私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。
4回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。
4回目は、力をつけてきた家康が、「暴挙」とも言える行動に出て徳川家は存亡の危機に直面しますが、そこで家康がなにを学んだか、というところに焦点を当てます。
後継者の皆様
後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。
私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。
後継者のみならず経営者にとって、で力をつけて成功しつつあるときに、一番落とし穴に入りがちなリスクがあるものです。
成功体験を積み重ねることは成長していくことにおいて大事ですが、成功しているときこそ勇み足に注意したいものです。
徳川家康も、独立して三河一向一揆を鎮圧して内部を固め、武田信玄と協力して今川家を滅ぼして遠江国を領土に加えました。
これまで三河国(愛知県東部)だけだった領地が、今の静岡県西部まで広がったことになります。
今川義元の下で、厳しい戦いに駆り出されていた三河の武士たちは、そのおかげで戦いにめっぽう強く、「尾張(織田家)の武士3人に三河武士1人が匹敵する」との評判をとりました。今川義元の軍師であった太原雪斎から采配(戦いの指揮)を学んだ家康のもとで、織田信長を助けて姉川の合戦(織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の戦い)に大苦戦の末かろうじて勝ち、おかげで家康は「東海道一の弓取り(名将)」とまで呼称されるようになります。
自信を深めつつあった家康と三河武士たちに、しかし大きな試練が訪れることになります。
室町幕府の15代将軍である足利義昭を擁して京都へ攻め上った織田信長は、天下の政治を巡って義昭と対立するようになります。
義昭は各地の戦国大名たちに密書を送り、信長包囲網を形成して、自分にとって邪魔な存在となりつつあった信長を京都から追い落とそうと画策していました。
その信長包囲網で最も強力な勢力であったのは、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を支配していた、かの武田信玄です。
「風林火山(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」の軍旗で有名ですね。
武田信玄の配下の兵士たちは、伝説的な名将である信玄によって鍛え上げられ、磨き込まれた精兵たちでした。
やはり、信玄に見込まれた選り抜きの武将たちの指揮のもと、上杉謙信や北条氏康たちと幾度となく戦って、ほとんど負けたことがありません。
かろうじて、「軍神」と称された上杉謙信の越後軍団だけが、武田軍団と対等の戦いができたと言われています。
武田信玄と国境を接していた家康は、次第に武田信玄と対立するようになり、その武田軍からの強烈な圧力に耐えていました。
しかし、武田信玄は足利義昭からの依頼に応えて、ついに「山」が動き出しました。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は甲府を出発し京都を目指して西上を開始します。
信玄の本隊が青崩峠を越えて東海道へ出たときの様子は、伝説として語られています。
その行軍は粛々として、二万人が踏みならす地響きのみが聞こえ、私語する者や脇見をする者は一人もなく、あたかも一匹の巨大な猛獣が突き進むさまを見ているようだったとのことです。
武田軍は徳川領内の城を一撃で粉砕して、悠々と進撃します。
織田信長からは3千人の援軍が徳川軍に加わり、この一大危機への対処について軍議を開きます。
当然のことながら、強い武田軍への勝ち目は万に一つもない、浜松城へ籠城すべきと言う意見が大勢を占めました。
しかし、普段は人一倍慎重な家康が、この時ばかりは狂ったように城を出て野戦で戦う!と強硬に主張して、家臣や援軍としてきている織田家の武将たちは度肝を抜かれます。
武田軍は、遠江国の主要な城を落とした後、浜松城を素通りして、浜松の北にある三方ヶ原へと進軍しようとしていました。
家康が出戦論を唱えたのは、次のような判断によるものでした。
・籠城していると、遠江国の他の武将たちが武田家に寝返る恐れがある。
・近畿で苦戦している織田信長への体面もある。
・遠江国の地形をこちらは熟知しているのだから、うまく背後から突けばたとえ人数で劣っていても勝つチャンスはある。
しかし、おそらくそれらの判断以上に、数々の合戦に勝利してきた自らの手腕に、家康が自信を持ち始めていたことが大きいでしょう。
たとえ、武田信玄が名将であっても、武田軍がいかに強くても、今の自分なら互角以上に戦える自信がある。
こうして、大将が主戦論を唱えているわけですから、家臣や織田家の武将たちは押し切られ、浜松城を出て武田軍の後を追うことになります。
粛々と浜松の北を進軍する武田軍は約3万人、徳川・織田連合軍は1万5千人、圧倒的に人数が劣勢ですが、背後を突かれると確かにあっけなく大軍が負けることもあります。
桶狭間の戦いでの今川義元のように。
あるいは、徳川家康は桶狭間の戦いでの織田信長を意識したのかもしれません。
しかし、武田信玄は今川義元ではありませんでした。
浜松の北に、三方ヶ原という台地があり、武田軍はそこを登っていくところでした。家康としては、敵に気づかれないように後をついていき、三方ヶ原を下ろうとしたときに背後から攻め下れば、勝機があると考えていました。
高い所から下にいる敵を攻撃するのが、一番有利だからです。
ところが、武田信玄はそのような家康の目算は百も承知でした。
わざと本陣を通常とは逆に先行させて、家康が台地を登ってきたところで軍勢を反転させ、あっという間に行軍隊形から戦闘用の陣形に変換したのです。
そのまま、追いすがってくる徳川軍を待ち構えていました。
坂の上に万全な魚鱗の陣(楔のような縦に鋭い陣形)で待ち構えている武田軍を見て、徳川家康は罠にかかったことを悟ります。
武田信玄は、家康の心の動きまで全て計算して、最初から城を攻めずに徳川軍を誘い出して撃滅するつもりだったのです。
百戦錬磨の武田信玄の方が、徳川家康よりもはるかに役者が上でした。
家康は、破れかぶれの鶴翼の陣(横に広がる陣形)で武田軍に対抗しようとします。戦いの火蓋が切られ、さすがに強い徳川軍は持ちこたえますが、織田の援軍が潰乱して一気に敗勢となり、散々に徳川・織田連合軍は打ち破られます。
家康を始めとして、徳川・織田連合軍は散り散りになって武田軍から逃げます。家康も単騎命からがら逃げますが、武田軍の追い討ちにあって危うく捕まりそうになりました。
しかし、忠実な三河武士たちが家康の窮地を救います。
三河一向一揆で、一揆側についたものの許されて帰参した夏目正吉は、その恩を返そうと家康の名を名乗って武田軍の追撃の群れの中へ突撃して戦死します。
そのような家臣たちが、他にも何人もいました。
家臣たちは、家康あっての徳川家であることを、過去の辛酸をなめた経験から、心に刻んでいたのです。
そしてまた、このような徹底的な敗北を経験することで、そのような家臣たちの強い思いを家康も思い知らされることとなりました。
命からがら浜松城へと逃げ帰った家康は、その敗北して憔悴した姿を絵師に描かせます。
これがかの有名な「顰像(しかみぞう)」です。
家康はこの絵を生涯座右に置いて、自分の思い上がりの戒めとしたと伝えられています。
この戦いの後、徳川家康は無理な戦いをしなくなります。勝てる情勢になるまで、勝てる戦力を持てるまで辛抱強く粘り強く待つようになり、むやみやたらと決戦をしなくなります。
家臣たちにとって自分がなくてはならない存在であると同様に、自分にとって家臣は何よりも大切な存在なのであり、彼らの命を損ねるような戦いをしてはならないと、三方ヶ原の戦いの痛切な敗北経験から学んだのでした。
そして、この経験が「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の合戦で生きることになります。
大垣城に籠城する石田三成をおびき出すために、徳川家康は大垣城を素通りして、三成の居城である佐和山城へ向かいます。
家康の目論見通りに、三成は大垣城を出て関ヶ原へ向かわざるを得なくなりました。
痛烈な敗北の経験が、後々の大勝利に生かされたわけです。
また、強大な武田信玄に挑戦した「無謀」な経験は、家康の声望を高めました。
「三河殿(家康の通称)は、かの信玄公に挑んだお方」として、後年になってカリスマ的な尊敬を受けることになります。
関ヶ原の戦いの頃になると、武田信玄も上杉謙信も伝説的な存在であり、そのレジェンドたちと互角に戦った家康に戦いを挑むこと自体が「無謀」なことになったのです。
家康に挑戦したのは、かの石田三成だけでした。
無謀な経験は、家康のいろいろな意味での財産になったと言えるでしょう。
自信があるときほど、過信へつながりやすい落とし穴があること、そして忠実な部下たちこそが経営者にとって何よりも財産であり、何よりも尊重しなければならないこと。
いくら成功を積み重ねても、一度の痛烈な敗北が命取りになることがある。成功以上に大敗のリスクを徹底的に避けることが重要であること。
それを、三方ヶ原での家康の敗北から私たちも学ぶことができます。
これもまた、事業承継の本質の一つです。
経営の本質でもありますね。
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