私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。
6回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。
6回目は、武田信玄亡き後、信玄の事業を継いで織田信長や徳川家康と戦って滅亡した武田勝頼の敗因を分析して、当時も今も後継者が存分に力を発揮するためには、「統治基盤」が大事であることをお伝えしたいと思います。
後継者の皆様
後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。
私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。
徳川家康は、第4回目で申し上げたとおり、織田信長と協力して武田信玄と戦って敗れました。しかし、信玄はその後まもなく病気でこの世を去り、武田軍も甲府へと撤収します。
その後を継いだのは、信玄の四男である武田勝頼でした。
武田勝頼は、これまでの一般的な評価としては、戦闘能力には長けているものの、武田家をまとめる力はなく、親類や家臣たちに背かれて武田家を滅亡させた張本人とされてきました。
しかしながら、実は大名として優れた資質の持ち主であり、信玄の事業を継いだ当初は信長や家康との戦いに勝ってさらに領土を拡大し、信長や家康は「極めて優れた後継者である」と警戒していたことが、記録の丹念な読み込みによって最近明らかにされてきました。
しかし、それもそのはずです。人材を見極めることについては人後に落ちない信玄が後継者に抜擢したのですから、優れていないわけがないのです。
実は、武田勝頼の時に、武田家の領土は最大になるのです。
しかしながら、長篠の戦いで有力な家臣を一気に失った後、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いで次第に押されていき、ついにはあっけない最期を迎えることになります。
織田信長は、勝頼の滅亡後、「優れた武将であったけれども、不運であった」と評したそうです。
「不運」とは、どういうことでしょうか。
皆さんは、「統治基盤」という言葉をご存じでしょうか。
英語では、「governance(ガバナンス)」と言います。
権力を振るうための拠って立つ基盤、ということになりますでしょうか。
要は、「部下はなぜその上司の命令に従うのか」ということです。
統治基盤、いわゆるガバナンスというのは、実は極めて複雑でして、時代、状況、人間関係、その他様々な要因で決まってくるのです。
株式会社で言えば、これは極めてシンプルでして、株式を最も多く保有している株主の支配力が最も強いわけです。
ただし、その株主に対して人間力で影響力を与えられる人がいるとすれば、その人のガバナンスも無視することはできないでしょう。
このように、統治基盤というのは、普段はあまり意識されないのですが、組織の命運を分ける状況においては極めて大きな要素となります。
戦国時代であれば、「家臣たちは、なぜその大名の命令に従って命を懸けて戦うのか?」ということが、統治基盤であると言えるでしょう。
実は、武田勝頼の資質は極めて優れていたのですが、その統治基盤が脆弱でした。
「武田家」は、武士にとって極めて高貴な血筋である「清和源氏」の嫡流(本流)であり、要するに武士の「貴族」でした。会社で言うと、古くから続く「老舗」のようなものですね。
老舗なので、たとえ親族であっても他の家に養子に行った者は武田を継ぐことができない、という暗黙の了解がありました。
実は、武田勝頼は諏訪家の養子となって、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
諏訪家は、信玄が滅ぼした大名ですが、諏訪大社の神官を務めており、信濃国においては絶大な権威があったので、勝頼が養子となって継ぐことで信濃国と武田家との結びつきを強くしようと信玄は考えていました。
武田信玄には、長男である武田義信がおり、彼が武田家を継ぐことが決まっていました。義信は今川義元の娘を妻としてめとることで、武田と今川の同盟を強めていました。
このように、武田信玄は婚姻と養子で周辺国との結びつきを強めて、武田家の外交関係を安定させようと苦心していたのですが、そこに驚天動地の出来事が起こります。
桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
この出来事が、武田家に大きな波紋を呼ぶことになります。
武田信玄は今川家が衰退すると見て、織田・徳川連合軍に今川が滅ぼされる前に、領地を乗っ取ろうと企みますが、義信から強硬に反対されます。妻の実家を攻めるなどとんでもないと。
武田の家中を二分させる騒動に発展しそうになったため、信玄は義信とその関係者を切腹させて粛清します。
これを通称「武田義信事件」といいます。
義信がいなくなったため、武田信玄はやむなく武田勝頼を跡継ぎとします。しかし資質には全く問題ないとはいえ、勝頼は既に武田家から見ると外様である諏訪家にいったん出されているため、「出戻り」となります。出戻りが後継者となることは、武田家では御法度でした。
従って、武田信玄は自分の正式な跡継ぎは武田勝頼の嫡男である武田信勝(武田信玄の孫にあたる)とし、勝頼はその後見人であると遺言に残すという苦肉の策をとります。つまり、武田勝頼は正式な跡継ぎではなく、その後見人というのが形式的な地位であったため、必然的に武田の家中から軽んじられることとなってしまいました。
要するに、武田信玄が今川の領土を欲したことが、結局は武田家の弱体化を招くこととなったと言えるでしょう。
武田勝頼は、それでも勝ち続けている間は家中を治めることができましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は次第に親類や家臣から背かれるようになります。
そして信玄の後を継いで10年足らずで織田信長の「甲州征伐」により、武田家は親族や譜代の家臣の裏切りや逃亡であっけなく崩壊し、わずか1ヶ月足らずで惨めに滅亡してしまいました。
どんなに後継者の資質が優れていたとしても、それを支える統治基盤が不安定であれば、人からの支持が得られず後継者はその能力を発揮することはできないのです。それが、統治基盤の恐ろしさです。
それを、すぐそばの敵として近くからつぶさに見ていた徳川家康が、学ばないわけはありません。
徳川家康は、資質は平凡でしたが、状況から考えて一番承継するのに無理のない秀忠を後継者に定め、その周りに自分の一番の腹心の家臣を補佐として置きました。
また、秀忠の跡継ぎについても、親から寵愛されていた次男ではなく、長男である家光を定めるように秀忠に命じます。跡目争いを起こさせないようにするためでした。
それだけではなく、直系の子孫が断絶することも考慮して、尾張藩(愛知県西部)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)に親藩(徳川家の親戚)を置き、直系が途絶えた場合にはその藩から跡継ぎを出せるように定めました。いわゆる、リザーブですね。
できるだけ血筋を絶やさないことで、徳川家の統治基盤を守ろうとしたわけです。
このような家康の苦心により、徳川幕府は15代まで続く長期政権となったのですね。
統治基盤は、いざというときに巨大なリスクを発生させる可能性があります。会社で言えば、株式をどれだけ持っているか、ということは経営者や後継者の手腕には全く影響しませんが、手腕を発揮するための前提としては極めて重要となります。株主総会で過半数の決議があれば、どんなに優れた経営者であっても、解任されてしまうのです。
従って、経営者のみならず組織を掌握しようとする人は、必ずその組織における統治基盤を見極めて、それを完璧に掌握する必要があります。逆に言えば、統治基盤を熟知して掌握してしまえば、トップでなくともその組織を動かすことができてしまうのです。
いわゆる「フィクサー」とか「陰の実力者」と言われる人たちがいますが、彼らはたとえ表向きはトップでなくても、その組織を意のままに動かせます。なぜなら、彼らは統治基盤を完璧に握っているからです。
統治基盤は、株式に限られず、人事を動かす力とか、取引先を引っ張ってくる力であるとか、一概に定義することはできません。組織の置かれている環境、制度、人間関係、財産、様々な要素によって柔軟に変化します。
株式会社であれば、株式を多数(できれば全部)掌握しておけば、統治基盤のリスクをかなり低くすることができます。
統治基盤の掌握、これは事業承継の最重要なテーマの一つです。
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