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日本の首都を作った徳川家康(後編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑩

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。9回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

9回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったこと、という前回からの続きです。家康が感じた、関東への移動のメリットとはなにか、です。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

北条氏を降し、東北の大名も支配下に置いて、文字通り天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、政権の礎を盤石にするべく、東海・甲信地方の大勢力であった徳川家康に関東への移動を命じます。実力者である家康を、箱根の向こうへ封じ込めるのが狙いでした。

しかし、徳川家康はそれを受けて、1月足らずの間に電光石火ともいえる尋常でない早さで移動を完了してしまいます。

しかも、北条氏のいた小田原城ではなく、掘っ立て小屋のような江戸城へと入りました。

 

実は、徳川家康は北条氏を攻める前に、予め関東地方を詳しく調査して、移動を命じられた場合はむしろメリットの方が大きいと判断していたのです。

 

家康が考えたメリットは以下の通りです。

・既に天下は定まって敵のいない今、防衛のために荒れ地となっていた江戸を開発すれば国力が飛躍的に高くなる。

・河川が多いということは、陸上輸送よりも水上輸送が主であった時代においては、物流網を構築しやすい。

・北条氏が治めていた地を引き継ぐのは、前回書いたようなデメリットはもちろんあるが、法制度が統一されていたためむしろ統治はしやすい。

・先祖代々治めていた地から引き離されることは、不便もあるが、昔のしがらみを断ち切って新しい制度を作ることができるし、家康の求心力はむしろ高まる。

・豊臣政権に臣従した以上、秀吉の下ではどのような取り扱いを受けることも覚悟していた。

 

江戸は、利根川、荒川、多摩川という大河川が東京湾に注ぐその河口に位置しているため、前回も申し上げましたが、大雨が降るとすぐに氾濫するような湿地帯でした。北条氏は、小田原城の防衛のために、江戸城の周りをあえて湿地帯のままで放置していたため、寒村があるだけの寂れた土地であったのです。

 

しかし、豊臣による天下統一がなされた今となっては、湿地帯のまま放置しておく必要はありません。治水事業で氾濫を防止すれば、広大な平野は利用しがいのある領地に化けます。

また、河川が多いというのは、徒歩や馬しか陸上の移動手段がなく、舟による水運が主体であった当時としては、交通の便がいいというメリットがありました。現に、秀吉が作った大坂も河川の多い地で、舟運により商業都市として大きな発展を遂げています。

つまり、デメリットは視点を変えれば、あるいはうまく生かせば大きなメリットに変わりうるのです。

 

また、関八州は領民に対して善政を敷いていた北条の支配のもとで、統一された制度が浸透していました。

それまでの家康の領地は、出身の三河国、その次に増やした遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国と、全てそれぞれ統治の制度が違っていたため、代官(知事)もそれぞれ置く必要があり、余計なコストがかかっていたという事情がありました。

ところが、関八州は代官が一人ですむのです。これは大きなコストカットになりました。

 

そして、三河国にしろ他の国にしろ、もともと住み着いていた豪族たちを家臣にしたわけですから、家康としてはそこに遠慮もあったわけです。

しかし、まるごと全員移転してしまうと、家康も白紙の出発となりますが、家臣たちも同じです。過去のいろいろなしがらみがなくなって、改めて主従関係がゼロから出発するわけですから、家康の権威はより強くなるというわけです。

また、昔から続いていた不合理なしきたりや制度も、この移転で全て白紙にすることができました。

 

秀吉からは、箱根の向こうに追いやられて、監視役をいっぱいつけられたわけですが、もともと豊臣政権に臣従した時点で、家康はこのような取り扱いを受けることは覚悟していました。

むしろ、自分から積極的に秀吉の意向に従ってやろう、というくらいの気構えをもっていました。

本当は主人以上に有能な人間が、反抗するどころか主人の半分嫌がらせみたいな扱いにも黙々と従う姿を見ると、主にとっては反抗されるよりも不気味な存在になります。いわゆる「器が大きい」存在ですね。

このような家康の姿勢は、豊臣政権においてその存在感をいっそう際立たせる効果がありました。

 

家康は関東に移ると、ただちに伊奈忠次に命じて河川を改修し、新田開発と検地を行います。河川の改修は、やがて規模が大きくなり、ついには利根川を移動させる大事業に結実します。江戸時代以前は、江戸湾に注いでいた利根川は、この事業によって千葉の銚子を河口として太平洋へ注ぐようになります。

 

家康が命じた大改造によって、寒村だった江戸は、1609年頃には15万人の都市へと発展します。

江戸幕府が家康によって開かれた後は、天下の首府として大発展を遂げ、江戸時代の中頃には100万人のメガポリスに変貌したのでした。

 

徳川家康は、統治制度も全て一から見直して合理的なものに変更し、東の果てに置かれたおかげで朝鮮の役への参加も免れ、着々と天下を取るための力を蓄えます。

 

秀吉が老衰で亡くなった時点では、家康の存在感と実力は他の大名よりも抜きん出たものになっていました。

 

ある事業が有利か不利か、それは現時点ではなく将来の可能性も合わせて考えてみると、デメリットと思っていたことが実はメリットになることもあり得ます。

SWOT分析などで事業の可能性を考える時は、環境や前提を自分で変えられるかどうか、も合わせて考えてみると、答えが全く逆になることもあるでしょう。

 

徳川家康は、秀吉の密かな目論見を全てひっくり返すことで、より大きな飛躍を遂げることができました。

そしてその飛躍は、現代においても「東京」という形で日本人に大きな恩恵を与えているわけです。

器の大きい人がすることは、多くの人に計り知れない影響を与えるということです。

 

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後継者の学校
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