論理的判断は理にかなっているのか

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年初めてのブログです。前回のから2か月以上経ってしまいました。

少しばかり、言い訳を言わせていただくと、年末らしく「2017年を振り返って」と題して投稿させていただこうと思っていました。しかし、2017年の日本企業を振り返るとすれば、やはり、「不正」「ねつ造」について書かなければならないことになってしまいます。「一体何回書けば終わりになるのか?」と気が滅入ってしまって、筆(キーボードを打つ手)が進まないのです。

いくら批判してみても、彼らの行為には、(彼らなりの)合理的な理由(=論理)がある(はずな)のです。そうでなければ、こんなにも多くの大企業で起こるはずがない(はずな)のです。

そこで今回は、二年越しの宿題になった論理的な判断について考えてみたいと思います。

論理的な考え方は、「経営学」の世界では、ロジカル・シンキングと格好よく言い直して使われたりしています。

なるほど、会社では「ああすればこうなって、この部分はコストに見合う利益があがらないから削ることにしよう」とか、「統計的に考えて、この商品は女性層に受け入れられそうだから、生産量を増やそう」とかいうことはよくききますね。

ところが、往々にして削った機能が原因で故障が起きたり、受けるはずの商品が意外に受けが悪かったりして、なかなか思い通りにはいかないものです。

それはそうですよね、今まで問題がなかったからといって将来もそうなるのかは保証の限りではないし、統計だって過去の出来事の集計や分析である限り、将来の出来事を正確に言い当てることなんてできない(はずな)のです。論理的思考の典型ともいえるスーパーコンピュータを使っても、明日の天気予報が外れるんですから。

もちろん、私たち人間は経験や過去の教訓に学んで未来を予測し現実に対処し繁栄をしてきたわけです。しかし、その結果は必ずしも正しいと言えることばかりではなかった、例えば、地球温暖化問題や私の人生のように・・・。

これは人間の知識の形成過程が経験によらなければならないという超えることができない限界があるためで仕方がないことなのです。

かのドイツの哲学者ヘーゲルは「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な言葉を残しています。これは、人間のことを考える哲学は、夕暮れに現れる梟のように(ミネルバはギリシャの女神アテナ(ゼウスの子)のことで、梟とともに智の象徴とされています。日本では「福朗」のお土産もありますね)現実の出来事におくれて現れるという意味で、我々人間の認知能力の悲しい現実を表しているのだそうです。

論理的であることには、常に認知的な限界を持っているのですね。

また、私たち人間は論理だけで考え、行動しているわけではありません。私たちの経験は感情も作りだします。思考とその結果の限界を補完しているのが感情といえます。

私たちは、理屈に合わないことに対して怒ったりしますし、悲しい経験や嬉しい経験が糧になって努力を重ねて成功するなどということもよく聞きますが、感情が私たちの行動に強い影響を及ぼしていることは実感としても納得できると思います。

そして、私たち人間は自我を持っています。自我とは、自分が自分である根本といえるものですが、これも自分を取り巻く人々や物事との関係や経験から形作られています。

私はこうしていわば他人から創り上げられた自我というフィルターを通して世の中で起きる様々なことを経験し生活しているわけで、そのうえで論理や感情が生まれるわけです。

この様に論理的思考そのものに認知的な限界があるうえに、人間の行動には感情や自我の介在があり論理的思考だけでは説明できないのです。

このブログを書いている最中、星野仙一さんの訃報が流れました。星野さんといえば、闘将と呼ばれ強力な個性で闘争心むき出しの姿がすぐに浮かびますが、その一方で選手やスタッフの奥さんお誕生日に花束を贈るなど、細やかな心遣いの人であったそうです。

星野さんの野球理論の話はあまり聞いたことがありませんが、人間としての感性が人を惹きつけ、そう強いとは思えない3つの球団を優勝に導いたのです。

論理は勿論大切ですが、物事を論理通り進めるのは人の力なのです。人は論理だけでは動かない、むしろ、論理では動かない。人を論理通り動かす仕組みを常に供給することこそ経営者(リーダー)の仕事ですね。

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