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歴史に学ぶ後継者経営 上杉謙信のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。五回目は、川中島の戦いで武田信玄と抗争を繰り広げた、上杉謙信の事業承継です。事業承継には理念が必要であり、理念は貫き通すことによって「価値」となり「ブランド」となるのです。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史評論家(笑)である、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回は、戦国時代の中心的な存在であったにもかかわらず、名家であった武田家を滅ぼすこととなった武田信玄を取り上げました。

 

そして戦国シリーズの第三回目は、その信玄と宿命の対決を繰り広げた、武闘派ボスキャラの一人である上杉謙信を取り上げたいと思います。

 

上杉謙信、島津義弘、真田信繁(幸村)

戦国ゲームでの武闘派ビッグスリーです。

特に「信長の野望」で謙信が騎馬隊を率いているときは要注意です。

中途半端な戦闘力のキャラクターが周りをうろうろしていると、謙信の騎馬隊から突撃を受けて戦死します。

バージョンによっては、突撃するときに青い稲妻が走るのですが、実際に謙信が率いる部隊からは青い光が立ち上っていたという伝説があるくらいです。馬上の謙信を見たら、逃げるにしかず。戦国ゲームでの大原則の一つです。

 

上杉謙信、別の名を長尾景虎といいます。関東管領という室町幕府における重要な役職を代々上杉家が務めていましたが、長尾景虎は請われて上杉家を相続しました。そのときに、上杉謙信へ改名したわけです。

もともとは、越後(今の新潟県)の守護代を務めていた長尾家の後継者でした。

 

越後、新潟県ですが、地図をご覧になっていただいて、新潟県の長さを指で測って東海道や九州で比べてみてください。

東海道ですと東京から名古屋近辺まで、九州だと縦の長さが新潟県の長さとほぼ同じです。実は、端から端まで330キロもあります。

要は、国が広いんですね。

 

広いので、なかなかまとまりません。信濃(長野県)も広いので統一した大名が現れず、武田信玄により征服されましたが、越後の長尾家も家中の争いでばらばらでした。

 

長尾景虎は父為景の四男として生まれますが、武田信玄と同じく為景から疎まれて、お寺に入れられます。もともと信仰心は篤い方でしたが、戦争ゲームに熱中しすぎてお寺から見放されます(笑)父為景が没した後で、兄の晴景とともに越後統一のために戦いますが、戦場にデビューした当初からあまりにも強すぎて、晴景と不仲になります。しかしながら、家臣団の推薦もあって晴景に替わって当主になり、22歳の時に越後を統一します。

 

越後の戦国大名となった景虎ですが、その後も重臣である北条高広に背かれたりと、家中はなかなかまとまりません。それに嫌気がさしたのか、27歳の時に隠居と出家を突然宣言して、高野山へと出発してしまいます。

 

慌てた家臣たちは景虎を追い、説得して連れ戻します。家臣の懇願もあって景虎は出家を思いとどまりましたが、そのときに自らの決意を家臣たちに宣言します。

 

領土を拡大するためではなく、「義」のために戦うこと

一族の争いを絶つために、女性との交わりを絶つこと

自分は毘沙門天(戦いの仏神)の生まれ変わりであること

 

それを聞いた家臣たちの反応はおそらく、「はぁ~…なんすかそれ?」だったことだろうと思います。武士の生き甲斐は命を懸けて領土を拡大することであり、子孫を残して家を継承していくことです。最後の戦争オタク宣言は百歩譲るにしても。まあ、若君の短気にはやった妄言だろうと、たかをくくって聞き流したことでしょう。

 

しかしながら、景虎は大まじめでした。基本的に、この人は言葉は悪いですが、クソ真面目で常に本気な人です。

信長にしろあるいは景虎にしろ、何かをなす人はクソ真面目で本気なのかもしれません。

 

武田信玄の回で申し上げましたとおり、信玄に領土を奪われた村上氏を助けて雪深い北信濃で10年にもわたって川中島の戦いを繰り広げ、関東では北条氏康から攻められた上杉氏を助けて、自らが養子になることで上杉家を復興し、あるいは信長によって追放された足利義昭のために京都を目指したりと、「義」のための戦いに明け暮れることとなります。

 

当然のことながら、家臣からはブーイングです。懇願して謙信に戻ってもらった手前、面と向かって言う家臣はおりませんでしたが、一銭にもならない戦いばかりしやがってと不満はたまります。

さほど景虎と戦う気のなかった武田信玄からは、迷惑顔で物好きな輩との陰口を叩かれる始末。

隔絶した戦闘力を持っていたので周りの大名からは畏怖されましたが、戦う割になんの成果もあげないので、当時は少々軽く見られていたようです。

 

戦いに明け暮れた挙げ句に、また出陣しようとしていた寒い日の朝、上杉謙信は脳溢血により倒れて帰らぬ人となりました。

戦う一生であったのに、得られた領土はほんのわずかでした。

全うしたのは、「義」と「不犯」だけです。

振り返ってみれば、なんとも空しい人生だったと、あるいは思われるかもしれません。

 

しかしながら、上杉謙信の真価はその死後に評価されることとなります。

 

相続争い(謙信は後継者を指定しなかったので)に勝って、謙信の後を継いだ上杉景勝は、本能寺の変による信長の死で九死に一生を得ます。

景勝は機敏に豊臣秀吉と同盟して、会津一二〇万石の当主となり、豊臣家における奉行の一人にまで出世します。

景勝の能力も秀吉から評価されておりましたが、それ以上に「上杉は謙信公以来、義を重んじる家であり、決して裏切らない」という声望が高まっていたからです。

 

どんな方法を使っても領土を拡大することに価値があった戦国時代から、世の中は大きく変わっていました。「義」を守る武士こそが真の武士であると、評価されるようになってきていたのです。

 

豊臣秀吉が亡くなり、その子である秀頼が幼少であったために、また戦乱の日が到来します。

豊臣との「義」を守るか、勢いのある徳川につくか、右往左往する大名のなかで、上杉家の姿勢はみじんも動きません。

 

かぶき者の前田慶次は、「武士をみたいなら上杉家に行け」と食客になります。

 

関ヶ原の戦いを経て、西軍側であった上杉家は敗者となり、徳川家による処分を受けることになります。

 

上杉景勝は重臣の直江兼続とともに謝罪のため上洛しますが、「真の武士」である上杉家の行列を見ようという観衆が絶えなかったそうです。

 

徳川家康も、敵対したとはいえ「義」を重んじる上杉家の方針は、これから平和な時代を作る上で欠かせない理念だと考えて、改易(家の断絶)せずに残すこととしました。

上杉謙信の「義」の理念は、敵からも評価されるほどに当時において重視される「価値」になっていたということですね。かの信玄も、死の床で後継者の勝頼に「自分の亡き後は景虎を頼れ」と言い残したと伝えられています。

 

しかし、敗者ですから一二〇万石から三〇万石まで減封されます。いわば売上が四分の一となったわけですから、家臣への給与は払えなくなります。「上杉家」の家来は武士の鑑、どこからも引く手あまたであり、再就職には困りません。上杉景勝は家臣たちに再就職を進めます。

 

しかし、家臣は一人も辞めませんでした。

上杉家の一員として、窮乏に耐える生活を選びます。

目の前の栄進よりも、謙信公の理念に殉じる方を選んだわけですね。

裏切りが続出してみじめに滅亡した前回の武田家とは、なんとも違うと思いませんか。

 

上杉謙信の掲げた「義」は、当初は全く理解されなかったものの、家臣たちと共有することで上杉家の「理念」になり、継続していくことで次第に「価値」として認められるようになり、さらに磨き上げていくことで「真の武士」という「ブランド」となりました。

 

後継者経営においても、創業者が遺そうとした価値や理念を発見し、それを継続し共有していくことで、お金では測ることのできない「価値」を遺せるようになるのではないでしょうか。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校

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歴史に学ぶ後継者経営 武田信玄のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。

四回目は、戦国時代の台風の目であった武田信玄の事業承継です。事業承継には寛容な心が必要であり、また目先の利益にとらわれて「義」を破ってはいけません。そうでないと、悲劇を招くことになりかねません。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史の語り部(笑)、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回から、日本史の華、戦国時代に舞台を移して、いきなりのボスキャラ中のボスキャラである織田信長を取り上げました。

 

そして戦国シリーズの第二回目は、戦国時代はこの人を抜きにして語ることができない、やはりボスキャラの一人である武田信玄を取り上げたいと思います。

 

織田信長も、ドラマや小説に取り上げられることが多い人物ですが、武田信玄も多いですよね。戦国ゲームでの評価(能力パラメータ)も極めて高いです。

 

武田信玄という名前、いかがですか。重々しい名前で、重厚なイメージを感じませんか。

実は、もともとは「晴信」という諱(昔の成人名)だったのですが、出家して「信玄」と名乗るようになりました。

 

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という格言でも有名です。

 

しかし、信玄(晴信)自身は、信心深そうな名前とは、あるいは格言とは真逆な人生を送ることになります。

 

実は、信玄も後継者です。というか、それなりに血筋のいい武家は、事業承継をすることを前提としています。武士にとって大切な仕事(存在意義)は、「家を継ぐ」ことと「名を挙げる」ことです。

 

信玄が生まれた「武田氏」は、由緒正しい清和源氏を源流とする「甲斐武田氏」という、武士の超名門の宗家です。甲斐は今の山梨県ですね。有名どころのおぼっちゃま、といったところでしょうか。

 

しかしながら時代は戦国。武田氏も代を追うごとに衰微して、内乱状態となっていましたが、17代目の当主である武田信虎が一族の争いをおさめて、甲斐国を統一しました。信玄はその信虎の長男として、この世に生を受けました。弟の一人に、後に信玄の貴重な右腕の一人となる信繁がいます。

 

しかしながら、よくある話ですが、父の信虎と長男の信玄こと晴信はそりが合いませんでした。信虎はおとなしくて鈍重な晴信よりも、利発な信繁をかわいがります。

 

普通の家庭であれば、男同士の親子の不仲は「よくあるね~」で住む話です。創業者と後継者ですと、会社の中がぎくしゃくして周りが大変な思いをしたりしますが、まあ、それだけの話ですよね。

 

しかし、武田家は武家ですね。武家は、皆さん腰に刀というコワい一物を帯びております。

武家での不仲は、刃傷沙汰という物騒な事態になりかねないのです。

 

武田信虎がどのように考えていたか、真実は不明なのですが、武田晴信にしてみると廃嫡される(跡継ぎの身分を剥奪される)という危惧を抱くような情勢だったのは間違いありません。

廃嫡されると、最悪の場合、晴信は切腹を命じられることもあります。現に、後にそのような事件が武田氏を襲いますが、それはまた後の話。

 

さて、晴信はどのような行動に出たでしょうか。

 

なんとなんと、父の信虎を国外に追放してしまいます。

 

信虎を、同盟を結んでいる今川家(駿河や遠江、今の静岡県から愛知県の一部までの守護大名)へ追放してしまい、晴信自身が武田家の当主としておさまります。

事実上、武田家を「乗っ取って」しまったわけですね。

 

背景には、家臣団と信虎の対立があったと言われています。

武士同士の対立は、お互いの命をかけているところもあるので、晴信の行動はやむを得ないのかもしれません。

しかしながら、この行動は後々の武田家に暗い影を落とすきっかけになります。

 

その後、晴信は家臣団を掌握して信濃(今の長野県)へ侵攻を開始して、信濃の各地の大名を併呑して勢力を大きく拡大します。関東地方の北条氏や今川氏といわゆる甲相駿三国同盟を結び、背後の安全も確保します。

もともと、武田晴信の心底には京都へ武田の旗を立てるという野望があり、そこへ向けて、着々と準備を進めていました。

 

しかし、北信濃の村上氏を攻めたことをきっかけとして、10年近くに及ぶ「越後の虎」こと上杉謙信との抗争、いわゆる「川中島の戦い」に巻き込まれ、貴重な時間を空費することになります。

 

そんな中、戦国時代の勢力地図を一変させる驚天動地の出来事が起こります。

 

前回にご登場いただいた、尾張のボスキャラ織田信長が、戦国時代の代表的なやられ役である今川義元を「桶狭間の戦い」で敗死させます。

今川家も足利幕府における名門であり、東海道におけるバランサーとしての役割を果たす貴重な存在でした。

今川家の後継者は今川氏真、蹴鞠(貴族のサッカーのような遊び)の名手であるということだけが取り柄の、暗愚な後継者(いやな響きですが)で有名です。

今川家の領地には、貴重な物産の集結地である港があります。水運が当時の中心的な運送手段だったので、港を支配していることは経済的にも軍事的にも、計り知れないほど有利だったのです。

 

名門の跡継ぎが愚か(何回聞いてもいやな響きです)で、しかもその支配地には莫大な富がある。

 

隣には、山が多くて農地に恵まれないが、強大な軍事力を有している有能で野心的な大名がいる。

 

要するに、飢えた野良猫の目の前にでっぷりと太ったネズミがのこのこと現れたわけです。

どのような結末を迎えるか、誰の目にも明らかですね。

 

しかしながら、武田と今川は同盟を結んでいて、信玄(すでに出家していました)の長男である義信の正室(奥さん)は今川義元の娘です。

嫁の実家を攻めることなんて、できるのでしょうか。

当然のことながら、武田義信は猛反対します。

またしても、武田家の父と長男の対立です。家臣たちは、信虎と晴信の対立が脳裏に浮かびます。

しかし一方で、今回は武田家にとっては貴重な領土を拡大できる千載一遇のチャンスでもあるのです…

 

さて、信玄はどのような行動に出たでしょうか。

 

また、やってしまいました。

 

長男の義信を廃嫡して後に切腹させ、義信の嫁は実家に帰してしまいます。

デジャヴ、というか懲りないというか…。

義信に賛同していた家来たちも、一網打尽で粛清されてしまいます。

 

晴れて家中の意見を統一(?)した信玄は、徳川家康と組んで今川の領土に攻め入り、駿河国と念願の港を手中におさめることになります。こうして、武田家は一気に国力を高めることになりました。

 

でも、その代償として、武田信玄の手はべっとりと血塗られることになりました。

どんなに手を洗おうと、数珠を数えながら読経しようと、決してその血をぬぐうことはできません。

 

そんな信玄を織田信長は、「信玄坊主」と揶揄します。

法衣を纏おうが数珠を手にしようがお寺に多額の財産を寄進しようが、その手は血で汚れた破戒僧に過ぎない、とでもいうように。

 

国力を高め、上杉謙信を越後(今の新潟県)に封じ込めて、いよいよ信玄は念願の西上作戦を開始して京都を目指します。

しかし、そのときすでに信玄の身体は病魔に蝕まれていました。

 

甲斐国から東海道に現れた武田信玄の軍列は、今でも伝説となっております。脇目も振らず私語もせず、咳一つ聞こえない、見事に統制された軍列が粛々と京都を目指して進軍していきます。武田軍の強さは、信玄の意のままに一糸乱れず動く、機械のような統制の強さでした。

しかし、それは本当の強さだったのかどうか。もしかすると、親父を追い出し長男に腹を切らせる信玄への畏怖だったのかもしれません。

 

武田軍に侵入された徳川家康は、その重厚な隊列に対して果敢に挑みますが、三方原でフルボッコにされ、散々に破られて逃走し、恐怖のあまり脱糞してしまいます(笑)

とはいえ、家臣たちはそんな不甲斐ない家康を身を挺して守り、身代わりになって死ぬ家臣も出しながら、なんとか浜松城まで帰還させます。

 

家康を難なく破って勝ち誇った武田軍ですが、のちに信玄の死で西上をあきらめて国に帰ります。

 

信玄は、自分の亡き後のことを心配して、新たな後継者となっていた勝頼に「三年間は喪に服して、国をまとめるように」と遺言します。

 

しかし、信玄に対する恐怖でまとまっていたに過ぎなかった家臣団をまとめる力は勝頼になく、長篠の戦いで信長に惨敗し、家康にはだんだんと領地を侵食され、最後には家臣団のみならず親類からも裏切られて、逃避行のなか山中で寂しく切腹し、ここに武田家は滅亡しました。

「人は城、人は石垣、人は堀」どころではない、お互いの信頼感に乏しい内情だったということですね。

 

武田が滅んだのは、勝頼が暗愚だったせいと言われていますが、私はどちらかというと信玄に原因があると思っています。

信虎を追放したのはやむを得ない事情もありましたが、義信と対立したときにその自らの行為が記憶によみがえり、義信を恐れて結局は切腹させるという暴挙に及んでしまいました。

 

その信玄の行為により、家臣たちは信玄を恐れるようになったのではないでしょうか。表向きは忠誠を誓っていても、心の中はどうだったでしょうか。恐怖による統制は、後の反動がより怖いのです。

 

そもそも、戦国時代の家臣は主人に対してよく背きました。織田信長にしろ徳川家康にしろ、あるいは上杉謙信にしても、家臣にはしょっちゅう背かれ、裏切られています。むしろ背くのが家臣の仕事のひとつ、とでもいうように。あるいは、それが人情の一つの側面なのかもしれませんね。

 

背くことに対して厳しく対応することも時には必要ですが、多くの場合に彼らは背いた家臣たちを赦しています。

のちに逆境で助けてくれるのは、むしろかつて背いた家臣だったりもします。

 

武田家の失敗で私たち後継者が学べるのは、「承継には寛容な心が必要」であり、「目先の利益にとらわれて、義を破ってはいけない」ということだと思います。

「寛容」と「正義」を喪ったとき、人は傲慢になるとともに信望を喪うことになるのではないでしょうか。

 

次回は、信玄とは対照的に、その「義」を愚直に守り切った上杉謙信を取り上げたいと思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校
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歴史に学ぶ後継者経営 織田信長のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。

三回目は、戦国時代のボスキャラ、織田信長の後継者時代のエピソードから。事業承継は、一日にして成らず、であります。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史考証家(笑)、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回までは、江戸時代のお話でした。江戸時代は、本来は非常に面白いんです。しかしながら、やっぱり「地味な時代」なんですね。書いていて、あるいは読んでいて、面白い!と思えるのは戦国時代とか、江戸時代の終わり、「幕末」ですよね。

 

そこで、しばらくは戦国時代に舞台を移したいと思います。

戦国シリーズの第一回目は、なんといってもボスキャラ中のボスキャラ、織田信長を取り上げたいと思います。

 

ブログを読まれている方は、戦国ゲームの代表作である「信長の野望」というゲームをされたことがある人が多いのではないでしょうか。私も、このゲームにはまり、そのおかげで歴史に興味を持つようになりました。

 

戦国ゲームには、実に様々な武将が出てきますけれども、なかでも織田信長はゲームの名前に使われてしまうほど、時代を代表する存在であります。信長を取り扱った著書もいっぱいありますよね。著名な経営者、創業者で織田信長の生き方にインスパイアされている人も多いです。ソフトバンクの孫正義氏は自らを織田信長に例えるほどです。

 

「日本史において唯一の創造的天才」「日本史に革命を起こした男」「日本には収まりきらないほどのスケールの大きさ」

などなど…

 

しかし!

後継者の皆様には朗報です。

 

実は、織田信長もれっきとした後継者なんです。

 

しかも、後継者時代には「うつけ者」「たわけ殿」(愚か者)と、親戚一同のみならず家来からも総スカンでした。こんな愚かな長男が継いだら織田家の将来が不安なので、弟の信行を後継者にしようという動きもあったほどです。

要するに、後継者時代の織田信長は家中から軽んじられ、馬鹿にされていたんですね。

 

なんか、そういう話を聞くとちょっと嬉しくならないですか(笑)

私は少し、嬉しくなったりします。

 

嬉しくなるところが、後継者の罠の一つなんですが(笑)

 

織田信長が「うつけ者」と呼ばれていたのは、考えていることや行動があまりにも独創的であり、合理的でありすぎて時代のはるか先を走っていたために、周りから理解されなかったせいですね。

そもそもが、私のような凡人とはスケールが違うので、比較のしようがないのに、ついつい比較してしまうところが甘いところです。とうてい信長になぞ、なれっこないのに…。

 

そんな、孤独な後継者時代を過ごした信長にも、理解者はありました。

 

一人は、実の父親である織田信秀です。

 

織田信秀も、同時代で見ると優れた武将であり、独立した戦国大名でした。領国は尾張国(今の名古屋付近)の一部で、織田の同族同士で領土を争っていましたが、知謀や武力に優れ、有力な部下を育成する力もあり、一代で織田家の中でも有力な存在へ勢力を拡大しました。

しかし、脳溢血(流行病とも言われている)で42歳の若さで世を去っています。

 

織田信秀は、長男信長の悪評を知っていながら、決して後継者の立場から外すことなく、隣国の美濃国(今の岐阜県)で強力な存在となりつつあった斎藤道三の娘と政略結婚をさせて、信長の地歩を固めています。周りの評判に流されることなく、自分の眼で信長の潜在的な能力について確信を持っていたのかもしれません。

 

もう一人の理解者は、その美濃国の斎藤道三でした。

 

斎藤道三は、戦国時代の代名詞ともいえる「下克上」(地位が低いが実力を持っている者が、地位が高いが能力の低い者に取って代わること)の例として語り継がれる存在です。

 

僧侶から商人になり、縁を頼って美濃国の家臣へと転身し、知謀によって美濃国の守護大名である土岐頼芸を追放して当主に上り詰めました。

 

斎藤道三の行跡は「美濃の国盗り」とも呼ばれていますが、近年では斎藤道三の所行は二代にわたるという説が有力になっています。

 

そんな道三が、先ほども申しましたとおり眼に入れても痛くないほどの存在であった娘、「濃姫」と呼ばれることになる「帰蝶」を信長に政略結婚で嫁がせることになります。

 

そこはやはり戦国時代、織田家に濃姫を送り込み、「うつけ者」と評判だった信長の代にあわよくば乗っ取ってやろうという計算ずくも道三になかったとは言えないでしょう。

 

縁談によりかつて戦った織田家との関係が縁結びによって改善した頃を見計らって、斎藤道三は織田信長との会見を申し込みます。

舅として、あるいはライバルの領主として、将来の領主の器を見極めてやろうと思ったのかもしれません。

 

会見は、お互いの国境近くにある正徳寺(聖徳寺)というお寺で行われることになりました。

 

斎藤道三は、忠実な家臣である猪子兵助らを引き連れて、密かに信長が通るであろう道中の小屋に隠れます。噂ではたわけ殿で名高い信長が、どんな格好で来るのか陰からのぞき見てやろうという魂胆です。

 

やがて現れた信長の姿は、やはりたわけ殿と評されるのにふさわしいものでした。

 

髪は茶筅髷(ポニーテールですね、要するに…)、上半身は浴衣を半身裸でまとい、刀はあろうことかわらの縄で腰に巻いて、腰回りには他に麻縄で火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴だったようです。前を向かず、半身でぶらぶら馬にまたがってゆらゆらとやってきました。原始人というか、野蛮人というか…

マジメな三つ揃いスーツの政治家の列に、ギンギラギンのふざけた格好をした暴走族のあんちゃんがひとり混じっているという感じといえば、わかりやすいでしょうか。

 

斎藤道三の家来たちは、これをみて一斉に吹き出し、「うわさに違わない愚か者でございますな!」と喜びます。

 

しかしながら、その中で斎藤道三だけは押し黙り、行列をじっと見つめています。

 

野蛮人の信長が引き連れてきた行列の槍は、鮮やかな朱塗りの三間半(約7メートル)で統一されています。一間半(約3メートル)が常識だった当時では常識破りな長さです。長い槍は、訓練されていない兵士でもそのリーチの長さを生かして驚くべき威力を発揮することができます。

 

さらに驚くべきは、その後に現れたおびただしい数の鉄砲隊です。戦国時代を終わらせることになる武器になりますが、当時では入手も困難で目が飛び出るほどの価格だった鉄砲を、これだけ揃えているような大名はそうそういません。

 

驚きを胸にしまいこみ、斎藤道三は会見に臨みます。

婿が珍妙な格好をしているのに、舅が正装をする必要もないだろうと、道三は普段着で座って待ちました。

 

そこへ、いよいよ織田信長が登場します。

 

その姿を見て、またもや道三はあっと度肝を抜かれます。

 

先ほどの野蛮人はどこへやら、髪をつややかに折髷に結い上げて、褐色の長袖に長袴、大小の刀をぴたりと帯び、これ以上ない見事な若殿ぶりで織田信長が現れました。

道三の前まで静かに歩みを進め、挨拶をして対面に座ります。

肩すかしを食わされてバツが悪い思いで苦虫をかみつぶした道三が、目の前に座っています。

 

無言のまま対面し、二人は別れます。

 

帰り道、道三は猪子兵助に信長を見た感想を尋ねます。兵助はにこやかに「殿にとっておめでたいことでございます」と、信長のうつけ者ぶりを揶揄します。

 

それを聞いた道三は、「おめでたいのはその方の頭よ。俺の子らはあのうつけ殿の門前に馬をつなぐ(家来になる)ことになるだろう」と呟きます。

 

舅である斎藤道三が、織田信長の資質を見抜いた瞬間でした。

 

二人の父、実父と舅に認められた織田信長は、信秀の死で織田家を継承し、尾張に責めてきた今川義元を桶狭間の戦いで打ち破り、斎藤道三の死後に美濃国を攻め取って、京都へと織田の旗を進める足がかりを作ります。その後の活躍は、歴史が証明すると通りです。その活躍を、後継者時代に認めてくれた二人は見ることはありませんでした。

 

でも、実父や舅が認めてくれたからといっても、信長が何もしていなかったわけではありません。

 

むしろ、周りの悪評をよそに、自ら信じるところに従って黙って努力し続けていたのだと思います。

 

自分なりに、合理的な軍備は何か、合理的な服装は何か、考えに考えてそれをつきつめたのが道三の見た信長の姿であり、当然にそのような努力は武将の後継者として必要な他の分野にも及んでいたことでしょう。

 

道三との会見の時も、おそらく信長は密かに道三のことを調べ上げ、隠れて自分の行列を見るだろうということ、あるいは会見で普段着で来るだろうということも予想して、計算してあのような行動をとったのでしょう。そして、賢明な道三はそのことにも気づいたはずです。

 

織田信長は、たとえうつけ者、たわけ殿と呼ばれようとも、必要なときが来れば抜くことができるように自分の心の刃、能力の刃を研ぎ続けていたのだろうと思います。

 

後継者は、いつ承継の時が来るかわからないのです。信長も、おそらく想定よりは5年くらい承継は早かったことでしょう。でも、事業承継は一日にして成らず。思い立ったときから努力し続けなければ、間に合いません。

 

皆さんも、周りにどう思われようとも、そのいつか、のために自分の心と能力の刃を研ぎませんか。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

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事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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歴史に学ぶ後継者経営(徳川家光)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。その第一回目は、徳川家光に学ぶ「後継者の決意と覚悟、そして諸大名との契り直し」です。

後継者の皆様

 

はじめまして!

 

今回、初めてブログを上梓いたします。私は後継者の学校パートナーの石橋治朗と申します。

公認会計士、税理士の資格を有しておりますが、後継者支援を中心として活動しております。どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのか、を皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

そして、それを考えて行くにあたって、私は主として日本の歴史からヒントを得たいと思います。歴史を学ぶことが昔から好きというのもあるのですが、日本は世界でも有数なほど歴史の長い国であり、過去の事跡がたくさん残っていることにいつも感謝します。

その中には、当然のことながら、後継者にとって有益な行跡やエピソードがいっぱい詰まっております。

それらを紹介しつつ、皆さんや私にとってそこから何か得られないだろうか、それを一緒に考えていきたいと思います。「温故知新」という言葉を一度は耳にされたことがあると思いますが、過去の事跡に学ぶことで、新しい知恵や発見があるかもしれません。

そして、自らの宿命を受け入れて、運命を切り拓くことで日本の歴史を形作ってきた人たちの生き様を見つめることで、私たちもまた、連綿と続く日本の歴史に貢献できる存在になれる、垂直に生きる存在になれるのではないでしょうか。そのような志を持って、このブログを始めたいと思います。

 

初めてとなる今回、皆さんに紹介したいのは、徳川家光のエピソードです。

 

徳川家光、ご存じでしょうか。江戸時代の徳川幕府、三代目の将軍です。

かの有名な、徳川幕府を創設した初代将軍である徳川家康の孫であり、二代目将軍の徳川秀忠の嫡男です。

 

NHKで日曜に放映されている大河ドラマですと、相当前に放映された「春日局」に徳川家光は出てきます。

しかし、テレビの歴史ドラマといえば戦国時代か江戸幕末と相場が決まっているので、戦国時代が終わった平穏な時代の徳川将軍というのは、知名度は高い方ではないですね。

 

しかし、徳川家光は将軍という地位を確立したという意味で、日本の歴史に画期的な寄与を果たした人物だと私は思っております。

 

徳川家光の祖父と父である徳川家康と秀忠は、関ヶ原の戦いを始めとする自らの輝かしい戦歴と実力により、徳川幕府の諸大名から将軍と認められた存在です。いわば、自分の実力で事業を作り上げた創業者ですね。

しかし、徳川家光は全く合戦の経験がありません。合戦の経験がなく、その実力も未知数であるという、ある意味で典型的な後継者ですね。合戦の経験がないというのに将軍に就任していいのか?

周りからそう思われても仕方がないですし、普通そう思いますよ。

まして当時は、日本でも有数の実力主義だった戦国時代が終わったばかりであり、自分の実力で領土を広げた腕自慢の合戦名人があまた残っていました。

これまで自分の頭を押さえていた家康と秀忠がいなくなった時が絶好のチャンス、そのときが来たら素人の将軍をとっととやっつけて幕府をひっくり返しあわよくば自分の天下、と思った大名は少なくなかったかもしれないのです。

 

 

そのような、ある意味で非常に緊迫した状況を前にして、徳川家光はどのような行動を取ったでしょうか?

 

 

 

将軍職を家光に譲った後も後見人としてサポートしていた徳川秀忠が1632年に逝去し、いよいよ徳川家光が単独で将軍を務める時がやってきます。

徳川秀忠の葬儀が終わったところで、徳川家光は江戸城の大広間に諸大名を集め、なんと次のように堂々と言い放ちます。

 

「東照宮(徳川家康)が天下を平定なさるに際しては、あなた方の力を借りた。秀忠公も元はあなた方の同僚であった。しかし、わたしは生まれながらの将軍であるから前二代とは格式が違う。

従って、あなた方のあつかいは以後、家臣同様であると心得られたい。もしもそれに異論がある者は、遠慮せずともよい。早々に国に戻って戦の準備をなされよ!」

 

現代であれば、なんとも「上から目線」と受け取られかねない発言ですよね。いったい、あなたの祖父や父は誰のおかげで将軍になれたのか、という声が聞こえてきそうです。

 

しかしながら、その家光の発言を聞いて、独眼竜の異名で有名な伊達政宗は平伏します。

 

「滅相もございませんぬ。この政宗をはじめとして、他に異論のある者などおるはずがございません!」

 

歴戦の英雄である伊達政宗の言動に押されるように、周りの諸大名も同じように次々と平伏していきます。こうして、全ての大名が徳川家光に平伏し、家光を将軍として認めたのです。

 

 

家光がこの宣言によって成し遂げたことはなんでしょうか。私が考えるに、ここで家光は将軍と諸大名との関係を変えたのだと思います。将軍と諸大名との関係を新しい時代に合わせて結び直したということ、少し難しい(若干古風な)表現をすると「契りを結び直し」たということです。

※後継者の学校では、これを「契り結び」と言い、プログラムの中で具体的なやり方について教えています。

 

実力で諸大名の上に立っていた前二代とは違い、「生まれながらの将軍」という権威で諸大名を統治するというように、徳川家光は将軍と諸大名との関係を全く変えてしまいました。ここで注意すべきは、決して一方的に強要するのではなく、反論の余地を認めています。

まあ、反論というよりは反乱と言った方がいいのですが…。さすがに武士らしく、物騒な「反論」ではあります。

 

 

そこで諸大名が平伏することで「新しい、将軍と諸大名との関係」を受け入れたこととなり、ここに徳川家が代々将軍職により諸大名を統治する権威と正当性が確立しました。家光以降の徳川家の後継者は、生まれながらの将軍として認められることになるのですから、力関係にかかわらず他の大名が取って代わることはできなくなったのです。

 

そして、この「新たな関係」を宣言するに当たっての家光の覚悟と決意は、生半可なものではなかったと思います。家光と親密であった伊達政宗は前もって宣言の内容を聞かされていたとも伝えられていますが、その政宗もかつては秀吉や家康と天下の覇権を争った梟雄でしたから、そうそう簡単に平伏するようなタイプではありません。

たとえ将軍とはいえども、家光の決意と覚悟に隙があればあわよくば、という気持ちがなかったとは言えないでしょう。

しかし、政宗はこのときに、まさに家光の将軍としての覚悟と決意を見て取ったのではないでしょうか。この天下において将軍の後継者として生まれ落ちた孤独を受け入れて、「生まれながらの将軍」へと突き抜けようとした強い飛躍の意志を感じ取り、気がついたら自然に平伏していた。私はそのように想像します。

 

そして、将軍が就任するたびにこの決意と覚悟は継承されていき、ここに15代続くこととなる徳川家の覇権がしっかりと確立されました。

この契りには、当然のことながら自分を将軍として従う諸大名に対して、統治するという責任を負うという決意も含まれています。

 

 

この徳川家光から、後継者経営に学べることは何でしょうか。

幕府の将軍ほどの決意は、そうそう持てるものではございませんが、それでも後継者として社長に就任することはなみなみならぬ決意と覚悟を必要とすることは、皆さんもご存じの通りです。徳川家光の感じていた後継者としてのプレッシャーと孤独には、共感できるところはないでしょうか。

もしかすると自分と敵対することになり、戦場で相まみえることになるかもしれない相手に対して、家来になれと宣言することにどれほどの勇気が必要か、私は想像するだけでもその重みを感じて汗が出ます。

それでも、創業者と後継者とは違うのです。能力も、自分に従うこととなる人たちとの関係も、やるべきこともそれまでとは違うものが求められます。その違いと向き合って、現状と将来を見つめ直してそれに合った新たな理念を練り直し、その理念に基づいて自分に協力してくれる人々と新しい関係を結び直す。

これがまず後継者経営にとって大切なスタートとなるということを、徳川家光の事蹟は教えてくれているように思うのです。

 

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長々とおつきあいいただきまして、ありがとうございました。次回以降もまた、歴史から有名なエピソード、あまり知られていないエピソードを紹介しつつ、後継者経営について考えていきたいと思っています。

 

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