存在感や秀吉への忠誠心が全く異なります。

そして、代々住んでいるわけですから、住み慣れていて愛着もある、ということもあります。慣れない土地は行くのは、誰でも不安ですし、不便なものです。

例えば、織田信長の三男である織田信雄は、小田原征伐の後で尾張(愛知県西部)から徳川家の三河(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)へと国替えになりましたが、先祖代々の尾張を離れるのを嫌がって断ったため、秀吉の怒りをかって領土を全て没収されてしまいました。

 

まして、当時家康が本拠地としていた駿河国(静岡県東部)の駿府城(静岡市)は、家康が幼少期に人質として過ごした地です。ここに支配主として凱旋したわけですから、格別の思いがあったはず。現に、織田信長から武田攻めの軍功として駿河国を譲られた後、すぐに駿府城へ本拠地を移しています。並々ならぬ思い入れがあったと思うのです。

 

また、関東を代々治めていた北条氏(鎌倉時代の北条氏とは血縁がないため「後北条氏」とも呼ばれる)は、年貢率が低く、善政を敷いていたため領民からの評判もよかったことも、家康にとっては不利になります。

北条氏は、小田原の防衛のために、あえて江戸のあたりの洪水を放置していたというのもあります。越後国(新潟県)や常陸国(茨城県)から攻め下ってくる上杉謙信や佐竹義重は、江戸の湿地帯を避けなくてはならないため、小田原城へ攻め寄せることを躊躇せざるを得ませんでした。

従って、実質的には250万石の価値はなかったと思われます。

 

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した後、尾張国に子飼いの家臣である福島正則を置くなど、東海道の各地に忠誠心の高い部下を配置して、家康を完全に封じ込めます。

 

以上のデメリットをみて、皆さんはどう思いますか?関東へ移るか移らないか、例えばSWOT分析などすると、移らない方がいい、というのが正解になりそうですよね。

 

ところがです。

 

徳川家康は秀吉からその命令を受けた後、織田信雄のように渋るどころか、1ヶ月足らずで駿府城から江戸城へ移動を完了してしまいます。単なる個人の引越ではなく、今で言うと本社が移転するようなものですから、上も下も大騒ぎのはず。秀吉も驚くほどの早さで、家康は移転を決行します。

 

もちろん、そこには家康ならではの考えがありました。

この続きは、次回に続きます。

 

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優れたヘッドハンターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑧

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

7回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

7回目は、前々回のファシリテーターとしての手腕に続き、ヘッドハンティングとしても優れた徳川家康の力量を見て見ます。

 

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後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取ったということを、第5回目のファシリテーターとしての徳川家康の回で申し上げました。第5回では、家康の人材育成力に焦点を当てましたが、実は外部からも人材を積極的にスカウトしました。織田信長や豊臣秀吉に比べると、地味であり目立たなかったのですが、これは三人の事情が違ったからです。

織田信長と、信長に仕えていた秀吉は、織田家の領土拡大が急速であったために、人材がいくらあっても足りない状況でした。いわば、急速に拡大する事業や会社で、人材不足が常態となっているようなものです。

従って、二人は必要に駆られて、人材を血眼になって常に探し求めていたわけです。

二人に比べると、初期の家康は着実な領土拡大をしていたため、育成重視でも間に合いました。しかし、家康も何度か、飛躍的に領土を拡大するチャンスに恵まれました。

一度目は、武田信玄と示し合わせて今川氏真を攻めたときです。このときに、遠江国(愛知県西部)を得ました。このときには、今川家から離反した遠江国の豪族たちを家臣としてスカウトしました。

二度目は、武田家の滅亡と本能寺の変の直後に、空白となった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を手に入れたときです。いわゆる、「天正壬午の乱」の時ですね。

このとき、徳川家康には強い思いがあって、長い間敵として戦った旧武田家の家臣たちを争うようにスカウトしました。

生前の織田信長は、家臣たちも含めて武田家を徹底的に滅ぼす政策をとりましたが、家康は優れた人材の宝庫と見て、武将と兵士たちを大量に召し抱えました。

武田の旧臣たちは、家康の四天王と呼ばれる家臣の一人である井伊直政に帰属して、装備も赤で統一され、「赤備え」と呼ばれるようになりました。武田家で最も勇猛とうたわれた山県昌景の軍勢が赤で統一していたのを、真似したのです。

井伊直政も、徳川軍団の切り込み隊長として、その勇名を天下にとどろかせることとなります。

また、家康の武田好きはこれにとどまらず、軍法まで全て徳川式から武田式に統一するまでに至りました。会社で言えば、営業手法であるとか、内部の規程などを全て買収した会社に合わせるようなものです。普通は、合併された会社が合併した方に合わせますが、家康は逆に武田に合わせたのです。

優れた軍法を採用することで、徳川軍の戦力をアップさせるというもくろみもありましたが、それ以上にスカウトした武田の旧臣たちが、存分に力を発揮できるように計らったということも理由の一つでした。

家康は、ヘッドハンティングにおいて、スカウトした人にむしろ組織を合わせるという、普通とは逆の発想をしたわけですね。

この逆転の発想により、徳川軍はさらに強くなって、強大な豊臣秀吉の軍勢と互角に戦い、最終的には秀吉の譲歩を引き出すことに成功しました。

家康のヘッドハンティングは、信長や秀吉のように派手ではありませんでしたが、スカウトした人を有効に活用するという点では、二人よりも優れていたと言えるでしょう。

人材の発掘、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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大塚家具の顛末から見えてくるもの

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

2015年の(株)大塚家具の事業承継を巡る騒動から3年が経とうとしています。

今年になって、当時の主役 大塚勝久氏(匠大塚会長)が、ダイヤモンドオンライン(“父娘げんか”を経て語る「事業承継ここを誤った」http://diamond.jp/articles/-/155073(以下「ダイヤモンド」))で心情を語っています。

現在、大塚久美子社長率いる大塚家具は、昨期決算(2016.1.1~2016.12.31)で46億円の営業損失を計上し、今期も赤字決算となる見込みです。一方、「大塚家具との争いにならないよう、・・・ぶつからないようにしてきた」と、古巣に配慮してきた勝久会長も苦しい戦いが続いているようです。

大塚家具は、入店時に作成する顧客ファイルによる個別対応で、新婚夫婦や新築時のまとめ買いによって売上をのばしていましたが、2001年(売上高731億円、経常利益76億円(Kabutan 、https://kabutan.jp/stock/finance?code=8186))をピークに徐々に売上を落としていきます。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

2008年、勝久氏は、それまでの不良資産を整理したうえで(経常利益→当期純損失計上)、久美子氏への社長交代を決意します。久美子氏は、会員制を廃止し、カジュアル路線へ舵を切るものの、グラフにあるように業績は改善しません。そして、長男勝之氏の人事を巡り両氏は対立し、久美子氏解任、勝久社長の再登板、勝久社長解任、久美子社長再登板と皆さんご存知の顛末に至った訳です。
大塚家具が苦しむ中、ライバル「ニトリ」は順調に売上を伸ばし続け、小売業界に君臨する大企業に成長しました。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

大塚家具の苦戦については「ライバルであるニトリの事業ドメインが優れていた」「商品回転率がニトリの方が短く効率が良い」「リーズナブルで統一感のある品揃えがクロスセリングを導いている」とニトリの優位性を説く

意見や「カジュアル路線はニトリとの競合に勝てなかった」「会員制の廃止で来店客が増えたが、販売員のクロージングが甘くなり、成約率が低くなった」と、大塚家具に原因を求める考えなど外野の経営学者諸氏の意見はいろいろです。

住宅着工件数の減少や少子化晩婚化など社会構造の変化、リーマンショック、消費税アップ、失われた20年といわれる経済状況がありますが、方や中国等の海外で安価な家具を製作し家具業界のSPAともいうべきニトリに対し、高・中級家具を軸とし国内メーカーの家具を販売する大塚家具や匠大塚のビジネスモデルや財務指標を比較してもあまり意味がないのです。

両社の決定的な違いは、まさに事業承継にあったのです。

大塚家の5人の子供は、「自慢の子」で、「大塚家具のために役に立つだろう」と「長女は経済、長男(匠大塚の勝之社長)は彫刻科、二女は法律、三女が芸術学部、次男が建築」を専攻、勝久氏も、「資産管理会社の株を兄弟5人で均等に」分割します。娘に社長を譲るときも、父は、不良資産を精算して引き渡しました。久美子氏も、「誰かに代わってもらえるなら、代わってほしいと思いましたよ。」と述回するほど、平穏を求める仲の良い家庭でした。ところが、父は、会社を追われ、従業員は娘の会社を去ってしまったのです。

 

これに対し、ニトリは、創業社長の父義雄氏が1989年に亡くなった際、その遺産の不動産を母みつ子氏が、現社長の昭雄氏が株式を、他の弟妹が現金を相続しました。ところが、2007年になって、昭雄氏は、相続時の遺産分割協議書は偽造だとして、母や弟たちから告訴され、(一審は昭雄氏勝訴、その後和解)兄弟は会社を去ってしまいます。

この顛末のどちらの主張が正しいのかは別にして、少なくとも株式の全てを確保した昭雄氏が、強力な意志と力をもって、ニトリという会社に対したことがうかがえます。だからこそ、強力に「SPA」路線を進められたのです。

株式を分割した大塚家具に対し、集中させたニトリ。

お金を持った久美子氏の大塚家具は、従業員を失い、販売員のクロージングの悪化で売上を落とし、勝久氏の匠大塚は資金枯渇に苦しむことになります。

一方、ニトリの昭雄社長は、家族をだましても(あくまで、みつ子氏の弁ですが)株式という権力基盤を得、今の隆盛を迎えます。

 

事業承継を考えるうえで、決定的に重要な要素がこの両社の騒動の中にあります。

①人は善意や合理的考えだけで動くものではなく、むしろ、往々にして善意から悪意が生まれ、合理性からは不合理な結末がもたらされること。

②そのような顛末を収拾、整理するためには力が必要であり、事業承継の場合は、株式がその力を与えてくれる手段であること。

③ただし、力の本当の根源は、会社を乗っ取るという強い意思の力であること。

ただし、友好的に。

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武田勝頼に見る統治基盤の大事さと恐ろしさ|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑦

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

6回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

6回目は、武田信玄亡き後、信玄の事業を継いで織田信長や徳川家康と戦って滅亡した武田勝頼の敗因を分析して、当時も今も後継者が存分に力を発揮するためには、「統治基盤」が大事であることをお伝えしたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、第4回目で申し上げたとおり、織田信長と協力して武田信玄と戦って敗れました。しかし、信玄はその後まもなく病気でこの世を去り、武田軍も甲府へと撤収します。

その後を継いだのは、信玄の四男である武田勝頼でした。

武田勝頼は、これまでの一般的な評価としては、戦闘能力には長けているものの、武田家をまとめる力はなく、親類や家臣たちに背かれて武田家を滅亡させた張本人とされてきました。

しかしながら、実は大名として優れた資質の持ち主であり、信玄の事業を継いだ当初は信長や家康との戦いに勝ってさらに領土を拡大し、信長や家康は「極めて優れた後継者である」と警戒していたことが、記録の丹念な読み込みによって最近明らかにされてきました。

しかし、それもそのはずです。人材を見極めることについては人後に落ちない信玄が後継者に抜擢したのですから、優れていないわけがないのです。

実は、武田勝頼の時に、武田家の領土は最大になるのです。

しかしながら、長篠の戦いで有力な家臣を一気に失った後、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いで次第に押されていき、ついにはあっけない最期を迎えることになります。

織田信長は、勝頼の滅亡後、「優れた武将であったけれども、不運であった」と評したそうです。

「不運」とは、どういうことでしょうか。

 

皆さんは、「統治基盤」という言葉をご存じでしょうか。
英語では、「governance(ガバナンス)」と言います。
権力を振るうための拠って立つ基盤、ということになりますでしょうか。
要は、「部下はなぜその上司の命令に従うのか」ということです。

統治基盤、いわゆるガバナンスというのは、実は極めて複雑でして、時代、状況、人間関係、その他様々な要因で決まってくるのです。
株式会社で言えば、これは極めてシンプルでして、株式を最も多く保有している株主の支配力が最も強いわけです。
ただし、その株主に対して人間力で影響力を与えられる人がいるとすれば、その人のガバナンスも無視することはできないでしょう。
このように、統治基盤というのは、普段はあまり意識されないのですが、組織の命運を分ける状況においては極めて大きな要素となります。

戦国時代であれば、「家臣たちは、なぜその大名の命令に従って命を懸けて戦うのか?」ということが、統治基盤であると言えるでしょう。

実は、武田勝頼の資質は極めて優れていたのですが、その統治基盤が脆弱でした。

「武田家」は、武士にとって極めて高貴な血筋である「清和源氏」の嫡流(本流)であり、要するに武士の「貴族」でした。会社で言うと、古くから続く「老舗」のようなものですね。
老舗なので、たとえ親族であっても他の家に養子に行った者は武田を継ぐことができない、という暗黙の了解がありました。

 

実は、武田勝頼は諏訪家の養子となって、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
諏訪家は、信玄が滅ぼした大名ですが、諏訪大社の神官を務めており、信濃国においては絶大な権威があったので、勝頼が養子となって継ぐことで信濃国と武田家との結びつきを強くしようと信玄は考えていました。

武田信玄には、長男である武田義信がおり、彼が武田家を継ぐことが決まっていました。義信は今川義元の娘を妻としてめとることで、武田と今川の同盟を強めていました。

このように、武田信玄は婚姻と養子で周辺国との結びつきを強めて、武田家の外交関係を安定させようと苦心していたのですが、そこに驚天動地の出来事が起こります。

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
この出来事が、武田家に大きな波紋を呼ぶことになります。

武田信玄は今川家が衰退すると見て、織田・徳川連合軍に今川が滅ぼされる前に、領地を乗っ取ろうと企みますが、義信から強硬に反対されます。妻の実家を攻めるなどとんでもないと。
武田の家中を二分させる騒動に発展しそうになったため、信玄は義信とその関係者を切腹させて粛清します。
これを通称「武田義信事件」といいます。

義信がいなくなったため、武田信玄はやむなく武田勝頼を跡継ぎとします。しかし資質には全く問題ないとはいえ、勝頼は既に武田家から見ると外様である諏訪家にいったん出されているため、「出戻り」となります。出戻りが後継者となることは、武田家では御法度でした。

従って、武田信玄は自分の正式な跡継ぎは武田勝頼の嫡男である武田信勝(武田信玄の孫にあたる)とし、勝頼はその後見人であると遺言に残すという苦肉の策をとります。つまり、武田勝頼は正式な跡継ぎではなく、その後見人というのが形式的な地位であったため、必然的に武田の家中から軽んじられることとなってしまいました。

要するに、武田信玄が今川の領土を欲したことが、結局は武田家の弱体化を招くこととなったと言えるでしょう。

武田勝頼は、それでも勝ち続けている間は家中を治めることができましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は次第に親類や家臣から背かれるようになります。

そして信玄の後を継いで10年足らずで織田信長の「甲州征伐」により、武田家は親族や譜代の家臣の裏切りや逃亡であっけなく崩壊し、わずか1ヶ月足らずで惨めに滅亡してしまいました。

どんなに後継者の資質が優れていたとしても、それを支える統治基盤が不安定であれば、人からの支持が得られず後継者はその能力を発揮することはできないのです。それが、統治基盤の恐ろしさです。

それを、すぐそばの敵として近くからつぶさに見ていた徳川家康が、学ばないわけはありません。

徳川家康は、資質は平凡でしたが、状況から考えて一番承継するのに無理のない秀忠を後継者に定め、その周りに自分の一番の腹心の家臣を補佐として置きました。
また、秀忠の跡継ぎについても、親から寵愛されていた次男ではなく、長男である家光を定めるように秀忠に命じます。跡目争いを起こさせないようにするためでした。
それだけではなく、直系の子孫が断絶することも考慮して、尾張藩(愛知県西部)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)に親藩(徳川家の親戚)を置き、直系が途絶えた場合にはその藩から跡継ぎを出せるように定めました。いわゆる、リザーブですね。
できるだけ血筋を絶やさないことで、徳川家の統治基盤を守ろうとしたわけです。
このような家康の苦心により、徳川幕府は15代まで続く長期政権となったのですね。

統治基盤は、いざというときに巨大なリスクを発生させる可能性があります。会社で言えば、株式をどれだけ持っているか、ということは経営者や後継者の手腕には全く影響しませんが、手腕を発揮するための前提としては極めて重要となります。株主総会で過半数の決議があれば、どんなに優れた経営者であっても、解任されてしまうのです。

従って、経営者のみならず組織を掌握しようとする人は、必ずその組織における統治基盤を見極めて、それを完璧に掌握する必要があります。逆に言えば、統治基盤を熟知して掌握してしまえば、トップでなくともその組織を動かすことができてしまうのです。
いわゆる「フィクサー」とか「陰の実力者」と言われる人たちがいますが、彼らはたとえ表向きはトップでなくても、その組織を意のままに動かせます。なぜなら、彼らは統治基盤を完璧に握っているからです。

統治基盤は、株式に限られず、人事を動かす力とか、取引先を引っ張ってくる力であるとか、一概に定義することはできません。組織の置かれている環境、制度、人間関係、財産、様々な要素によって柔軟に変化します。
株式会社であれば、株式を多数(できれば全部)掌握しておけば、統治基盤のリスクをかなり低くすることができます。

統治基盤の掌握、これは事業承継の最重要なテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。
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独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。

この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。

地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。

そうすれば、大きな失敗をすることはありません。

徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

 

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

 

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。

しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

 

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。

しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。

今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

 

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。

今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

 

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

 

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。

今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。

家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

 

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。

味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

 

もちろん、この家康の行動には二面性があります。

今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。

一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

 

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。

織田信長ですね。

織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。

この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。

そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

 

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。

人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。

そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。

隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。

この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

 

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。

そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

 

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

 

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。

チャンスの時に、どのように行動したらいいか。

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

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事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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論理的判断は理にかなっているのか

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年初めてのブログです。前回のから2か月以上経ってしまいました。

少しばかり、言い訳を言わせていただくと、年末らしく「2017年を振り返って」と題して投稿させていただこうと思っていました。しかし、2017年の日本企業を振り返るとすれば、やはり、「不正」「ねつ造」について書かなければならないことになってしまいます。「一体何回書けば終わりになるのか?」と気が滅入ってしまって、筆(キーボードを打つ手)が進まないのです。

いくら批判してみても、彼らの行為には、(彼らなりの)合理的な理由(=論理)がある(はずな)のです。そうでなければ、こんなにも多くの大企業で起こるはずがない(はずな)のです。

そこで今回は、二年越しの宿題になった論理的な判断について考えてみたいと思います。

論理的な考え方は、「経営学」の世界では、ロジカル・シンキングと格好よく言い直して使われたりしています。

なるほど、会社では「ああすればこうなって、この部分はコストに見合う利益があがらないから削ることにしよう」とか、「統計的に考えて、この商品は女性層に受け入れられそうだから、生産量を増やそう」とかいうことはよくききますね。

ところが、往々にして削った機能が原因で故障が起きたり、受けるはずの商品が意外に受けが悪かったりして、なかなか思い通りにはいかないものです。

それはそうですよね、今まで問題がなかったからといって将来もそうなるのかは保証の限りではないし、統計だって過去の出来事の集計や分析である限り、将来の出来事を正確に言い当てることなんてできない(はずな)のです。論理的思考の典型ともいえるスーパーコンピュータを使っても、明日の天気予報が外れるんですから。

もちろん、私たち人間は経験や過去の教訓に学んで未来を予測し現実に対処し繁栄をしてきたわけです。しかし、その結果は必ずしも正しいと言えることばかりではなかった、例えば、地球温暖化問題や私の人生のように・・・。

これは人間の知識の形成過程が経験によらなければならないという超えることができない限界があるためで仕方がないことなのです。

かのドイツの哲学者ヘーゲルは「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な言葉を残しています。これは、人間のことを考える哲学は、夕暮れに現れる梟のように(ミネルバはギリシャの女神アテナ(ゼウスの子)のことで、梟とともに智の象徴とされています。日本では「福朗」のお土産もありますね)現実の出来事におくれて現れるという意味で、我々人間の認知能力の悲しい現実を表しているのだそうです。

論理的であることには、常に認知的な限界を持っているのですね。

また、私たち人間は論理だけで考え、行動しているわけではありません。私たちの経験は感情も作りだします。思考とその結果の限界を補完しているのが感情といえます。

私たちは、理屈に合わないことに対して怒ったりしますし、悲しい経験や嬉しい経験が糧になって努力を重ねて成功するなどということもよく聞きますが、感情が私たちの行動に強い影響を及ぼしていることは実感としても納得できると思います。

そして、私たち人間は自我を持っています。自我とは、自分が自分である根本といえるものですが、これも自分を取り巻く人々や物事との関係や経験から形作られています。

私はこうしていわば他人から創り上げられた自我というフィルターを通して世の中で起きる様々なことを経験し生活しているわけで、そのうえで論理や感情が生まれるわけです。

この様に論理的思考そのものに認知的な限界があるうえに、人間の行動には感情や自我の介在があり論理的思考だけでは説明できないのです。

このブログを書いている最中、星野仙一さんの訃報が流れました。星野さんといえば、闘将と呼ばれ強力な個性で闘争心むき出しの姿がすぐに浮かびますが、その一方で選手やスタッフの奥さんお誕生日に花束を贈るなど、細やかな心遣いの人であったそうです。

星野さんの野球理論の話はあまり聞いたことがありませんが、人間としての感性が人を惹きつけ、そう強いとは思えない3つの球団を優勝に導いたのです。

論理は勿論大切ですが、物事を論理通り進めるのは人の力なのです。人は論理だけでは動かない、むしろ、論理では動かない。人を論理通り動かす仕組みを常に供給することこそ経営者(リーダー)の仕事ですね。

▼後継者が経営者となり先代を超えていく者達の学び場

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