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大塚家具の顛末から見えてくるもの

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

2015年の(株)大塚家具の事業承継を巡る騒動から3年が経とうとしています。

今年になって、当時の主役 大塚勝久氏(匠大塚会長)が、ダイヤモンドオンライン(“父娘げんか”を経て語る「事業承継ここを誤った」http://diamond.jp/articles/-/155073(以下「ダイヤモンド」))で心情を語っています。

現在、大塚久美子社長率いる大塚家具は、昨期決算(2016.1.1~2016.12.31)で46億円の営業損失を計上し、今期も赤字決算となる見込みです。一方、「大塚家具との争いにならないよう、・・・ぶつからないようにしてきた」と、古巣に配慮してきた勝久会長も苦しい戦いが続いているようです。

大塚家具は、入店時に作成する顧客ファイルによる個別対応で、新婚夫婦や新築時のまとめ買いによって売上をのばしていましたが、2001年(売上高731億円、経常利益76億円(Kabutan 、https://kabutan.jp/stock/finance?code=8186))をピークに徐々に売上を落としていきます。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

2008年、勝久氏は、それまでの不良資産を整理したうえで(経常利益→当期純損失計上)、久美子氏への社長交代を決意します。久美子氏は、会員制を廃止し、カジュアル路線へ舵を切るものの、グラフにあるように業績は改善しません。そして、長男勝之氏の人事を巡り両氏は対立し、久美子氏解任、勝久社長の再登板、勝久社長解任、久美子社長再登板と皆さんご存知の顛末に至った訳です。
大塚家具が苦しむ中、ライバル「ニトリ」は順調に売上を伸ばし続け、小売業界に君臨する大企業に成長しました。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

大塚家具の苦戦については「ライバルであるニトリの事業ドメインが優れていた」「商品回転率がニトリの方が短く効率が良い」「リーズナブルで統一感のある品揃えがクロスセリングを導いている」とニトリの優位性を説く

意見や「カジュアル路線はニトリとの競合に勝てなかった」「会員制の廃止で来店客が増えたが、販売員のクロージングが甘くなり、成約率が低くなった」と、大塚家具に原因を求める考えなど外野の経営学者諸氏の意見はいろいろです。

住宅着工件数の減少や少子化晩婚化など社会構造の変化、リーマンショック、消費税アップ、失われた20年といわれる経済状況がありますが、方や中国等の海外で安価な家具を製作し家具業界のSPAともいうべきニトリに対し、高・中級家具を軸とし国内メーカーの家具を販売する大塚家具や匠大塚のビジネスモデルや財務指標を比較してもあまり意味がないのです。

両社の決定的な違いは、まさに事業承継にあったのです。

大塚家の5人の子供は、「自慢の子」で、「大塚家具のために役に立つだろう」と「長女は経済、長男(匠大塚の勝之社長)は彫刻科、二女は法律、三女が芸術学部、次男が建築」を専攻、勝久氏も、「資産管理会社の株を兄弟5人で均等に」分割します。娘に社長を譲るときも、父は、不良資産を精算して引き渡しました。久美子氏も、「誰かに代わってもらえるなら、代わってほしいと思いましたよ。」と述回するほど、平穏を求める仲の良い家庭でした。ところが、父は、会社を追われ、従業員は娘の会社を去ってしまったのです。

 

これに対し、ニトリは、創業社長の父義雄氏が1989年に亡くなった際、その遺産の不動産を母みつ子氏が、現社長の昭雄氏が株式を、他の弟妹が現金を相続しました。ところが、2007年になって、昭雄氏は、相続時の遺産分割協議書は偽造だとして、母や弟たちから告訴され、(一審は昭雄氏勝訴、その後和解)兄弟は会社を去ってしまいます。

この顛末のどちらの主張が正しいのかは別にして、少なくとも株式の全てを確保した昭雄氏が、強力な意志と力をもって、ニトリという会社に対したことがうかがえます。だからこそ、強力に「SPA」路線を進められたのです。

株式を分割した大塚家具に対し、集中させたニトリ。

お金を持った久美子氏の大塚家具は、従業員を失い、販売員のクロージングの悪化で売上を落とし、勝久氏の匠大塚は資金枯渇に苦しむことになります。

一方、ニトリの昭雄社長は、家族をだましても(あくまで、みつ子氏の弁ですが)株式という権力基盤を得、今の隆盛を迎えます。

 

事業承継を考えるうえで、決定的に重要な要素がこの両社の騒動の中にあります。

①人は善意や合理的考えだけで動くものではなく、むしろ、往々にして善意から悪意が生まれ、合理性からは不合理な結末がもたらされること。

②そのような顛末を収拾、整理するためには力が必要であり、事業承継の場合は、株式がその力を与えてくれる手段であること。

③ただし、力の本当の根源は、会社を乗っ取るという強い意思の力であること。

ただし、友好的に。

後継者の学校
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※SPA(Specialty store retailer of Private label Apparel: 企画から製造、小売までを一貫して行うアパレル業界のビジネスモデルのこと。製造小売ともいう。ユニクロが有名)

 

 

武田勝頼に見る統治基盤の大事さと恐ろしさ|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑦

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

6回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

6回目は、武田信玄亡き後、信玄の事業を継いで織田信長や徳川家康と戦って滅亡した武田勝頼の敗因を分析して、当時も今も後継者が存分に力を発揮するためには、「統治基盤」が大事であることをお伝えしたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、第4回目で申し上げたとおり、織田信長と協力して武田信玄と戦って敗れました。しかし、信玄はその後まもなく病気でこの世を去り、武田軍も甲府へと撤収します。

その後を継いだのは、信玄の四男である武田勝頼でした。

武田勝頼は、これまでの一般的な評価としては、戦闘能力には長けているものの、武田家をまとめる力はなく、親類や家臣たちに背かれて武田家を滅亡させた張本人とされてきました。

しかしながら、実は大名として優れた資質の持ち主であり、信玄の事業を継いだ当初は信長や家康との戦いに勝ってさらに領土を拡大し、信長や家康は「極めて優れた後継者である」と警戒していたことが、記録の丹念な読み込みによって最近明らかにされてきました。

しかし、それもそのはずです。人材を見極めることについては人後に落ちない信玄が後継者に抜擢したのですから、優れていないわけがないのです。

実は、武田勝頼の時に、武田家の領土は最大になるのです。

しかしながら、長篠の戦いで有力な家臣を一気に失った後、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いで次第に押されていき、ついにはあっけない最期を迎えることになります。

織田信長は、勝頼の滅亡後、「優れた武将であったけれども、不運であった」と評したそうです。

「不運」とは、どういうことでしょうか。

 

皆さんは、「統治基盤」という言葉をご存じでしょうか。
英語では、「governance(ガバナンス)」と言います。
権力を振るうための拠って立つ基盤、ということになりますでしょうか。
要は、「部下はなぜその上司の命令に従うのか」ということです。

統治基盤、いわゆるガバナンスというのは、実は極めて複雑でして、時代、状況、人間関係、その他様々な要因で決まってくるのです。
株式会社で言えば、これは極めてシンプルでして、株式を最も多く保有している株主の支配力が最も強いわけです。
ただし、その株主に対して人間力で影響力を与えられる人がいるとすれば、その人のガバナンスも無視することはできないでしょう。
このように、統治基盤というのは、普段はあまり意識されないのですが、組織の命運を分ける状況においては極めて大きな要素となります。

戦国時代であれば、「家臣たちは、なぜその大名の命令に従って命を懸けて戦うのか?」ということが、統治基盤であると言えるでしょう。

実は、武田勝頼の資質は極めて優れていたのですが、その統治基盤が脆弱でした。

「武田家」は、武士にとって極めて高貴な血筋である「清和源氏」の嫡流(本流)であり、要するに武士の「貴族」でした。会社で言うと、古くから続く「老舗」のようなものですね。
老舗なので、たとえ親族であっても他の家に養子に行った者は武田を継ぐことができない、という暗黙の了解がありました。

 

実は、武田勝頼は諏訪家の養子となって、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
諏訪家は、信玄が滅ぼした大名ですが、諏訪大社の神官を務めており、信濃国においては絶大な権威があったので、勝頼が養子となって継ぐことで信濃国と武田家との結びつきを強くしようと信玄は考えていました。

武田信玄には、長男である武田義信がおり、彼が武田家を継ぐことが決まっていました。義信は今川義元の娘を妻としてめとることで、武田と今川の同盟を強めていました。

このように、武田信玄は婚姻と養子で周辺国との結びつきを強めて、武田家の外交関係を安定させようと苦心していたのですが、そこに驚天動地の出来事が起こります。

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
この出来事が、武田家に大きな波紋を呼ぶことになります。

武田信玄は今川家が衰退すると見て、織田・徳川連合軍に今川が滅ぼされる前に、領地を乗っ取ろうと企みますが、義信から強硬に反対されます。妻の実家を攻めるなどとんでもないと。
武田の家中を二分させる騒動に発展しそうになったため、信玄は義信とその関係者を切腹させて粛清します。
これを通称「武田義信事件」といいます。

義信がいなくなったため、武田信玄はやむなく武田勝頼を跡継ぎとします。しかし資質には全く問題ないとはいえ、勝頼は既に武田家から見ると外様である諏訪家にいったん出されているため、「出戻り」となります。出戻りが後継者となることは、武田家では御法度でした。

従って、武田信玄は自分の正式な跡継ぎは武田勝頼の嫡男である武田信勝(武田信玄の孫にあたる)とし、勝頼はその後見人であると遺言に残すという苦肉の策をとります。つまり、武田勝頼は正式な跡継ぎではなく、その後見人というのが形式的な地位であったため、必然的に武田の家中から軽んじられることとなってしまいました。

要するに、武田信玄が今川の領土を欲したことが、結局は武田家の弱体化を招くこととなったと言えるでしょう。

武田勝頼は、それでも勝ち続けている間は家中を治めることができましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は次第に親類や家臣から背かれるようになります。

そして信玄の後を継いで10年足らずで織田信長の「甲州征伐」により、武田家は親族や譜代の家臣の裏切りや逃亡であっけなく崩壊し、わずか1ヶ月足らずで惨めに滅亡してしまいました。

どんなに後継者の資質が優れていたとしても、それを支える統治基盤が不安定であれば、人からの支持が得られず後継者はその能力を発揮することはできないのです。それが、統治基盤の恐ろしさです。

それを、すぐそばの敵として近くからつぶさに見ていた徳川家康が、学ばないわけはありません。

徳川家康は、資質は平凡でしたが、状況から考えて一番承継するのに無理のない秀忠を後継者に定め、その周りに自分の一番の腹心の家臣を補佐として置きました。
また、秀忠の跡継ぎについても、親から寵愛されていた次男ではなく、長男である家光を定めるように秀忠に命じます。跡目争いを起こさせないようにするためでした。
それだけではなく、直系の子孫が断絶することも考慮して、尾張藩(愛知県西部)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)に親藩(徳川家の親戚)を置き、直系が途絶えた場合にはその藩から跡継ぎを出せるように定めました。いわゆる、リザーブですね。
できるだけ血筋を絶やさないことで、徳川家の統治基盤を守ろうとしたわけです。
このような家康の苦心により、徳川幕府は15代まで続く長期政権となったのですね。

統治基盤は、いざというときに巨大なリスクを発生させる可能性があります。会社で言えば、株式をどれだけ持っているか、ということは経営者や後継者の手腕には全く影響しませんが、手腕を発揮するための前提としては極めて重要となります。株主総会で過半数の決議があれば、どんなに優れた経営者であっても、解任されてしまうのです。

従って、経営者のみならず組織を掌握しようとする人は、必ずその組織における統治基盤を見極めて、それを完璧に掌握する必要があります。逆に言えば、統治基盤を熟知して掌握してしまえば、トップでなくともその組織を動かすことができてしまうのです。
いわゆる「フィクサー」とか「陰の実力者」と言われる人たちがいますが、彼らはたとえ表向きはトップでなくても、その組織を意のままに動かせます。なぜなら、彼らは統治基盤を完璧に握っているからです。

統治基盤は、株式に限られず、人事を動かす力とか、取引先を引っ張ってくる力であるとか、一概に定義することはできません。組織の置かれている環境、制度、人間関係、財産、様々な要素によって柔軟に変化します。
株式会社であれば、株式を多数(できれば全部)掌握しておけば、統治基盤のリスクをかなり低くすることができます。

統治基盤の掌握、これは事業承継の最重要なテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。
ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

後継者の学校

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独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。

この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。

地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。

そうすれば、大きな失敗をすることはありません。

徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

 

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

 

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。

しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

 

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。

しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。

今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

 

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。

今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

 

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

 

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。

今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。

家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

 

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。

味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

 

もちろん、この家康の行動には二面性があります。

今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。

一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

 

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。

織田信長ですね。

織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。

この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。

そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

 

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。

人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。

そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。

隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。

この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

 

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。

そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

 

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

 

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。

チャンスの時に、どのように行動したらいいか。

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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論理的判断は理にかなっているのか

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年初めてのブログです。前回のから2か月以上経ってしまいました。

少しばかり、言い訳を言わせていただくと、年末らしく「2017年を振り返って」と題して投稿させていただこうと思っていました。しかし、2017年の日本企業を振り返るとすれば、やはり、「不正」「ねつ造」について書かなければならないことになってしまいます。「一体何回書けば終わりになるのか?」と気が滅入ってしまって、筆(キーボードを打つ手)が進まないのです。

いくら批判してみても、彼らの行為には、(彼らなりの)合理的な理由(=論理)がある(はずな)のです。そうでなければ、こんなにも多くの大企業で起こるはずがない(はずな)のです。

そこで今回は、二年越しの宿題になった論理的な判断について考えてみたいと思います。

論理的な考え方は、「経営学」の世界では、ロジカル・シンキングと格好よく言い直して使われたりしています。

なるほど、会社では「ああすればこうなって、この部分はコストに見合う利益があがらないから削ることにしよう」とか、「統計的に考えて、この商品は女性層に受け入れられそうだから、生産量を増やそう」とかいうことはよくききますね。

ところが、往々にして削った機能が原因で故障が起きたり、受けるはずの商品が意外に受けが悪かったりして、なかなか思い通りにはいかないものです。

それはそうですよね、今まで問題がなかったからといって将来もそうなるのかは保証の限りではないし、統計だって過去の出来事の集計や分析である限り、将来の出来事を正確に言い当てることなんてできない(はずな)のです。論理的思考の典型ともいえるスーパーコンピュータを使っても、明日の天気予報が外れるんですから。

もちろん、私たち人間は経験や過去の教訓に学んで未来を予測し現実に対処し繁栄をしてきたわけです。しかし、その結果は必ずしも正しいと言えることばかりではなかった、例えば、地球温暖化問題や私の人生のように・・・。

これは人間の知識の形成過程が経験によらなければならないという超えることができない限界があるためで仕方がないことなのです。

かのドイツの哲学者ヘーゲルは「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な言葉を残しています。これは、人間のことを考える哲学は、夕暮れに現れる梟のように(ミネルバはギリシャの女神アテナ(ゼウスの子)のことで、梟とともに智の象徴とされています。日本では「福朗」のお土産もありますね)現実の出来事におくれて現れるという意味で、我々人間の認知能力の悲しい現実を表しているのだそうです。

論理的であることには、常に認知的な限界を持っているのですね。

また、私たち人間は論理だけで考え、行動しているわけではありません。私たちの経験は感情も作りだします。思考とその結果の限界を補完しているのが感情といえます。

私たちは、理屈に合わないことに対して怒ったりしますし、悲しい経験や嬉しい経験が糧になって努力を重ねて成功するなどということもよく聞きますが、感情が私たちの行動に強い影響を及ぼしていることは実感としても納得できると思います。

そして、私たち人間は自我を持っています。自我とは、自分が自分である根本といえるものですが、これも自分を取り巻く人々や物事との関係や経験から形作られています。

私はこうしていわば他人から創り上げられた自我というフィルターを通して世の中で起きる様々なことを経験し生活しているわけで、そのうえで論理や感情が生まれるわけです。

この様に論理的思考そのものに認知的な限界があるうえに、人間の行動には感情や自我の介在があり論理的思考だけでは説明できないのです。

このブログを書いている最中、星野仙一さんの訃報が流れました。星野さんといえば、闘将と呼ばれ強力な個性で闘争心むき出しの姿がすぐに浮かびますが、その一方で選手やスタッフの奥さんお誕生日に花束を贈るなど、細やかな心遣いの人であったそうです。

星野さんの野球理論の話はあまり聞いたことがありませんが、人間としての感性が人を惹きつけ、そう強いとは思えない3つの球団を優勝に導いたのです。

論理は勿論大切ですが、物事を論理通り進めるのは人の力なのです。人は論理だけでは動かない、むしろ、論理では動かない。人を論理通り動かす仕組みを常に供給することこそ経営者(リーダー)の仕事ですね。

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経営において、無謀な冒険は禁物 ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑤~

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

4回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

4回目は、力をつけてきた家康が、「暴挙」とも言える行動に出て徳川家は存亡の危機に直面しますが、そこで家康がなにを学んだか、というところに焦点を当てます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者のみならず経営者にとって、で力をつけて成功しつつあるときに、一番落とし穴に入りがちなリスクがあるものです。

成功体験を積み重ねることは成長していくことにおいて大事ですが、成功しているときこそ勇み足に注意したいものです。

 

徳川家康も、独立して三河一向一揆を鎮圧して内部を固め、武田信玄と協力して今川家を滅ぼして遠江国を領土に加えました。

これまで三河国(愛知県東部)だけだった領地が、今の静岡県西部まで広がったことになります。

 

今川義元の下で、厳しい戦いに駆り出されていた三河の武士たちは、そのおかげで戦いにめっぽう強く、「尾張(織田家)の武士3人に三河武士1人が匹敵する」との評判をとりました。今川義元の軍師であった太原雪斎から采配(戦いの指揮)を学んだ家康のもとで、織田信長を助けて姉川の合戦(織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の戦い)に大苦戦の末かろうじて勝ち、おかげで家康は「東海道一の弓取り(名将)」とまで呼称されるようになります。

 

自信を深めつつあった家康と三河武士たちに、しかし大きな試練が訪れることになります。

 

室町幕府の15代将軍である足利義昭を擁して京都へ攻め上った織田信長は、天下の政治を巡って義昭と対立するようになります。

義昭は各地の戦国大名たちに密書を送り、信長包囲網を形成して、自分にとって邪魔な存在となりつつあった信長を京都から追い落とそうと画策していました。

 

その信長包囲網で最も強力な勢力であったのは、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を支配していた、かの武田信玄です。

「風林火山(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」の軍旗で有名ですね。

武田信玄の配下の兵士たちは、伝説的な名将である信玄によって鍛え上げられ、磨き込まれた精兵たちでした。

やはり、信玄に見込まれた選り抜きの武将たちの指揮のもと、上杉謙信や北条氏康たちと幾度となく戦って、ほとんど負けたことがありません。

かろうじて、「軍神」と称された上杉謙信の越後軍団だけが、武田軍団と対等の戦いができたと言われています。

 

武田信玄と国境を接していた家康は、次第に武田信玄と対立するようになり、その武田軍からの強烈な圧力に耐えていました。

しかし、武田信玄は足利義昭からの依頼に応えて、ついに「山」が動き出しました。

 

元亀3年(1572年)10月、武田信玄は甲府を出発し京都を目指して西上を開始します。

 

信玄の本隊が青崩峠を越えて東海道へ出たときの様子は、伝説として語られています。

その行軍は粛々として、二万人が踏みならす地響きのみが聞こえ、私語する者や脇見をする者は一人もなく、あたかも一匹の巨大な猛獣が突き進むさまを見ているようだったとのことです。

武田軍は徳川領内の城を一撃で粉砕して、悠々と進撃します。

 

織田信長からは3千人の援軍が徳川軍に加わり、この一大危機への対処について軍議を開きます。

当然のことながら、強い武田軍への勝ち目は万に一つもない、浜松城へ籠城すべきと言う意見が大勢を占めました。

 

しかし、普段は人一倍慎重な家康が、この時ばかりは狂ったように城を出て野戦で戦う!と強硬に主張して、家臣や援軍としてきている織田家の武将たちは度肝を抜かれます。

武田軍は、遠江国の主要な城を落とした後、浜松城を素通りして、浜松の北にある三方ヶ原へと進軍しようとしていました。

 

家康が出戦論を唱えたのは、次のような判断によるものでした。

・籠城していると、遠江国の他の武将たちが武田家に寝返る恐れがある。

・近畿で苦戦している織田信長への体面もある。

・遠江国の地形をこちらは熟知しているのだから、うまく背後から突けばたとえ人数で劣っていても勝つチャンスはある。

 

しかし、おそらくそれらの判断以上に、数々の合戦に勝利してきた自らの手腕に、家康が自信を持ち始めていたことが大きいでしょう。

たとえ、武田信玄が名将であっても、武田軍がいかに強くても、今の自分なら互角以上に戦える自信がある。

 

こうして、大将が主戦論を唱えているわけですから、家臣や織田家の武将たちは押し切られ、浜松城を出て武田軍の後を追うことになります。

 

粛々と浜松の北を進軍する武田軍は約3万人、徳川・織田連合軍は1万5千人、圧倒的に人数が劣勢ですが、背後を突かれると確かにあっけなく大軍が負けることもあります。

桶狭間の戦いでの今川義元のように。

あるいは、徳川家康は桶狭間の戦いでの織田信長を意識したのかもしれません。

しかし、武田信玄は今川義元ではありませんでした。

 

浜松の北に、三方ヶ原という台地があり、武田軍はそこを登っていくところでした。家康としては、敵に気づかれないように後をついていき、三方ヶ原を下ろうとしたときに背後から攻め下れば、勝機があると考えていました。

高い所から下にいる敵を攻撃するのが、一番有利だからです。

 

ところが、武田信玄はそのような家康の目算は百も承知でした。

わざと本陣を通常とは逆に先行させて、家康が台地を登ってきたところで軍勢を反転させ、あっという間に行軍隊形から戦闘用の陣形に変換したのです。

そのまま、追いすがってくる徳川軍を待ち構えていました。

坂の上に万全な魚鱗の陣(楔のような縦に鋭い陣形)で待ち構えている武田軍を見て、徳川家康は罠にかかったことを悟ります。

武田信玄は、家康の心の動きまで全て計算して、最初から城を攻めずに徳川軍を誘い出して撃滅するつもりだったのです。

百戦錬磨の武田信玄の方が、徳川家康よりもはるかに役者が上でした。

 

家康は、破れかぶれの鶴翼の陣(横に広がる陣形)で武田軍に対抗しようとします。戦いの火蓋が切られ、さすがに強い徳川軍は持ちこたえますが、織田の援軍が潰乱して一気に敗勢となり、散々に徳川・織田連合軍は打ち破られます。

 

家康を始めとして、徳川・織田連合軍は散り散りになって武田軍から逃げます。家康も単騎命からがら逃げますが、武田軍の追い討ちにあって危うく捕まりそうになりました。

しかし、忠実な三河武士たちが家康の窮地を救います。

三河一向一揆で、一揆側についたものの許されて帰参した夏目正吉は、その恩を返そうと家康の名を名乗って武田軍の追撃の群れの中へ突撃して戦死します。

そのような家臣たちが、他にも何人もいました。

家臣たちは、家康あっての徳川家であることを、過去の辛酸をなめた経験から、心に刻んでいたのです。

そしてまた、このような徹底的な敗北を経験することで、そのような家臣たちの強い思いを家康も思い知らされることとなりました。

 

命からがら浜松城へと逃げ帰った家康は、その敗北して憔悴した姿を絵師に描かせます。

これがかの有名な「顰像(しかみぞう)」です。

家康はこの絵を生涯座右に置いて、自分の思い上がりの戒めとしたと伝えられています。

 

この戦いの後、徳川家康は無理な戦いをしなくなります。勝てる情勢になるまで、勝てる戦力を持てるまで辛抱強く粘り強く待つようになり、むやみやたらと決戦をしなくなります。

家臣たちにとって自分がなくてはならない存在であると同様に、自分にとって家臣は何よりも大切な存在なのであり、彼らの命を損ねるような戦いをしてはならないと、三方ヶ原の戦いの痛切な敗北経験から学んだのでした。

 

そして、この経験が「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の合戦で生きることになります。

大垣城に籠城する石田三成をおびき出すために、徳川家康は大垣城を素通りして、三成の居城である佐和山城へ向かいます。

家康の目論見通りに、三成は大垣城を出て関ヶ原へ向かわざるを得なくなりました。

痛烈な敗北の経験が、後々の大勝利に生かされたわけです。

 

また、強大な武田信玄に挑戦した「無謀」な経験は、家康の声望を高めました。

「三河殿(家康の通称)は、かの信玄公に挑んだお方」として、後年になってカリスマ的な尊敬を受けることになります。

関ヶ原の戦いの頃になると、武田信玄も上杉謙信も伝説的な存在であり、そのレジェンドたちと互角に戦った家康に戦いを挑むこと自体が「無謀」なことになったのです。

家康に挑戦したのは、かの石田三成だけでした。

無謀な経験は、家康のいろいろな意味での財産になったと言えるでしょう。

 

自信があるときほど、過信へつながりやすい落とし穴があること、そして忠実な部下たちこそが経営者にとって何よりも財産であり、何よりも尊重しなければならないこと。

いくら成功を積み重ねても、一度の痛烈な敗北が命取りになることがある。成功以上に大敗のリスクを徹底的に避けることが重要であること。

それを、三方ヶ原での家康の敗北から私たちも学ぶことができます。

これもまた、事業承継の本質の一つです。

経営の本質でもありますね。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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内部の危機に対して、どのように対処するか ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡④~

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

3回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

またまた、前回から空いてしまいましたが、3回目は独立したての家康が遭遇した「三河一向一揆」という、内部の危機に対してどのように対処したかを見ることで、後継者が会社を継いでまもなく到来する危機へのヒントを得られないか、見ていきましょう。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者にとって、事業を承継した直後は、経営の全てを掌握していないため様々な危機に襲われる可能性が低くはないでしょう。ある意味で、不安定な時期です。

徳川家康も、ようやく今川氏から独立したとはいえ、内外にリスクを抱えていました。

 

それが表面化したのが、永禄6年(1563年)でした。独立してから3年目ですが、本願寺の寺領(寺の管理する土地)に不用意に踏み入ったことをきっかけとして、三河の西部で一向一揆が吹き荒れました。一向一揆とは、浄土真宗の門徒(一向宗)による宗教一揆です。戦国時代の後半では、越後(新潟県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、越前(福井県)、三河と尾張(愛知県)で、この一向一揆が大名に対抗しうるほどの勢力を持っていました。

 

徳川家康にとって誤算だったのは、少なくない家臣たちが自分から離反して、一揆側についたことです。

原因としては、一向宗の結びつきが強く、家臣たちが主君よりも一族の信仰による結束を選択せざるを得なかったことです。また、今川などの外部からの揺さぶりもあったかもしれません。

なによりも、二十歳にようやくなったばかりの徳川家康が、まだ家臣から認めてもらえていなかったことが、主たる原因と思われます。

今川氏による苦難の支配を経て、ようやく独立して主君と家臣ともにほっとしたものの、落ち着いてみるとまだ主君である家康に頼りないところがあったのかもしれません。

 

隣国には今川が健在であり、同盟者である織田信長も美濃国(岐阜県)の斎藤氏との戦いの展望が見えず、家康は内外にリスクを抱えることになります。

まして、宗教を中心にしている勢力は士気も高く、戦いも手強いため、妥協する大名も少なくありませんでした。

 

しかし、徳川家康はむしろこれをチャンスに変えます。

 

家臣が二分されたおかげで、戦いには苦戦するものの、一つ一つしらみつぶしに反乱を正面から戦って抑え込んでいきます。

反乱側についた家臣たちも、主君を相手としては戦いにくく、降伏したり他国へ逃亡したりして、次第に一揆の勢力は減退していきました。

戦いを通じて、本願寺(浄土真宗)勢力も弱められ、徳川家康の支配下へと組み込まれていくことになります。

 

結果として、一揆が終息したときには、戦いを通じて家康と家臣との絆は深まり、また家康の声望も上がっていました。

まさに、ピンチをチャンスへと変えたわけです。

 

一揆側について、家康に負けて他国へ逃亡し、後に家臣へと帰参した中には、かの有名な本多正信もいます。他国を流浪する中で、様々な経験や人脈を作り、後に家康が天下を取るにあたって多大な力を発揮しました。

また、同じように一揆側について、降伏して家臣になった中には、夏目吉信がいます。家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとなって戦死します。

「犬のように忠実な」三河家臣団が、数々の紆余曲折を経て作り上げられていったのです。

 

独立したばかりの時、あるいは事業を承継したばかりの時は、様々な苦難が襲ってくることもあるかもしれません。

しかし、その時こそ自らの力量を上げるチャンスなのかもしれませんね。

 

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

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止まらない製造業の不正

経営者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年もあと二か月足らずとなってしましました。

異常な暑さと寒さが交互に訪れた10月も、連続して二つの台風が、列島に大きな被害を残して走り去っていきました。

台風に引き込まれた寒気をともなって、木枯らし1号が吹き荒れ、晩秋の装いが増していく時期になりました。

これからは、だんだんと寒さが増して冬に向かっていくこの時期に、もっと寒いニュースが駆け巡っています。

ニュースの源は、神戸製鋼、日産自動車そしてスバルも加わりました。

神戸製鋼は供給するアルミ・銅製品、鋼板など供給先が500社以上に及び各社での品質検査に係る賠償等の経費が膨大になり決算見込みが立たない事態になっています。

日産自動車は、先月末から国内向けの全車種の製造を中止していましたが、製造再開を発表した途端、今日は、検査員の試験での不正が報道されました。

スバルでも無資格検査対応に100億円の追加費用が見込まれると発表しています。

今年を振り返ってみると、私のブログの題材に大企業の不祥事が度々取り上げることになってしまいました。

最初は、フォルクスワーゲンでした。その頃は、日本の製造業は大丈夫、「他山の石」とすべしと思っていましたが、相前後して、旭化成、東芝、神戸製鋼、日立、スバル・・・。

日本の製造業は、大丈夫なのでしょうか?

と考えてみると、フォルクスワーゲンを含めたこれらの企業は全て世界を舞台に戦う世界企業なのです。

世界企業のなかに、我が日本の企業が名を連ねるのは当然なのですが、できればこんな形でない方がよかった。

世界市場で戦う大企業で相次いで起こる不祥事、それも皆企業の存続さえも危うくしかねない深刻な影響を及ぼす事態にまで追い込まれることになるにも関わらず。

「優秀な(であるはずの)企業トップにそのような顛末に思いが至らないはずはない。」はずなのですが・・・。

世界企業の戦場は、「花形商品」をもたらす最先端技術にしのぎを削る一方で、その財源は「金のなる木」である主力商品から供給される資金による構造になっていると言えます。

主力商品の市場は、商品としては成熟しているがゆえにコモデティ化が進み、厳しい価格競争にさらされています。

その製造現場では、当然のようにコストダウン圧力が強くなってきます。

考えてみれば、先にあげた世界的製造業の問題は、製造部門でいえば直接利益を生み出さない「コストセンター」である検査部門における不正であることに気が付きます。

結局、最大の固定費、人件費が最大の削減対象になった結果が今の事態です。

「最先端の生産設備と最先端の生産技術があれば、最先端の製品となる。従って、検査は不要、コストそのものでしかない。」実に論理的です。しかし、その目線の先は、工場の門までしか届いていません。

品質には、工程の設計にあたって目標とする最も高い品質である設計品質、製造にあたり標準となる製造品質、使用にあたり標準となる仕様品質、メーカーが消費者に対し保証する保証品質があります。

当然、設計品質が一番厳しくて、一番低い保証品質が全ての製品で確保されるように製造品質の最低ラインに品質検査基準が設けられていて、使用品質が確保される仕組みになっています。

だから、メーカーは保証品質を確保できる(はずな)のです。

このように、品質管理の視線は、工場の門の更にその先にある顧客が評価する品質(知覚品質)までも届かせるものなのです。

わが日本のものづくりに話を戻すと、江戸末期から黒船来訪に始まった世界デビューは、イタリア、中国との絹糸市場競争において、当時日の出の勢いのアメリカ市場での圧倒的勝利からの紆余曲折を経て、現在の地位を築くに至ります。

それは、アメリカ市場向けに太く改良された製糸と富岡製糸場で知られる上州座繰による生産性の向上であると言われています。
問題があるときこそ、初心に戻れとよく言います。

フォルクスワーゲンはともかく、日本のものづくりの原点は、知覚品質までを見据えた生産工程管理にあると言えるのではないでしょうか。

雑誌「致知」に坂村真民のこんな詩がありました。
期待を込めて紹介します。

しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
どこまで書いたら
気がすむか
もう夜が明けるぞ
しっかりしろ
しんみん

(「坂村真民が目指したもの」西澤孝一(坂村真民記念館館長)、横田南嶺(臨済宗円覚寺派管長)による対談【致知】2017.12)

いい詩ですね。自戒を込めて・・・。

 

人生の後半を考える

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

少し前、休日というのに年寄りの常で早起きした朝、NHKのインタビュー番組を何気なく見ていました。
ジャズシンガー織戸智恵さんが出演していて、自分のこれまでを振り返るという内容だったと思います。何気なく眺めていた番組の最後に、60歳になった自分のこれからをお話になった言葉の内容に感動しました。

『(今まで一生懸やってきて、皆さんのおかげここまで登ってこられた)これからは、人生の下り坂をしっかり、ゆっくり降りて行こうと思う。やる気というのは体重計に乗ってもわからない、だから、齢をとってもいくらでも、やる気をもてる。(後から来る人のために)「私を見なさいと」言ってあげたい。そう言えるように頑張りたい』
ジャズシンガーとして、アメリカや日本で活躍する一方で、シングルマザーとして子育て、最近では、お母さんの介護を懸命に、しかも明るくなさっている姿でマスコミに登場したりしていらっしゃいます。

普通、このうちのひとつだけでも大変だろうと思うのですが、自分に与えられた役割を、やり抜いて行こうとする強い意思とやりきった自信、彼女の人生観が見えてきて、爽快感を覚えます。

「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」

私が、高校1年生の体育祭で知った言葉を思い出します。(孟子だそうですが)
北海道小樽市にあるその高校では、体育祭はクラス対抗の「ムシロ旗」作品展がありました。

ムシロ旗と言えば、江戸時代の農民一揆を思い出す方もいると思いますが、我が校のムシロ旗は、8畳分の畳をつなぎ合わせ、カラフルな絵と共にクラスの主張を書き、やぐらを組んで立て、絵もさることながら、その主張で自分たちの心意気を示すのです。

初めての体育祭で上級生のあるクラスが立てたムシロ旗が「千万人と雖も、我往かん」
未来へ向かう私の胸に響く言葉でした。

単身アメリカに渡ってジャズの世界に飛び込んだ織戸さんも「千万人と雖も、我往かん」と希望と不安の人生を踏み出したのでしょう。(私もそのはずでした)
そして、子供を育て、介護を続け、人生の終盤近くになって「ゆっくり下っていく私を見なさい」というと言える人生は、絶対に充実しているものに違いありません。

遥かな夢と強い意思をもって歩み始めた道が、そろそろ終わりを迎えようとするとき、終わり方を考えることはとても大切だと思います。
終わり方はそれまでの人生があってこそなのですが、人生の終わりに臨む自分の姿を考えて進んでいくのも人生です。
社長ならずとも誰しも、せっかく頑張ってきた自分の人生の下り坂を堂々と下る姿見せられるようになりたいものですね。

充実した人生を後に続く人に示すのも、先に歩む人の責任でもあります。

「人を見るにただその半截を見よ」(人生は、後半が大事)は菜根譚の言葉ですが、終わりよければすべてよしとも言いますが、終わり方がとても大事です。
私といえば、志の竜頭蛇尾と言われないためにも、人生の終わりをもう少し先延ばしするしかないかもしれません。残念ながら。

 

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意見の対立を考える

経営者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。
1925年にアメリカで起きた「スコープス裁判」をめぐるお話です。
スコープスとは、アメリカ南部テネシー州にあるデイトンという町の臨時教員「ジョン・トーマス・スコープス」のことです。彼は、何をしたのか。生物の授業で「ヒトの進化」について生徒に教えたのです。
「何が問題なの?」そう思いますよね。彼は、法学部卒業で正式な生物の教師ではなかったから?そもそも、フットボールのコーチのはずなのに・・・、越権行為?
ではなく、進化論を学校教育の場で教えることを禁止するテネシー州法違反に問われたのです。

この裁判は、進化論を是とする人(進化論派)と聖書の書かれた事実「神が自分に似せて人間を造った」が正しいとする人(創造派)との論争の場になり、全米の注目を集め「モンキー裁判」と呼ばれるようになりました。

そう、人間はサルから進化したのか否かが争われたからですね。
神がこの世を造ったことが書かれている創世記は聖書の冒頭にあります。
「神は、6日掛かってこの世を造り、最後の6日目に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう、そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と人を造られた。

そして、全てを造った7日目に神は休まれた。(それで、「日曜日はお休み」なんですね)」([聖書 スタディ版]新教出版 要約)
「この世のすべての生き物を支配する我々人間が「地の獣」サルから進化したなどという誤った考えを子供たちに教えるなんてとんでもない。」創造論者は主張します。
進化論者の主張は、ご存じのように「突然変異によって獲得した、環境に適した形質が受け継がれる」というチャールズ・ダーウィンの自然淘汰説が中心です。
ところが、創造論者は、「キリンの首が高いところの葉っぱを食べるために伸びたのなら、首があの長さになる中間の長さの首を持つキリンがいたはず(中間型の不存在)」とか、「アメーバ―が進化して人間になるなんて、鉄くずが嵐でかき混ぜられて飛行機ができるような話だ(あり得ない)、そもそも、進化の過程など誰も見たことがない(創世記とお互い様)」
裁判の結果は、コープス氏の100ドル罰金で決着したのですが、アメリカにおけるこの論争は続きました。
決着を図ろうとした出来事があります。日時は、残念ながらわからなかったのですが、イリノイ州オーロラ市で行われた、決闘です。

開催中の博覧会場に線路を引き、機関車「進化号」と「非進化号」を正面衝突させ、脱線した方が負けというものです。
神は正しい方を勝たせるはずというわけですね。
果たして結果は、・・・。時速48㎞で衝突した機関車は、両方とも脱線して結論は出ませんでした。(「人生の鱗 第五十話 決闘」武田邦彦ブログ 要約)
これを、なんてくだらないと考えるとただの笑い話ですが、実は、不完全性の定理のお話です。
アメリカで、そんなことが起きている頃オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが証明した定理です。

すっごく難しくて、誤用誤解が多いというこの定理ですが、恐れずに解釈すると「ある理論体系に矛盾がなければ、その体系自身に矛盾がないことを証明できない」ということ(のよう)です。
「我が家の孫の澄香ちゃんは絶対、隣の花子ちゃんよりかわいい(我が家では矛盾はありません)のですが、隣のおじちゃんは絶対花子がかわいい(これも、全く矛盾はありません)と言います。このどちらがかわいい問題は、隣と我が家の間では決着がつきません。
決着をつけるには、評定する向かいの佐藤さんのおじさんにお願いするしかない。」ということに、よく似ています。

お互いが、同じ問題で対立する場合は、両者を統合する上位の観点(メタ概念)が必要ということです。
アメリカの出来事も、創造論と進化論、決着のつかないこの問題を「神」に委ねたわけです。委ねられた、神の方も、迷惑なので両方とも脱線させたのでしょうが、こんなことってあなたの会社でもありませんか。
社内の出の対立やトラブルが膠着状態なんてこと。

無いに越したことはありませんが、そんな時、問題の所在を俯瞰する(メタな)見方で対応することが大事なのです。「企業理念の実践のために、その問題はどんな意味があるのか」とか。
ところで、アメリカのピュー・リサーチ・センターが2015年11月明らかにした調査によると 、アメリカ人の6割が進化論派になったとか。(日経ビジネスON LINE 要約)あのときの神の判断は正しかったのか、そうでなかったのか。

 

後継者の学校では事業承継の本質と

後継者経営の不易の価値について学び

あらゆる学びの実践力の基礎を作ります。

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