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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

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