私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。
今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。
後継者の皆様
後継者の学校パートナー、石橋です。
私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
前回からの続きで、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」を取り上げて、後継者とは、ということについて考えてみたいと思います。前回が、5月末というのは伏せておきたい事実ではございますが…大変ご無沙汰いたしまして、申し訳ございません。
前回では、「真田丸」を見てみたら期待以上に面白かったこと、そして1話から6話までに描かれている真田昌幸の後継者としての成長から、私たち後継者も学べそうな気がしたことを申し上げました。
ただ、大河ドラマの1話から6話といえば…お正月から2月の寒い頃までのお話しです。もう梅雨も終わろうとする今頃になって、書く話ではないですよね。もうすっかりそんな頃の話など忘れておられる方も多いと思いますので、あらすじと一緒に真田昌幸の成長を見ていきたいと思います。
また、前回でも真田昌幸について簡単に紹介しましたが、真田家と真田家が置かれていた時代や環境について、少し説明させていただく必要があると思います。「真田丸」は話の展開上、武田家の滅亡から始まっているのですが、その関係でそれまでの真田家の成り立ちなどの説明を省略しています。大河ドラマは、45分×50回あまりという制約があるので、致し方ないのでしょう。
その補足の意味で、少々まどろっこしいとは思いますが、「真田丸」に至るまでの真田昌幸について、今回は申し上げたいと思います。
真田昌幸は、「戦国キャラ」で分類すると、いわゆる「知謀派」です。
「知謀派」は、毛利元就のところでも紹介しましたね。
「知謀派」と言っても様々でして、ライバルの国の武将を寝返らせる(こちらの味方につける)「調略」を得意とする武将や、敵方を混乱させる「謀略」を得意とする者、戦場において相手の意表を突く戦術を得意とする武将なども、「知謀派」と言われたりします。
「知謀派」にはそれぞれ、得意不得意があります。「調略」で有名なのは言うまでもなく羽柴(豊臣)秀吉ですね。「謀略」は毛利元就でしょうか。
真田昌幸は、「知謀派」の中でも、相手の意表を突く戦術に長けていたタイプだと私は思います。小集団を意のままに操って、複雑な地形を利用した芸の細かい戦術の使い手でですね。これは、真田昌幸が生まれ育った環境が影響しています。
真田昌幸は、信濃国の小県郡(上田市のあたり)の生まれです。北陸新幹線に乗られたことがある人はご存じかもしれませんが、安中榛名を過ぎて富山に出るまでの長野県の区間は、トンネルに入ったり出たりの繰り返しです。
そうなんですね。信濃国は今の長野県とほぼ同じですが、山々のあいだに小さな盆地があってそこに人が住んでいるような土地柄なのです。耕作できる土地は狭く地質も痩せていて収穫が少ないため、人口は少なく、それぞれの盆地を小さな豪族(国人・国衆と呼ばれている)が治めていました。あまり、大きな勢力(いわゆる大名)は育ちにくい環境でした。
なおかつ、地形が複雑なため攻める方に厳しく守る方に有利です。領地を拡げようとしても、はるばる山を越えていかないといけないので、時間も手間もかかります。
このような環境では、少ない人数を使って、入り組んだ地形を利用した複雑な戦術が有効です。美濃(岐阜県)や近江(滋賀県)の平野で大兵力同士の戦いをしていた織田信長などとは、対照的ですね。
ただし、東海道や北陸道と並び東西を結ぶ東山道(中山道)が通っており、人の往来は少なくはなかったようです。
そのように小さい豪族同士が争っているところへ、甲斐国から大勢力を率いた武田信玄が侵攻してきて、最終的には信濃は武田家に併呑されます。ただし、信玄をもってしてもそれは簡単な事業ではなく、武田家は様々な国人たちに協力を求めます。
真田家は当時の当主である真田幸隆が積極的に武田家に協力しました。優れた知謀を使ってめざましい活躍をして、たちまちに信玄の信頼を得ます。
真田昌幸は真田幸隆の三男でしたが、真田が武田の家臣となった証として人質になり、武田家に送られます。
もっとも、真田一族は優秀であり武田家での働きも高く評価されていたので、人質というよりもスカウトされて英才教育を受けさせてもらえたようなものです。それはまた、武田の懐柔策の一つでもありました。
「真田丸」7話の中で真田昌幸が「わしもカンだけで生きておる。だがわしのカンは、場数を踏んで手に入れたカンじゃ」というくだりがあります。これは、実は正しくはありません。真田昌幸は武田信玄の生前、「信玄の眼」と呼ばれたほどに認められ、信玄から期待をかけられておりました。
武田信玄は、自他認める学問好きであり、四書五経を始めとして一通りの学問は全て修めており、目をかけた家臣にも必ず学問をさせたはずです。武田信玄を尊敬していた徳川家康も、同様に熱心な学問好きでした。
基本的な学問を修めていないと、人を率いる武将としての働きはできないと当時は考えられていました。主だった武将には、必ずアドバイザーのような僧侶がいます(武田信玄の場合は快川紹喜)。信玄から命じられて、真田昌幸も一通り以上の学問は修めていたことでしょう。
そのように、武田信玄から大きな期待を受けて、信玄の親衛隊としてそばに仕えていた昌幸は、その期待のあらわれとして、跡継ぎがいなかった武田家の親類(信玄の母の一族である大井氏の支族)である「武藤氏」の養子に入り、「武藤喜兵衛」と称します。「真田丸」でも、三方ヶ原の戦いで徳川家康を追い詰めた「武藤喜兵衛」の話が出てきますね。いわば、選ばれて親会社の社長の一族になったようなものです。将来は、武田氏の親類族として、武田家を支えることが期待されていたわけですね。
しかし、前回でも申し上げたように、昌幸と同様に武田家に仕えていた二人の兄が長篠の戦いで戦死します。二人とも同時に失うのですから、いかに過酷な戦いだったかがわかりますが、これで昌幸は武田家の一族になれるという夢のような立場から、真田家の跡継ぎとして真田姓に戻ることとなります。兄たちを失った悲しみと合わせて、少々複雑な、残念な気分だったかもしれません。
追い打ちをかけるように、長篠から7年後、織田軍が攻めてきて親会社である武田家が滅亡してしまいます。国人衆として武田家を支えていた真田家は支柱を失い、途方に暮れることとなります。
ここから、真田昌幸の苦闘が始まります。さて、真田昌幸はこの苦境をどのように越えていくのか。次回、見て参りましょう!
というわけで、延々と退屈な説明を聞かせてしまい申し訳ございません。書いているこの私も退屈でしたが、これを書いておかないと次回につながらないのです。次回からいよいよ本番ですので、こうご期待です!
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