歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(最終回)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

なお、今回以降も、また前回以前も、歴史の解釈に関しては全く私の私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

今回は、石田三成の最終回です。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成は、着々と力をつけて堂々と挑戦しました。

 

徳川家康は、豊臣政権が文禄・慶長の役(朝鮮侵攻)で大名たちや領民たちを疲弊させていること、豊臣政権だけが富むような施策に対して、世間の見る目が厳しくなっていることを、政権の重臣として肌で感じていて、秀吉亡き後は自分が政権を取った方が豊臣政権よりも世の中をよくできる、と思っていました。

 

そういう意味では、あくまで豊臣政権への忠誠心だけで行動していた石田三成よりは、家康の方がはるかに視野が広かったと思われますし、その考え方を支持する大名が多かったのは事実です。

 

ただし、たとえ人心を失うような政治をしていたとしても、権力を握っていたのは豊臣家であり、豊臣家に対して忠誠心を持っている大名は多かったこと、またそのような家康の動きに反感を抱いている大名もいました。

 

三成が挙兵していたという報を聞いて、宇都宮まで進んでいた徳川家康はいったん江戸に引き返します。ともに従軍した武将たちは、ほとんど全て家康側(東軍)につくことを誓いました。

一方、三成に味方して豊臣側についた武将たちは、「西軍」と呼ばれます。西軍は石田三成がとりまとめ役でしたが、表には出ないようにとの島左近のアドバイスを受け入れて、毛利輝元に総大将を依頼しました。

 

江戸にいる家康、大坂にいる三成、それぞれ味方を一人でも多くすべく、各地の大名に書状を送ります。

 

名目上の主君は豊臣であるものの、トップに力量があるのは徳川であるため、各地の大名の判断は複雑になります。

表向きは西軍についたものの、裏では家康に使者を送って忠誠を誓っているようなケースがかなり多かったようです。

このそれぞれの大名の思惑が、関ヶ原の戦いをより複雑なものにしました。

 

戦いのための準備を一通り終えて、徳川家康は西へと向かいます。

 

家康西上の報を受けて、石田三成も大垣城に入りますが、前に申し上げたとおり徳川家康は城攻めを苦手としていたので、三成の佐和山城へ向かうふりをして誘い出そうとします。

一方、三成も野外で堂々と決戦して勝つ自信があったため、大垣城を出て関ヶ原で待ち構えます。

 

こうして、さほど広くはない関ヶ原に、東軍約7万5千人、西軍約11万人もの兵士が布陣しました。

 

意外と三成が頑張ったどころか、むしろ西軍の方が多いではないか!と思われる方も、もしかするといらっしゃるかもしれません。

 

明治時代にドイツから招聘された、戦略戦術に長けた参謀将校であるクレメンス・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て即座に「西軍の勝ち」と断定したという話が知られています(これは創作という説もありますが)。

 

しかしながら、先ほども触れたとおり関ヶ原の戦いは極めて「政治的」な戦いであり、東軍のほとんどは徳川家康に忠誠を誓っていたのに対して、西軍で石田三成の指揮のもとに動いたのは3万人もいないような状況でした。

あとは、「日和見」をしていたのです。どちらかが勝ちそうになったら、そちらに味方しようと。

実質的には、東軍7万5千人対西軍3万人ですから、やはり東軍の方が優勢だったわけですね。

 

様々な思惑が交差する中、いよいよ関ヶ原の戦いの幕が上がります。

 

東軍の先鋒の武将たち、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、みな「三成憎し」で家康に味方した者たちでした。争って、自分こそ憎き三成の首を上げてやろうと、石田三成隊へ殺到します。

 

石田三成隊の総大将は、当然のこと、島左近です。

 

この日の島左近の戦いぶりは、のちのちまで語り継がれるほど激しいものでした。

乱戦の中央に、鬼神のごとく馬上で仁王立ちとなり

「かかれえーっ、かかれえーっ」

戦場で鍛えた、低く鋭く響き渡る塩辛声で叱咤する声に応えるように、三成の兵士たちは攻めてきた東軍を苦もなく蹴散らします。

この一戦にかける三成の意気込みで一つになった士卒たちの形相をみて、東軍の武将である田中吉政は怖気をふるいます。

「こいつら、死ぬ覚悟で戦っている」と。

 

細川忠興は、戦いから10年たっても、この島左近の突撃の夢にうなされたと述懐しています。

 

石田三成を「ソロバンしかできない、腰抜け侍」と普段から罵っていた福島正則や黒田長政も、島左近の猛烈な突撃に防戦一方となります。

 

東軍に不利となってきた戦況を見つめる徳川家康の顔に、次第に焦りの色が見え始めます。つい、癖となっている指の爪を噛む仕草が激しくなります。

圧勝するどころの話ではない。目の前で東軍が敗北しつつある。周りで日和見している武将たちが、心変わりするかもしれない。

一人の武将が寝返ると、周りの武将たちも雪崩を打ったように西軍へ味方するのは目に見えています。そうなれば、さしもの徳川軍も敗亡せざるを得ない。

 

今川義元、織田信長、豊臣秀吉に仕え、若い頃からこき使われてきた苦労にじっと耐えてきた己の人生。

苦労も知らない、豊臣の小憎らしい若造に、自分と家臣たちが営々と積み上げてきたものをひっくり返されてなるものか。

 

徳川家康は、臆病なほど慎重なことで有名でしたが、生きるか死ぬかの土壇場になると人変わりがしたように大胆になります。この相反する二面性が、もしかすると家康に天下を取らせたのかもしれません。

 

部下を呼び、家康は命じます。

 

「松尾山に鉄砲を撃て」

 

部下は耳を疑います。松尾山には、東軍への裏切りを約した小早川秀秋1万5千人が布陣しています。もしも、鉄砲を撃って怒らせでもしたら、西軍に寝返られ、東軍は敗亡しないとも限りません。

 

「いいから行け!金吾(小早川秀秋のこと)につるべ打ちで撃ってやれ!何をぼやぼやしているのだと」

 

徳川家康の陣から撃ちまくられた小早川秀秋は、その気迫に震え上がり、松尾山から西軍へと攻め下ります。松尾山から一番近くに布陣していたのは、大谷吉継でした。反撃もあえなく吉継は戦死して、島左近も鉄砲で撃たれて屍をさらし、西軍は敗北しました。

 

石田三成は戦場から落ち延びますが、山中で捕縛されて京都で打ち首にされます。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康に上杉景勝と直江兼続は降伏し、はるか北国へと押し込められることになります。

 

3年後に徳川家康は征夷大将軍に就任して、江戸に徳川幕府を開くことになるのは、ご存じの通りです。

 

石田三成は徳川家康に敵対したために、江戸時代は散々な汚名を着せられます。

 

しかし、多くの大名が強い徳川家康になびく中、豊臣を守ろうと立ち上がった石田三成の勇気と忠誠心は、江戸時代であっても心ある人々、例えば水戸光圀などには賞賛されていました。

強大な家康に徒手空拳で立ち向かった三成の勇気を思えば、汚名ぐらいはむしろ名誉なことかもしれません。どうでもいい敵ならば、憎まれることはないからです。

 

何よりも、石田三成が自ら証明したように、普段から必要な努力を惜しまなければ、たとえ圧倒的な敵を相手にしても対等に戦えるところまで持っていくことができること、これは私たちに大きな勇気とヒントを与えてくれますね。

 

一時的な人の評判やその時の気分に流されず、長い目で見て自分にとって必要な努力を営々と続けること、自分がしなければならないことをたとえ嫌われてもやり続けること、そうすることによって人からの本当の信頼を得ることができるということを、石田三成の生涯は教えてくれるように思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(4)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密は、紹介した歌にあるように、三成が大きな代償を払って重臣を招いたこと、また身分不相応なほどの大きな城を築いたことで、三成が大名として飛躍的に力をつけたことにあると前回まで申し上げました。

 

初回で申し上げたとおり、石田三成は「へいくゎい者」(横柄者)と呼ばれていたように、無愛想で冷たい、とりつく島もない官僚のような印象を相手に与えていました。そのおかげで、豊臣政権の中では人気がなかったと言われています。

 

しかし、三成が豊臣政権の中でそのような態度を取らざるを得なかったのは、それなりの事情があります。

 

豊臣政権は、秀吉が子飼いの部下の中から取り立てたり、あるいは大きな利益を餌にして味方につけたりした武将が大名の多くを占めていました。野心と勢いはあるが、統制が取れていないのです。大坂城内で平気で泥酔して暴れたり、口論がエスカレートして取っ組み合いの喧嘩になったり、あるいは戦いで周りの動きなど一切構わずに、自分の手柄をたてようと抜け駆けしたおかげで、他の武将が危機に陥ったりするなど、様々なトラブルを起こす武将が多かったようです。

 

そのような中で、武将たちに対してしっかりとしたまともな統制を取ろうとすると、それをする人間は自然と嫌われ者になるのは、世の習いですね。その嫌われ役を、政権のトップである秀吉は当然やりませんので、そういう汚れ仕事は、部下に回ってくるのは時代を問いません。

 

石田三成は、豊臣政権の中での自分のすべきことを理解して、几帳面なほどにそれを実行しただけなんですね。ただし、秀吉が存命のあいだは、三成は自らの職務だけ考えていれば十分でしたが、後継者が育っていなかった秀吉亡き後の豊臣政権にあっては、もう少し政治的な動きが求められていたのです。その変化に適応するだけの力が三成には不足していたのに対して、経験豊富でスタッフも充実していた家康はうまく対応することができました。どのような違いがそこにあったのか、それはまた稿を改めて申し上げたいと思います。

 

そのように、石田三成が自らの職務に忠実であるほど、特に「武断派」と呼ばれる武闘派の武将(普通の会社で言うと、「現場」ですね)からは嫌われましたが、一方でストイックなほどに自らを高め、嫌われることもいとわずに自分の職務に邁進する三成に惚れ込む人たちもいたのです。

 

前々回で紹介した島左近もその一人であり、また武将として活躍した舞兵庫などもそうですが、一般的に世に知られているのは豊臣政権を同じ官僚として支えた大谷吉継と、上杉景勝の右腕であった直江兼続の二人でしょうか。

 

大谷吉継は、石田三成と同様に、少年の頃に秀吉に見込まれて取り立てられ、秀吉をして「大軍を紀之介(吉継の幼名)の采配に任せてみたい」と言わしめるほどの器量がありました。三成とは肝胆相照らす仲であり、無二の親友と言ってもいい間柄だったのです。

 

二人の間柄を示すエピソードを紹介したいと思います。

 

後年、大谷吉継は重病(ハンセン氏病と言われています)を患い、顔を布で隠していました。ある日、茶会に呼ばれましたが、吉継はお茶を飲んだときにうっかりと膿を茶碗の中に落としてしまいます。当然、参加者はお茶を飲むふりをして茶碗に口をつけませんでしたが、三成は膿ごとそのお茶を飲み干して、さらにお代わりを所望したと伝えられています。それを見ていた吉継がどう思ったか、申し上げるまでもないかと思います。

 

一方、直江兼続と三成の強い絆も有名です。直江兼続は、ご存じの通り義を重んじる上杉家の重臣ですが、自身も義理堅く剛毅な人柄で知られていました。

あるときに、秀吉の居城であった伏見城内で、仙台の伊達政宗が金の小判を、「皆見たことがないだろう」と半分自慢げに出席者に見せていたところ、兼続は小判を扇子の上に載せて受け取りました。政宗は兼続が遠慮しているのだろうと、「手に取って見よ」と言ったところ、「小判など、武士の手の汚れになるわ」と扇子で投げて返したそうです。

兼続の誇り高さ、気の強さが推し量れるエピソードですね。

 

直江兼続が上杉家と上杉景勝を強く想う心、そして石田三成が豊臣家と豊臣秀吉に抱く熱い忠誠心、似た者同士が一晩明かしてお互いの主君について語り合った夜もあったのではないでしょうか。

 

石田三成、大谷吉継、直江兼続は、三人ともそれぞれ秀吉亡き後の豊臣政権について憂慮していましたが、思いも空しく秀吉は病死してしまいます。

 

豊臣秀吉の死後、三人が懸念していたとおり、秀吉の遺言に反して徳川家康が大名との婚姻政策を進めたため、石田三成が奉行としてその行為を弾劾します。しかし、三成は家康党である加藤清正や福島正則から命を狙われて、家康の仲介で和解する代わりに豊臣政権からの引退を強制されることとなります。

 

石田三成という弾劾者がいなくなったことで、徳川家康の行動を縛る者は中央にいなくなりました。暗に反家康党とみられていた会津の上杉家が、家康に近い家臣を追放したり、国境の城を修築したりしていることについて家康がとがめたところ、「直江状」と呼ばれる直江兼続からの反論が来たことを受けて、徳川家康は会津を征伐することを決意します。

 

福島正則、黒田長政、細川忠興など家康党と呼ばれる秀吉の家臣を率いて、徳川家康は会津を目指して東へ下りますが、その隙をついて石田三成は家康討伐のために関西で挙兵します。

 

実は、「直江状」による家康への挑発は石田三成と直江兼続との密謀だったと伝えられています。その確証はないとも言われていますが。

そして、実は三成の挙兵も徳川家康の目論見通りであり、石田三成側についた軍勢を、豊臣政権の家康党の武将とともに打ち破ることで、徳川政権を強引に成立させてしまおうというシナリオだったとも言われています。

 

徳川家康とも意思疎通のあった大谷吉継は、強大な家康には到底三成の勝ち目がないとみて挙兵をとどまるように説得しますが、最終的には三成の熱意に押し切られて、三成と志をともにすることを決意します。

 

こうして、石田三成は徳川家康との戦端を開くことになったのです。

しかし、決して三成は独りで立ち上がったわけではなく、有力な協力者がいたわけですね。大きい志を持って、孤独であってもぶれずにすべき努力をし続けていれば、必ずそれを見てくれる人はいるのです。もしも三成がその場の状況に左右されているだけの人間であれば、そもそも家康への挑戦すらできなかったことでしょう。

 

徳川家康への石田三成の挑戦がどのような結末を迎えたか、次回は最終回です。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(3)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密を、今回もまた続けて考えたいと思います。

 

前回、石田三成の挑戦を探る鍵が、当時の三成をはやした次の歌にあると申し上げました。

「治部少(じぶしょう・三成のこと)に 過ぎたるものが二つあり

島の左近に 佐和山の城」

 

「島の左近」、島左近は前回申し上げましたね。

今回は、「佐和山の城」です。

 

「佐和山の城」とは、現在の彦根市にある佐和山城のことです。城は現存していませんが、城跡が彦根城のすぐそばにあり、電車の車窓から眺めることができます。城跡といっても、単なる山なのですが。

 

もともとは六角氏や浅井氏の城だったようです。秀吉の時代になって、三成が佐和山19万石の領主を任されて、佐和山城に入りました。

 

石田三成は、城主になってすぐに、佐和山城を徹底的に改修します。改修どころか、ほとんど別の城に作り替えます。

標高が232mもある山の上に、5層(5階建て)もの大天守を築くのです。

 

秀吉の築いた大坂城、徳川家康が徳川幕府を開いてから築いた江戸城も、それぞれ天守は5層でした。

19万石ごときのちっちゃな大名が築くような規模の城ではありません。だからこそ、「過ぎたるもの」と歌われたわけですね。

もちろん、三成にはそれだけの大きな城を作った目論見がありました。

 

彦根市をGoogle mapなどで見てください。

地形がわかる地図だともっといいのですが、岐阜から滋賀県へとたどってみると、関ヶ原付近は南北の山に挟まれていて、滋賀県に入ると平地が広がるような地形になっていますね。

彦根は、関ヶ原を通り抜けて平地に入ったすぐのところに位置しています。

 

岐阜方面から滋賀県を通って大阪に攻めてくるような敵は、大軍であるほど関ヶ原を通らざるを得ず、その関ヶ原を過ぎると彦根に突き当たります。

ここに強力な要塞を作れば、関ヶ原に敵を封じ込めることができます。

 

豊臣秀吉が、石田三成を佐和山城に入れた理由がわかりますね。また、三成も自分の役割を十二分に理解していました。

仮に徳川家康が大軍で攻めてきても、持ちこたえられる城を築いたわけです。

 

また、当時の城は単に敵が攻めてきたときにこもる「軍事目的」だけのものではなく、内政や外交の拠点であり、かつ城の周りには「城下町」ができるため、経済の中心としての機能も果たしていたわけです。

 

特に、佐和山城は日本の五街道の一つである「中山道」に面していて、旅人の往来が多い場所でした。そこに見上げるような立派な城がそびえ立っていると、いやでも人目につくようになります。当時は、みな徒歩で旅をしていましたから、道中は退屈なんですね。立派な建造物があると、ついつい見とれてしまうわけです。「なんて、すごい城なんだろう!なぜ、こんな鄙びた場所にこんな立派な城があるのか!」と。

その評判は人から人へと伝わり、ついには世間の評判になります。世間の評判が高くなるにつれて、佐和山の人たちは佐和山城を誇りに思うようになり、また石田三成への忠誠心も高くなるのです。

 

関ヶ原の合戦のあとで、石田三成の領地を任された井伊直政(徳川家の重臣)は、その佐和山城を使わずにこれを徹底的に破壊して、改めて新しく彦根城を築きました。おそらく、石田三成への領民の思いを消すためでしょうか。いかに、佐和山の人たちが佐和山城を誇りに思っていたか、石田三成を信頼していたかがうかがえるエピソードです。

 

さらに石田三成が徹底しているのは、城の外観が立派であるのに対して、内装は極めて質素だったことです。内壁を塗ることもなく、床は板張りで、庭にも大したお金をかけていませんでした。まさしく実用一点張りの城だったのです。城内に金銀の蓄えもほとんどありませんでした。いかに、三成が自分のためではなく、豊臣秀吉に尽くすため、あるいは領民のためにお金を使っていたかがわかります。

 

この佐和山城があるおかげで、徳川家康の行動も大きく影響を受けます。城を攻めるのを極端に苦手としていた家康は、関ヶ原の合戦の直前に石田三成が大垣城に籠もっていたことをみて、より強固な佐和山城へ籠もられないように、大垣城を迂回して佐和山へ向かいます。それを見た石田三成がそうはさせじと家康を先回りすることで、関ヶ原で戦いが起きることになるわけです。

 

石田三成は、自分に足りないところ、また自分がするべきこと、準備することをよく心得ていて、そのためだけにお金を使ったのです。すなわち、「人」と「器」に投資したわけですね。立派な武将と城を持つことで、石田三成の力量に対する世間の信用力はぐんと上がりました。

 

島左近を招き、佐和山城を築いた石田三成は、どのように家康に挑戦したか、それをさらに見ていきたいと思います。

 

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入国禁止措置と企業のあり方

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

トランプ大統領が就任してひと月がたとうとしています。矢継ぎ早に発布していた大統領令もこの頃は少し落ち着いてきたようです。今回は、前回予告した通り1月27日に出された中東・アフリカ7か国から市民入国を禁止する大統領令について考えてみます。

大統領令で指定された7か国は、イラク、シリア、イラン、スーダン、リビア、ソマリア、イエメンで、テロ支援国家、内戦状態・政情不安が続いていることが理由として挙げられたようです。

この大統領令が発布されると正規なビザを持っている人々までも入国できずに、アメリカのみならず各国の空港で大きな混乱が引き起こされました。

大統領令に異議を唱えた司法省のトップはその日のうちに解任されたりして、さすがアメリカとびっくりするやら、納得するやら、トランプ政権の船出は、ある意味ダイナミック(ハチャメチャにも見えますが)なものです。(あくまで、現在進行形なので)

その後、というより発布直後から、この大統領令に対する批判は、アメリカ政界の与野党問わず、法曹界からも批判続出で、ワシントン州の連邦地裁が効力の停止の決定をし、政権側が控訴する騒ぎとなりましたが、結局、大統領令の差し止めが決定しました。

政権側は、控訴をあきらめ、新たな入国管理措置を講ずることとなり、この大統領令による混乱は、当面回避されることになりそうです。

この大統領令は、シリアからの難民は無期限停止としているものの、他の国からの難民の受け入れは90日あるいは120日間停止することと、生体認証による出入国管理システムの整備を進めるなどの内容であり、まったく正しいとは言わないまでも、全くダメという内容でもないのです。

そもそも、自分の国に誰(何)を入れて、誰(何)を入れないかは、まったく100%その国の判断によることになっています。私たちが、アメリカに行くとき(短期)に入国のための査証(ビザ)が不要なのは、アメリカ人が日本に来るときに同じ扱いになっているからです(うちの国の人を受け入れてくれるなら、同じ条件であなたの国からの人も受け入れますよ)。これを互恵協定といいますが、今回の大統領令にも、互いの協定が本当に互恵関係になっているかを再検討するとなっています。

政権側は、大統領令は「合法で適切」であり、「大統領令は国土を守るためのもので、大統領には米国民を守る憲法上の権限と責任がある」(http://www.bbc.com/japanese/38866319)と表明しています。

注目すべきは、この大統領令については、調査の時期や機関によっても違いがありますが、ほぼ50%の人が支持しているという事実です。これは、移民に対するこの原則は十分に説得力と実行力を持っているということを示しています。

一方で、雇用問題では概ね協力姿勢だったアマゾンなどの大企業が、「アップルは移民なしに成り立たない」(ティム・クック)、「移民がこの会社とこの国、そして世界にもたらすポジティブな力を目の当たりにしてきた」(インテルCEOサティア・ナデラ)など、一斉に反発しています。

企業が大規模化しグローバル化し、従業員の国籍も多様化していく中で、一つの統一したシステムとして機能していくためには、同じ価値観のもとに糾合する文化と価値観が必要とされていることを強く意識させるものでした。

翻って、わが日本は、難民の受け入れ人数の累計(平成18~27年)が、284人であり(法務省統計)、今回の大統領令による今年度受入数を5万人まで(11万人から半減)とは比べ物になりませんが(こと難民移管する限り、大統領令より何百倍も自国民の安全を守っていることになります)、企業の現状では、国際的な展開をしている企業だけではなく、国内にとどまっている企業についても、外国人労働者の問題は(欧米の難民問題は、労働力不足を補うことから始まっていることをみても)避けて通ることはできない問題ではないでしょうか。

ドラッカーは、日本の明治以降の発展を「近代国産業国家という新しい目的のために、日本独自の共同体伝統および人間の価値観をはたらかせた事実こそ、なぜ日本が成功したかを示している」(ドラッカー全集5「伝統的経営仮説の終焉」ダイヤモンド社)と言っています。

国際間の距離が、物理的にも、技術的にも縮まり、地域の伝統や価値観が日々、直接接触する世の中で、それらを融合する役割を否が応でも担わなければならない時代になっているように思えます。宗教的にも寛容な日本の役割が求められているのではないでしょうか。

 

このように移民や外国人労働者という観点から

「文化違いを受入れ、発展させる」ことは

事業承継にもつながることではないでしょうか。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(2)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回は、前回からの石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密を、今回は探っていきたいと思います。

 

石田三成の挑戦を探る鍵は、当時の三成をはやした歌にあるように思います。

 

「治部少(じぶしょう・三成のこと)に

過ぎたるものが二つあり

島の左近に 佐和山の城」

 

石田三成は、自分の欠点の一つとして、戦場での経験が浅く、また謀略が不得意であることをよくわかっていました。

秀吉から近江国(滋賀県)の水口4万石を任されたときに、自分の右腕となってくれる部下を召し抱えることを決意します。

 

しばらくして、秀吉がふと気になって、

「佐吉(三成の幼名)よ、そなたを大名に取り立ててやったが、どれだけの家来を召し抱えたのだ?」と三成に質問します。

計算に明るいしっかりものの佐吉のことだから、さぞ多くの家来を召し抱えたに違いない、と秀吉は考えました。

 

すると三成は

「一人です」と答えます。

 

秀吉は驚いて、「一人とはどういうことだ?」と尋ねると、三成は、

「筒井家の牢人、島左近を召し抱えました」と答えるので、秀吉は苦笑します。

「島左近ほどの名士が、そちのような小身者のところに来るわけがないではないか」

 

島左近(しまさこん)。

 

またの名を、島清興(しまきよおき)ともいいます。

大和国(奈良県)の筒井順慶の重臣として活躍し、戦闘の指揮の巧みさと外交や謀略に明るい名士として、その名が知られた存在でした。

蒲生氏郷や豊臣秀長にも仕えたようですが、当時としては高齢でもありその後は隠居していたようです。

様々な仕官(リクルート)の話もありましたが、全て断っていました。

 

石田三成からの誘いも,当然のことながらいったんはにべもなく断ります。

島左近にしてみれば、豊臣家の若造が、身に余る出世をしたばかりに頭に血が上ったのだろう、くらいにしかとりません。

4万石ごときの大名が、なにを血迷ったのかと。

 

しかし、三成はあきらめません。

島左近に出した条件が、破格でした。

 

4万石のうち、2万石(1万5千石という説もあります)を与えるから来てくれと。

今で言えば、4億円の売上(利益ではありません)のうち半分を毎年差し上げるということですね。

ほとんど、あり得ない条件です。

1万石以上が「大名」と呼ばれていたのですから、同じ国に大名が二人いることになります。一緒に社長をやってくれというのと同じですね。しかも、経費は全部三成持ちです。

 

さすがに、島左近も心が動きますが、やはり仕官するつもりはないけれども、せっかくの申し出なので三成に会って断ろうと面会に応じました。

 

しかし、島左近は結局三成の申し出を受け入れます。2万石の誘惑に負けたわけではありません。

他の大国に行っても、それくらいはとれる島左近です。たたき上げの海千山千の軍師であった島左近は、三成の裏表のない一途な正義感の強さにすっかり魅了されてしまったのです。

 

いい人材を手に入れるためには、売上の半分をあげることもいとわない。

秀吉はその話を聞いて、大笑いするとともに、昔の自分を見るように三成を頼もしく思います。

三成は、大名となったことに満足しない、大望を抱く男だと。

 

島左近を右腕としたことで、石田三成軍団は格段に強力な存在となります。

後から加わった、歴戦の指揮官として知られる舞兵庫や蒲生頼郷とともに、関ヶ原の戦いで伝説的な強さを発揮することとなります。

 

また、島左近は戦いだけでなく、情報収集や各種の謀略にも手腕を発揮することとなります。

 

この島左近が、冒頭の歌の「島の左近」に当たるわけですね。

最初は、「過ぎたる」ものであったかもしれないけれども、この主従は最後は一枚岩のようになるのです。優れた家臣を召し抱えることで、三成自身も成長したわけですね。

大名も、会社と同じで「人材」が大切なのです。

 

次回は、後半の「佐和山の城」に触れますね。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校  http://school-k.jp/

後継者育成のジレンマ

こんにちは。後継者の学校の大川原です。
あるデータでは、事業承継で苦労したことは断トツ1位で「後継者育成」と出ていました。
なぜ、後継者育成が一番苦労したことなんでしょうか?

 

”事業承継”で一番苦労したことは、「後継者育成」と言っている経営者が6割という集計データが帝国データバンクが行ったアンケートの結果としてありました。

 

ちなみにそのデータの第2位が「事業の将来性」3割、第3位が「従業員の理解」3割弱でした。
実に倍の数値で、「後継者育成」に苦労した方が多いということです。

 

どうして、「後継者育成」がダントツで苦労したことに挙げられているのでしょうか?

 

その答えのポイントとして、「経営者が後継者を育てるのは初めて」ということがあるのではないでしょうか。

 

第2位の「事業の将来性」も第3位の「従業員の理解」も経営者にとってみたら、これまでの経営者人生で幾度となく考えて実施してきたことだと思いますが、「後継者の育成」は、経営者のほとんどが初めての経験なのではないでしょうか。

 

初めてだからわからない。わからないから苦労をするのです。

 

よく、経営者から「後継者は、まだまだ半人前だから任せられない」という言葉を聞くことがあります。

 

しかし、どうしたら任せられるのか?一人前とはなにか?基準を問うと明確に答えられる方は多くありません。
おそらく、経営者の感覚的にまだ任せられないと感じているのではないかと思います。
その感覚は概ね間違っていないとは思いますが、ただ、明確な基準がないと後継者を育てるにしても、どこをどうしたらよいのかわからないのではないでしょうか?
後継者に何が足りないのか?と問われてもあいまいな答えになってしまっては、後継者もどうしたらよいのかわかりません。

 

では、どうなったら任せられるのか?

その基準について、少し触れたいと思います。

 

まず、経営者になるための最も大事なポイントは経営の知識ではないということです。

当然知識も必要ですが、知識は一番ではありません。知識だけでは経営はできないからです。
ちなみに、私は中小企業診断士という経営の知識を持っているという国家資格をもっていますが、この中小企業診断士のほとんどは経営をすることはできません。知識しか持っていないからです。
経営者に中には、経営の知識はなくても、すばらしい経営をされている方がたくさんいらっしゃいます。

 

知識よりも大事なことはなんでしょうか?

 

それは、経営者としての覚悟と経営するための行動や思考です。
心・技・体で分けると、”心””体”の部分です知識の”技”は最後になります。
これが経営者となるために、まず必要な部分だと考えています。

 

では、経営者としての”心”(覚悟)と”体”(思考・行動)はどう鍛えるのでしょうか?

 

私は、それは経験でしか鍛えられないものだと考えています。
お勉強で鍛えられるものではないので、経営の現場でしか鍛ていくことができないのではないでしょうか。

ただ、
経営者としての覚悟とは何か?
経営者として必要な行動や思考とは何か?
をということを知らないと、
鍛えることすらできませんので、経験の前にまずは知ることが大事になります。
それが何かを知ってから、実践の中で経験し鍛え続ける。

そして、そこに経営の知識やノウハウを組み合わせていく。

そうすると、経営者としての心技体がバランスよく鍛えられて、後継者が本物の経営者に成長していくと考えています。
逆に経営者は、この心技体の視点で後継者がどの程度成長しているのか見定めて、その成長をサポートするとよいと思います。

 

 

いかがでしたでしょうか?
なにか気づきになることはありましたでしょうか。

後継者の学校では、当然知識だけでなく、この心技体を体系的に理解して鍛えるための学びが充実しておりますので、
後継者が経営者として成長するための最適な学びの場となっております。
まずは、定期的に入門講座を開催しておりますので、
気軽に参加して、事業承継と後継者経営を前に進ませるきっかけにしていただければと思います。

 

【直近の「入門講座」情報】

○東京校
2017年2月16日(木)19:00~21:00
→ http://school-k.jp/pre-tokyo-20170216/

2017年2月27日(木)18:30~20:00
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○大阪校
2017年2月22日(木)18:30~20:00
→ http://school-k.jp/pre-osaka-20170222/

2017年3月29日(木)18:30~20:00
→ http://school-k.jp/pre-osaka-20170222/

○九州校
2017年2月25日(土)13:30~15:30
→  http://school-k.jp/pre-kumamoto-201701/

お気軽にご参加くださいませ。
どうぞよろしくお願いいたします。

代表取締役 大川原 基剛

なんのために事業承継するの?

こんにちは。後継者の学校の大川原です。

「なんのために事業承継をするのか?」

この問に、経営者の皆さん、後継者のみなさんは、どのように考えますか?

おそらく、人によって、さまざまな考え方があると思います。
ただ、もし「自分のために事業承継をする」という答えばかりだったら、とてもさみしくなりませんか?

 

今回は、何のために事業承継をするのか?について、整理して考えてみたいと思います。
みなさんは、「事業承継」をなぜするのか?考えたことがありますか?

ちなみに、質問すると例えば、こんな声が聞こえてきます。

経営者は,

  • 自分の代で終わりにしたくない
  • 後継者(息子)に渡したい
  • お金がほしい
  • 引退したい

後継者にとっては、

  • 先代がやってきたことを終わらせたくない
  • 親孝行がしたい
  • お金がほしい
  • 求められているので、期待に応えたい

 

などの声が聞こえてきます。
どれもおそらく本心だと思いますが、本質的にはどうでしょうか?

 

逆に考えてみましょう。事業承継をしないという場合。

その場合も、事業の買い手を見つけたり、もしくは清算するにしても段取りが必要になります。

 

なぜでしょうか?

 

それは、これまで経営していくなかで積み上げてきた「価値」があるからです。

 

”歴史”、”信頼”、”利益”、”人材”、”風土”など、確かに毎年、毎月、毎日積み上げられてきた価値がそこにはあるため、
たとえ終わらせたいと思っても、簡単に終わらせられないのです。

 

だったら・・・
その価値を誰かに継いでほしいと願うのが、経営者にとっての事業承継ではないでしょうか。

それを受け継ぐ後継者は、
事業を真新しいものにする革命家でなくてよいと思います。

一代では成しえない未来の価値をつくるために、
ただ、確実に価値を生み出し、事業承継をして、さらに次の世代、未来へ価値をつないでいく大事な存在。

そんな風に考えると、事業承継に大きなロマンを感じます。

私たちは、そんな未来をつくる後継者を心血注いてサポートしていきます。

 

まずは、入門講座で事業承継の本質と全体像について、聞きにきてください。
前に進むきっかけがつかめると思います。
定期的に開催しておりますので、以下に直近の開催情報をアップしておきますので、ご覧ください。

【直近の「入門講座」情報】

○東京校
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代表取締役 大川原 基剛

歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

しばらく、時間が空いてしまいました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

私は、年に何度か東京から大阪へ新幹線で行くことが多いのですが、途中で関ヶ原付近を通過するたびに「関ヶ原の合戦」に思いをはせることがあります。

 

その「関ヶ原の合戦」を、学生(中学・高校?早熟な人は小学校かも、ですね)の時に初めて習ったときに、皆さんはどのように思われましたか?

 

私は、率直に「石田三成?誰だろう?」と思いましたね。

 

何しろ、関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも言われた大きな戦いです。その片方が徳川家康という押しも押されもせぬ江戸時代の創始者であるならば、相手は「豊臣秀吉」でないととても釣り合いませんよね。

まあ、当時は歴史に無知だったので、豊臣秀吉が生きてたら起きるはずのない戦いということまでには思いが及びませんでした。秀吉亡き後の、覇権を争う戦いですからね。

 

しかしながら、無知でありながらも私の素朴な疑問はそれほど的を外していなかったと思います。東軍の大将である徳川家康の国力は石高にして約260万石、西軍を仕切った石田三成は同じく19万石、約13倍もの開きがあります。

 

260万石と19万石、これはどのくらいの違いかというと、単純に260万人の人口がいる国と、19万人の国との違いと考えてください。家康が使える兵力は、約6~7万人、三成の使える兵力は5千人でした。やはり、10倍以上の差があります。

 

いかに、徳川家康の力が隔絶していたかわかりますね。

 

さらに、徳川家康は豊臣政権において、5大老と呼ばれる重臣たちの筆頭であり、かつ織田の時代からの豊富な戦歴を持つ、権威と実力においても他を圧倒する存在でした。

 

はっきり申し上げると、徳川家康に石田三成が戦いを挑むなど、「無謀」「無茶」「怖いもの知らず」以外のなにものでもないのです。

 

でも、今回から始まる「石田三成」では、この「無謀さ」をテーマにしたいと思います。

常識的に考えれば惨敗どころか全く勝負にならないであろうこの「無謀な」戦いは、実はかなりいい勝負になります。

東軍の圧勝どころか、徳川家康はすんでのところで天下を取り落とすところまで行くのです。

当時の下馬評でも、あるいは現代においても、無謀な戦いであるという下馬評を、どうやって三成はひっくり返すところまで持って行けたのか。ここに、後継者が学ぶべきヒントが埋まってやしないか?と思うのです。

 

ほう、いい勝負まで持って行けたということは、石田三成はすごくできる奴なんじゃないか。優秀だから、周りの人がついてきたんでしょう!

皆さんは、もしかするとそう思われたでしょうか?

 

当時の石田三成の評価は、実務能力は有能だけど、戦場ではたいしたことはない、というものでした。

飛び抜けて優れた官僚ではあるが、武将としては平凡というのが正直なところでしょう。

 

でも、10万人とも言われる東軍(家康の率いた軍勢)に対抗できる勢力を揃えたんだから、さぞ石田三成には人気や人望が備わっていたんじゃないでしょうか、と思われる方も、ひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。

 

石田三成の当時の人物評は、当時の言葉で表すと「へいくゎい者」です。

現代語で言うと、「横柄」「傲慢」ですね。

 

超がつくほど管理能力に優れ、豊臣秀吉の絶大な信頼があり、豊臣家の政治は三成なしには成り立ちませんでした。それほどの能力を持ちながら、他人からは恐れられ、嫌われていました。

もっとも、それは石田三成の場合、豊臣秀吉の権威を借りてというわけではなく、持って生まれた性格だったと思います。

頭の回転が速く、思考が明晰で先が見えすぎる人は、ついつい他人がバカに見えてしまうんですね。

石田三成の場合、それを隠さなかったので、人望があるどころか嫌われ者だったと申し上げても言い過ぎではありません。

 

武将としてたいしたことがなく、人望も全くなかった石田三成が、いったいどうやって歴史上に残るような合戦をまとめることができたんでしょうか?

 

これって、後継者でなくても興味ありますよね。

 

まして、事業を承継しようとしている後継者は、家康に挑む三成のような、ある種無謀な戦いをしようとしているといっても、言いすぎではないですよね?もちろん、皆さんが三成のように性格が悪い、と申し上げているのではないですよ。

 

資質もたいしたことなく、人から嫌われていた三成でさえ、家康と勝負できたんです。

でも、それはもちろん、三成が尋常ではない努力をしていたからです。

そこに、事業承継という勝負をしようとしている後継者が学ぶべきことがあるんじゃないか、ということです。

 

次回から、石田三成の尋常ではない努力を、見ていきたいと思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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国と国はなぜ貿易をするのか?

後継者の学校パートナー、中小企業診断士の岡部眞明です。

 

トランプ大統領が就任しました。就任直後から大統領令を連発、20本以上に上っています。イスラム教国からの入国の制限につては、またの機会に(この大統領は、人や社会についていろいろなことを考えさせてくれる、とても良い方?ですね。)に譲るとして、今回は、「TPPからの永遠に離脱」という大統領令に関連して、「貿易って何故するのか?」を考えてみたいと思います。

何故貿易をするのか。世界的に貿易という概念芽生えたのは、コロンブスに象徴される大航海時代ではないでしょうか。出資者の委任を受けて未知の世界の未知の品物(この場合は、香料でした。)を仕入れて、本国で莫大な利益を得て、出資者へ還元する。
このころの貿易は、マルコポーロの時代と大差はなく、貿易というより冒険の域を出ていなかったのかもしれません。国家間の貿易を論じたのは、リカードという18世紀イギリスの経済学者です。その考え方は次のようなものです。

J国とA国の場合を考えます。

J国で、米100tを生産するには10人を必要とします。A国では、同じ米を100tするためには15人が必要です。自動車の生産では、1台につきJ国で5人、A国で10人をそれぞれ必要とします。

その場合、米1000t、自動車10台をそれぞれの国で生産すると次のようになります。

自 動 車
J国 100t(10人)×10=1000t(100人) 1台(5人)×10=10台(50人)
A国 100t(15人)×10=1000t(150人) 1台(10人)×10=10台(100人)
2000t(250人) 20台(150人)

この場合、J国で必要とされる人数は、米で100人、自動車で50人(合計150人)、A国では、それぞれ150人と100人(合計250人)で、J国の方がどちらもA国より効率的に生産できます。

次に、それぞれの国内を見ると、J国では、米:自動車=100人:50人で、A国内では、米:自動車=150人:100人となり、A国では自動車より米の生産の方が効率が良いことがわかります。

そこで、J国では自動車、A国では米をそれぞれ両国の合計だけ生産することにします。

すると、以下のようになります。

自 動 車
J国 0t(10人)×10=0t(0人) 1台(5人)×30=30台(150人)
A国 100t(15人)×250/15=2500t

(250人)

0台(10人)×10=0台(0人)
2500t(250人) 30台(150人)

お分かりのように、J国、A国の2国で生産される米、自動車ともに増えました

互いに比較的効率のよいものを生産して、お互いに融通し合うとより効率的になり、価格も下がりやすく、豊かな生活がおくれるというわけです。

これが、比較優位論と言われ自由貿易の考え方の基本とされています。

もちろん、国家間の貿易は経済的理由だけで行われるものではありません。米のような農産物は土地がなければ生産できませんし、土地は国土を形成します、国土は国の基本ですし、私達の生活する環境を形作る根本です。また、米をはじめとする農産物は私たちの食糧ですから、輸入に過度に依存すると、大干ばつや戦争(自国が戦争しなくても、生産国に戦火が及ぶこともあります。)の時には、食べ物がないという事態に陥ります。数年前、アメリカでバイオ燃料に着目されたとき、アメリカの大豆農家が原材料のトウモロコシに転換し、日本の豆腐生産に大きな影響を及ぼしたことがありました。

自動車などの工業製品についても、生産がすべて他国になってしまうと失業の問題が発生します。効率性だけを追求すると、賃金の安い途上国への雇用の流出と先進国における製造業の空洞化といった問題を招く結果になっています。トランプ大統領が雇用を呼び戻すといっているのは主にこのことですね。

一方で、1929年の大恐慌をニューデイル政策で雇用創出したルーズベルト大統領をはじめ、イギリス、フランスのブロック経済という保護主義政策が第2次世界大戦を招いたといわれています。

ところで、この比較優位論、何をやってもダメな僕と、何でもテキパキこなす山田さん。

僕が何とかこなせる伝票整理と、山田さんが得意な企画書づくりに当てはめると・・・。

うちの会社でも、使えそうな気が・・・。

(中小企業診断士 岡部 眞明)

 

後継者の学校では、定期的に「入門講座」を実施しています。
ご興味があれば聞きに来てください。

【直近の「入門講座」情報】

○東京校
2017年2月16日(木)19:00~21:00
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2017年2月25日(土)13:30~15:30
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事業承継は4つに分けて考える

こんにちは。後継者の学校の大川原です。

「事業承継」と一言でいっても、その範囲は広範囲に渡ります。株のことがあったり、事業そのもののことがあったり、従業員との関係があったり、親族との確執があったり、個人の相続が関係してきたり・・・・
当然、後継者が代表になることがその大きなイベントになりますが、事業承継を4つに分けて考えてみると、結構すっきりと考えられます。

さて、事業承継で具体的に考えなければならないことは、どんなことがあるでしょうか?

ちょっと考えてみてください。。。

 

 

例えば、リストアップすると、
・株式の承継のこと
・代表交代の時期のこと
・後継者をだれにするか
・事業承継の相談相手のこと
・従業員のこと
・これからの経営のこと
・後継者の育成のこと
・コンプライアンスのこと
・会社の財務状態のこと
・経営者(親)が亡くなったときのこと
・引退後の経営者のこと
・親族のこと
・親子間の関係のこと
・相続税のこと
・個人のお金のこと
・・・・などなど。
まだまだ、あげられると思います。

しかし、たくさんあるなあ・・・と、眺めているだけでは前に進みません。
事業承継で考えるべきことを一つ一つ整理していくと、大きく以下の4つの要素に分けることができます。
整理をすると、事業承継の対策が偏っているかどうかを見立てることができますし、何をすべきかも見えてきます。

ちなみに、この区分に一般的なルールはありません。私の経験や知見をもとにわかりやすく整理したものですので、参考にしていただければと思います。

4区分

 

1.事業承継の準備

事業承継(代表交代)を円滑に行い、”問題”や”しこり”を残して継いだ後で問題が表面化しないように、全体最適をコーディネイトして事業承継を準備をする「事業承継の準備」があります。

2.後継者経営

事業承継後に後継者が自らの手で経営を推進していく「後継者経営」があります。後継者が経営するための、現状把握や未来を描くこともここに含めています。
代表交代後に、後継者の経営で先代まで繋いできた価値をさらに成長させていけるかどうか。この段階が事業承継の最も一部であると考えます。

3.後継者育成

事業承継を前に進めるキーマンは後継者。後継者自身が成長する機会としての”後継者育成”も事業承継の大きな要素です。経営者は後継者を育てたことが初めてなので、難しいと感じることがありますので、じっくりと戦略的に成長の機会を作ることが大事です。

4.相続対策

経営者(親)が亡くなったときに、相続の問題がおこならいように事前に”相続対策”を立てておく必要があります。
特に、相続で株式や土地の権利が分散すると事業ができなくなる可能性もあるので注意が必要です。

 

この4つに切り分けて考えてみてください。
上記に挙げた、事業承継で考えなければならないことも、このいずれかに入ると思いますので、当てはめてみてください。

 

ちなみに、後継者の学校は、この「3.後継者育成」の支援を中心としてプログラムを展開しておりますが、当社のパートナーである専門家チームがそれ以外の「1.事業承継の準備」、「2.後継者経営」、「4.相続対策」をスムーズに成功させるために活躍しています。

こうした後継者の学校の基本的な考え方を聞ける入門講座を定期的に各地で開いておりますので、ご興味があれば、聞きに来てください。

 

 

【直近の「入門講座」情報】

○東京校
2017年2月16日(木)19:00~21:00
→ http://school-k.jp/pre-tokyo-20170216/

○大阪校
2017年1月31日(木)18:30~20:00
→  http://school-k.jp/pre-osaka-20170131/

○九州校
2017年2月25日(土)13:30~15:30
→  http://school-k.jp/pre-kumamoto-201701/

 

お気軽にご参加くださいませ。
どうぞよろしくお願いいたします。

代表取締役 大川原 基剛