私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。
六回目は、「三本の矢」の訓戒で知られる、中国地方の覇者毛利元就に学ぶ、統治基盤のあり方です。矢は三本集まると確かに折れにくくなりますが、経営者は三人集まっても団結するとは限らない、そしてリスクに直面したときに統治基盤が弱いと、組織を危機に陥れる、ということです。
後継者の皆様
後継者の学校パートナーにして後継者の考古学者(笑)である、石橋治朗です。
私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。
前回までは、東日本の戦国時代のボスキャラ、織田信長、武田信玄、上杉謙信を取り上げて参りました。
今回からは、少し西にも目を向けたいと思います。
そして戦国シリーズの第四回目にして西国編の第一回目は、戦国きっての知謀派である毛利元就を取り上げたいと思います。
毛利元就、真田昌幸、本多正信、黒田官兵衛…
戦国ゲームでの知謀派は、挙げていくときりがありません。
しかし、知謀だけで一介の国人(村の大きな庄屋さん)レベルから中国地方一帯の支配者となった、正真正銘にして王道中の王道の知謀派は、毛利元就をおいて他にいないでしょう。
猪突猛進タイプの武将であった陶晴賢を厳島におびき寄せて敗死させたことは有名ですが、敵方に謀略をしかけて人間関係をがたがたにさせたり、偽情報を流して自分に有利な状況を作り出すことに極めて長けていました。
しかし、毛利元就本人は本当に誠実な、人情に篤い人物だったようです。そうでなければ、謀略は成功しないのでしょう。
毛利元就で有名なエピソードは、なんといっても「三本の矢」として知られている、息子たちへの戒めですね。
毛利元就には、後継者候補として三人の息子がいました。
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景です。
毛利隆元は温厚で篤実な常識人、吉川元春は猪突猛進型の猛将、小早川隆景は冷静沈着な知謀派と、それぞれ元就の違う側面を継いでいたようです。
能力は隆元よりも弟たちの元春、隆景が優れていたようですが、元就は「三子教訓状」で三人に伝えます。
宗家である隆元を中心として、他の二人は宗家を支えるように努めること。
隆元は他の二人に対して、寛容な親心をもって接すること。
元春と隆景は、有力な家臣の養子になっていましたが、決して毛利宗家を疎かにしないよう、また宗家である隆元は他の二人をいたわり、三本の矢のように三人で団結して毛利家をもり立てていくように説いています。吉川と小早川のそれぞれの「川」の字をとって、「毛利両川」と呼ばれていました。
伝承されている「三本の矢」とは、事実は異なっていたようですが、ニュアンスは似たようなものですね。
しかし、史実は元就の希望したとおりには進みませんでした。
まず、宗家の隆元が若くして急逝します。元就は後見人として実権を握っていたので、毛利家の勢力には影響しませんでしたが、長男が親よりも先に亡くなったため、事業承継はいったん頓挫してしまいます。
その後、毛利隆元の嫡子である輝元が毛利宗家の当主に就任します。
元就亡き後の輝元の時代は、織田信長との過酷な戦いに直面しますが、本能寺の変で救われるとともに、豊臣秀吉と同盟することで前回の上杉景勝と同様に、奉行を務めることになります。
ここまでは吉川元春と小早川隆景が協力し、毛利家をもり立てていたのでうまくいきましたが、吉川元春と小早川隆景が逝去することにより、家内が必ずしも一枚岩とは言えなくなります。
吉川家は元春の嫡男である広家が継ぎ、小早川家は豊臣秀吉の意向により秀吉の甥である秀秋が継ぎます。
すでにこの時点で、「毛利両川」体制はなかば崩壊します。
毛利宗家で有力なアドバイザーであった、外交担当の安国寺恵瓊と、吉川広家とは考え方が合わなかったようです。次第に、毛利宗家と両川のうち残った吉川家との間に、すきま風が吹くというか、ボタンの掛け違いが生じてきます。
このような微妙な状況で、まさに天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦を迎えたのは、毛利家にとって運の悪いことでした。
外交担当の安国寺恵瓊は豊臣側に、軍事を担当していた吉川広家は徳川側につくことをそれぞれ主張して、物別れになります。
毛利宗家は安国寺恵瓊に従って西軍側の当主となりますが、吉川広家は徳川家康に裏で通じて、関ヶ原の戦いでは西軍方に参加せず傍観を決め込むことで、西軍の敗退の原因を作ります。
まさに、この一大事に至って、毛利宗家と吉川家はそれぞれ勝手にばらばらな行動を取ることになってしまいました。
吉川広家は徳川家康から恩賞を受け取りますが、毛利宗家は西軍側の当主になった責任を問われ、一〇カ国に及ぶ領土を家康から全て取り上げられます。皮肉にも、そのうち周防国と長門国(今の山口県)は吉川広家に与えられることになる領土でした。
吉川広家の嘆願もあり、その後毛利宗家は吉川広家に与えられる二カ国への減封にとどまりますが、いずれにしても一二〇万石から三七万石への大減封という処分を受けます。前回の上杉景勝と、ほぼ同じですね。
三人(三家)仲良く、という毛利元就の戒めは、それを直接聞かされた代まではうまく機能しましたが、その後は三家がばらばらになってしまい、毛利家の衰微する原因となりました。元就の戒めは、上杉とは違って「理念」までには至らなかったということですね。
しかし、毛利家も減封をきっかけとして家中が団結し、国力を増して幕末の討幕運動の中心を担うことになるのですが。
毛利の失敗から学べることは、物事の決断と実権はできるだけ集中しなければならない、ということでしょうか。兄弟同士が協力することは、毛利家の躍進の原動力となりましたが、いざリスクに直面したときに、吉川家は勝手な行動を取ることで毛利家を危機に陥れました。いわゆる「三本の矢」は、いざというときに組織を守る「統治基盤」として、有効に機能しなかったということですね。
後継者経営においても、兄弟でちからを合わせて会社を切り盛りするケースが少なくないと思いますが、仲の良さは別として、どちらが最終決定の責任を有しているか、については明確に決めておき、厳格に運用する必要があります。
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