カテゴリー別アーカイブ: 人・組織・風土

意見の対立を考える

経営者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。
1925年にアメリカで起きた「スコープス裁判」をめぐるお話です。
スコープスとは、アメリカ南部テネシー州にあるデイトンという町の臨時教員「ジョン・トーマス・スコープス」のことです。彼は、何をしたのか。生物の授業で「ヒトの進化」について生徒に教えたのです。
「何が問題なの?」そう思いますよね。彼は、法学部卒業で正式な生物の教師ではなかったから?そもそも、フットボールのコーチのはずなのに・・・、越権行為?
ではなく、進化論を学校教育の場で教えることを禁止するテネシー州法違反に問われたのです。

この裁判は、進化論を是とする人(進化論派)と聖書の書かれた事実「神が自分に似せて人間を造った」が正しいとする人(創造派)との論争の場になり、全米の注目を集め「モンキー裁判」と呼ばれるようになりました。

そう、人間はサルから進化したのか否かが争われたからですね。
神がこの世を造ったことが書かれている創世記は聖書の冒頭にあります。
「神は、6日掛かってこの世を造り、最後の6日目に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう、そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と人を造られた。

そして、全てを造った7日目に神は休まれた。(それで、「日曜日はお休み」なんですね)」([聖書 スタディ版]新教出版 要約)
「この世のすべての生き物を支配する我々人間が「地の獣」サルから進化したなどという誤った考えを子供たちに教えるなんてとんでもない。」創造論者は主張します。
進化論者の主張は、ご存じのように「突然変異によって獲得した、環境に適した形質が受け継がれる」というチャールズ・ダーウィンの自然淘汰説が中心です。
ところが、創造論者は、「キリンの首が高いところの葉っぱを食べるために伸びたのなら、首があの長さになる中間の長さの首を持つキリンがいたはず(中間型の不存在)」とか、「アメーバ―が進化して人間になるなんて、鉄くずが嵐でかき混ぜられて飛行機ができるような話だ(あり得ない)、そもそも、進化の過程など誰も見たことがない(創世記とお互い様)」
裁判の結果は、コープス氏の100ドル罰金で決着したのですが、アメリカにおけるこの論争は続きました。
決着を図ろうとした出来事があります。日時は、残念ながらわからなかったのですが、イリノイ州オーロラ市で行われた、決闘です。

開催中の博覧会場に線路を引き、機関車「進化号」と「非進化号」を正面衝突させ、脱線した方が負けというものです。
神は正しい方を勝たせるはずというわけですね。
果たして結果は、・・・。時速48㎞で衝突した機関車は、両方とも脱線して結論は出ませんでした。(「人生の鱗 第五十話 決闘」武田邦彦ブログ 要約)
これを、なんてくだらないと考えるとただの笑い話ですが、実は、不完全性の定理のお話です。
アメリカで、そんなことが起きている頃オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが証明した定理です。

すっごく難しくて、誤用誤解が多いというこの定理ですが、恐れずに解釈すると「ある理論体系に矛盾がなければ、その体系自身に矛盾がないことを証明できない」ということ(のよう)です。
「我が家の孫の澄香ちゃんは絶対、隣の花子ちゃんよりかわいい(我が家では矛盾はありません)のですが、隣のおじちゃんは絶対花子がかわいい(これも、全く矛盾はありません)と言います。このどちらがかわいい問題は、隣と我が家の間では決着がつきません。
決着をつけるには、評定する向かいの佐藤さんのおじさんにお願いするしかない。」ということに、よく似ています。

お互いが、同じ問題で対立する場合は、両者を統合する上位の観点(メタ概念)が必要ということです。
アメリカの出来事も、創造論と進化論、決着のつかないこの問題を「神」に委ねたわけです。委ねられた、神の方も、迷惑なので両方とも脱線させたのでしょうが、こんなことってあなたの会社でもありませんか。
社内の出の対立やトラブルが膠着状態なんてこと。

無いに越したことはありませんが、そんな時、問題の所在を俯瞰する(メタな)見方で対応することが大事なのです。「企業理念の実践のために、その問題はどんな意味があるのか」とか。
ところで、アメリカのピュー・リサーチ・センターが2015年11月明らかにした調査によると 、アメリカ人の6割が進化論派になったとか。(日経ビジネスON LINE 要約)あのときの神の判断は正しかったのか、そうでなかったのか。

 

後継者の学校では事業承継の本質と

後継者経営の不易の価値について学び

あらゆる学びの実践力の基礎を作ります。

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歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③ 「独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか」

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。
久しぶりに、投稿させていただきます。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。

ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。

あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。
この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。
地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。
そうすれば、大きな失敗をすることはありません。
徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。
しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。
しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。
今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。
今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。
今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。
家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。
味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

もちろん、この家康の行動には二面性があります。
今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。
一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。
織田信長ですね。
織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。
この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。
そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。
人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。
そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。
隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。
この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。
そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。
チャンスの時に、どのように行動したらいいか。
それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。

時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。
ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校
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運が良い人について考える。

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

渡部昇一さんが亡くなって5カ月が経とうとしています。

渡部昇一さんといえば、保守の論客として有名ですが、我が国の歴史や国際社会における我が国のあり方、教育問題などなど切れ味鋭い論評は、私たちに人生から国際問題まで多くの気づきを与えてくれていました。

渡部さんは努力ということについて度々語っています。

よく話されるのが、アメリカ留学の選に漏れたときのことです。

「着ているものがだらしない」という(貧乏学生だったようなのでみすぼらしい服装だったのでしょうが、理由にもならない)理由から面接で不合格になるのですが、腐らずに勉強したおかげで、後にイギリス、ドイツに留学するチャンスをつかんだのです。もし、アメリカに留学していたら本職の英語の国で英語を学ぶこともなかっただろうし、ドイツ語をマスターすることもなかったと言っています。(「人生の手引書」(扶桑社新書))

また、「よい運というのは仮装してやってくるということです。最初は貧乏とか、逃げ出したくなるような形でやってくる。しかし、私はその貧乏のために、否応なく勉強したおかげで、まったく確率を超えた偶然がしばしば起こり、よい運に恵まれた。」(渡部昇一 「渡部昇一一日一言」出版記念会公演会)とも。

そして、渡部さんの本職?は、英語学者ですが、『英語の「ハッピー」という言葉は、語源をたどると「ハプニング(=出来事)」と同じである。同じく、日本語の「幸せ」はもともと「仕合わせ」、つまり、「事の成り行き」という意味だった。』(「人生の手引書」(扶桑社新書))と言っています。

目の前に起こる出来事に一喜一憂せず、目標に向かって努力する。その結果は、事の成り行きであって、それを受け入れることも重要だということでしょう。

しかし、氏はそこに甘んじるべきではないと言います。欲求の5段解説で知られるマズローを引用して「自分が不平不満を感じているとき、それがそのレベルのものなのかを見る必要があるという。そして、そのレベルが高ければ高いほど、いい傾向だというのである。」(前掲書)と、『「事の成り行き」を受け入れた後は、その原因を内に求め高次の不満を抱いて、さらに努力せよ。』と叱咤してくれます。

陽子崩壊を観測するための実験装置で偶然「ニュートリノ」を発見した小柴昌俊教授や間違え作ってしまったグリセロールとコバルトをもったいないと使って「ソフトレーザー脱離イオン化法」を開発した田中耕一さんを例に「幸運は準備された心に味方する」と、決して「事の成り行きだけではない」と励ましくれます。

我が国はこのところ、毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していますが、小柴さんや田中さんだけでなく、山中さんも、大隅さんも大村さんも・・・(たくさん,いすぎて。嬉しい悲鳴です)努力の人でした。凡人の私への救いでもあります。

済んだことに対してどう評価するのか、何にでも感謝して満足する心も大切ですが、不満を感じるからこそ、人は向上できるのです。

「棚からぼた餅」。思いがけない幸運が舞い込んでくることをいいますが、ぼた餅が棚から落ちてくるときに棚の下にいなければ、他の人がそのぼた餅を手にするところを見て指をくわえることになるだけですね。

棚から落ちてくるぼた餅を手に入れるためには、棚の下にいなくてはならないのです。そして、棚の上には何があるのか、知っている必要があるのです。そこで、ラッキーもそう簡単に手に入れられないと考えるのは、普通の人です。経営者なら、自社とその置かれた環境を理解して、行動を起こせば成果(=幸せ)は手に入れられると考えるのです。

そのうえで、求めた幸せをもたらしてくれるのは、やっぱり「事の成り行き」であることを受け入れる心もまた必要です。

でも、常に自省する心、そして自分を高みへ進めたいという向上心も持ち続けたいものです。

事業を進める過程での戦略や取組みとその結果を受け入れながらも、自省して成長する社長の成長と会社、従業員の成長は相似形です。

職分に徹する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

私の故郷、北海道の「ソメスサドル」という会社をご存じでしょうか。

北海道砂川市に本社、工場を構える馬具、革製品メーカーです。

内外の一流ジョッキーが使う鞍を手がけ、宮内庁に馬具を収めている国内唯一の馬具メーカーです。

そして、鞄やベルトなどの高級革製品を製作するだけではなく、修理まで全て行うという会社で、最近話題になった銀座シックスに出店しているというすごい会社です。と、ここまで書きましたが、私自身、まったく存じ上げませんでした(すみません)、北海道関係者の小さな集まりで社長である染谷昇氏のご講演をお聞きするまでは。

 

私が、あえて実名でご紹介したいと考えたのは、先に述べたようなすごい会社だからではありません。社長のご講演の中で触れられた企業理念にビビット(ずいぶん昔の松田聖子さんみたいですが)来たからです。

 

《企業理念》
道具屋であることを誇りに持ち、社員とその家族が幸せになること。
《行動基準》
お客さまから一流と評価される、ものづくりとサービスを提供する。
北海道企業として、地域の活性化に貢献すること。

 

企業理念や行動基準と言えば、相当に美辞麗句を並べた抽象的なものが多いのですが(大企業では、事業が多岐にわたり、すべてが共有できる理念は抽象的にならざるを得ないという側面があります)、それらが具体的な社員の行動に結びつかなければ、外向けの宣伝文句に終わってしまう危険があるのですが、この企業理念や行動基準は言います。

「俺たちはただの道具屋だけれど、その道具屋であることに誇りを持って仕事をしよう。そして、女房も子供も、爺ちゃん婆ちゃんみんなで幸せになろうよ。そのためには、一流のものを作らなければならないし、修理もお客さんおために一流の技術で対応する準備と努力を惜しまない。そうすれば、わがふるさと北海道が元気になるために役に立てるような会社になれる。だから、頑張ろう」と。

ご講演の中で、皮革加工の職人さんたちの平均年齢は優に70歳を超えているなかで、何と当社のそれは30歳代(社長のご講演では両方正確な数字をおっしゃっていたのですが何せ認知症予備軍の身)だとか、そのような若い人たちが一流ジョッキーや宮内庁御用達の超一流品をつくることができていることが驚きを禁じ得ません。

高校を卒業したての若者が流れ作業ではなく、すべての工程を先輩社員と一緒に携わるそうですが、そのなかで技術が受け継がれて行く上下と、互いに切磋琢磨する水平の人間関係がつくられ、一流の職人が育っていくのだと思います。

 

一方で、染谷社長は毎日すべての社員に挨拶をして回るのだといいます。人と人からできている会社という組織が、まわりの人を含めて幸せを届けるためには、ここの人のみならず、むしろ人と人の間にある何かが生み出す力が必要だとお考えで、その繋がりの入り口であり基本である挨拶を率先垂範されているのだろうと思います。そして、一人ひとりの価値を大事に育てる強い意志が伝わってきます。

「職分」という言葉があります。「その職についている者がしなければならない仕事」「各人がそれぞれの立場で力を尽くしてなすべき務め」(デジタル大辞泉)という意味ですが、

武士、商人、学者、医者そして人の行い全般について、与えられた職分を全うすることで

本来もつ善なる本性に至ることを説いた江戸時代中期の思想家「石田梅岩」は、士農工商の身分制度の中で、それぞれの職分を誇りを持って全うすることを訴えています。

また、そのうえで、こんなことも言っています「或る者は心を労し、或るものは者は力を労すと日うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治るものは人に養わるるは、天下の通義なり」

江戸時代、京都市井の思想が北の大地で花開いています。

すごい会社には、訳があるのですね。

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ワインの香り

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

先日、教育テレビ「サイエンス・ゼロ」で「今宵はワイン夜話 香りのヒミツ大解明!」という番組がありました。

ワインといえば、私のようなおじ(い)さんには少しおしゃれで高級なお酒といったイメージです。でも、ワインのおいしさの大きな要素である「香り」について科学的に分析するということで、「少しは女性に薀蓄を語れるかも・・。」という下心とともに、興味深く見させてもらいました。

番組では、目隠しをし、鼻をつまんでワインをストローで飲んだ、番組MCの南沢奈央さんが、「赤ワインと白ワインの違いが本当に判らない」と驚いていました。

また、ガスクロマトグラフで数十の成分に分解された臭いを順番に南沢さんが嗅いでいましたが、マスカット、チョコレート、乳製品、薬品などと順番に出てくる臭いから感じるイメージをを報告していましたが、嫌な臭いと顔をしかめる場面も何度かありました。ワインの臭いの研究をしている東原和成東大教授によりますと、味覚には甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つですが、臭いは数十万種類もあるそうです。

ワインの香りを造っているにおいの成分も数百種類あるそうで、南沢さんが嗅いだワインの臭い成分も20種類くらいあったようです。

東原教授によれば、「くさい臭いがベースにあることによって、ワインの香りが立体的になり奥深さができて、よりおいしく感じる」とのことでした。

ニュージーランドでは、近年ワインの品質があがっており、その重要な役割を果たしている「サーカロマイセス・セルビアジェ」という酵母の存在が明らかになったそうです。

野生のその酵母はワイナリーのなかには生息しておらず、6キロも離れた花などで発見されたそうです。

酵母は一人で移動できませんから、それを運んできたものを調べたところ、なんとハエらしいとのこと。

ここでも、どちらかというと嫌われ者の「ハエ」の羽が、おいしいワインをくれたキューピットの羽であったことになります。

なんと、私たちの心まで癒してくれるワインの香りやおいしさは「嫌な臭い」や「嫌なハエ」の働きなしに、私たちは享受できなかったのです。

このことから二つの気づきを得ることができました。

一つ目は、私たちが生きる地球という環境の恵みの偉大さと奥深さです。

ワインに象徴されるような、私たちが受け取る恵みは、ブドウの実や木、あるいは太陽や雨といった目に見えるものだけではなく、はるかに大きな自然の仕組みの中でもたらされているということです。

なので、役に立たないからとかいった単純なあるいは表面的なことで、人やことを排除することは自分自身のメリットを排除することになるということです。

もう一つは、私たち自身や社会などについてです。人は、正しいことや思いやりや優しさ、一生懸命など、いい人と評価される面だけではなく、人を妬んだり、怒ったり、時には意地悪くなったりしたりするものです。

特に、経営を考えてみると、社員やその家族に対する愛情や思いやりは、もちろん重要ですが、時には、解雇を言い渡さなければならないようなつらい局面に出会うことも覚悟しなくてはなりません。

人もワインと同じで、いろいろな側面をもっているからこそ、そして嫌な自分を(嫉妬や正義面の両方)自覚しているからこそ、さらに、そのすべての自分を、その必要なときに行動として出していける自信と覚悟があるからこそ、おいしい味が出てくるのではないかということです。

その為には、自然に自分らしく生きていくことを、失敗をして反省を積み重ねていくしかないのかもしれません。

そう簡単に深い味は出せません。ワインだって熟成が必要です。ただし、人は寝かせるだけでは熟成しませんのでお気を付けを・・・。

 

後継者の学校

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経営理念を実践する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

経営理念は、会社の向かう方向や考えを示すために必要なものです。

でも、それをどう実践できなければ意味がありません。

朝礼で毎日唱和する。大きく書いて壁に貼っておく。社員手帳に記載して、いつでも見て、確認できるようにしておく。すべて有効な方法です。

でも、日々の仕事にどう生かしていけばよいのでしょうか。

経営理念は、一人ひとりの社員が、生産や営業の現場で、毎日の仕事のなかで、その理念に基づいて、行動=実践しなければ意味がありません。やる気を出して。

企業理念を実践するといっても、やる気がなければ、壁中に貼っておいても(もちろん。やるなということではありません)、無理ですよね。無視されては。

やる気=モチベーションは、やりがいとか、生きがいとかという物語から生ずるものでした。それは、「何故、その仕事をするのか」とか、「何のために商品を売るのか」ということ問いに対する哲学(的な回答)が求められているのです。

企業理念とは、従業員の「何故」に対する究極の回答なのです。それは、同時に顧客の「何故」にたいする究極の回答でなければなりません。

一人ひとりの従業員のモチベーションが、一致して一つの方向へ向かわなければ、効率的ではありませんし、大きな成果を生むこともできません。

そして、日々の仕事の現場で実践していくことが何より重要ですし、そのことが、顧客満足を生み出すことになる訳です。

私が、顧客の歓びを求めてプレゼンテーションの質を高めるのは、会社の理念「顧客の喜びを追求します」だとします。

私は、顧客が商品を使用する場面の応じた最適な使用方法や、商品の特性を学習して顧客に提供することで、その商品を使う目的が達成されて、顧客の喜びにつながることになります。

経営理念は、良い製品の提供ではなく、顧客の喜びにあるわけです。よい商品を提供することは、目的ではなく、経営理念実現の手段なのです。

しかし、経営理念実現のためには、もちろん良い商品が必要ですから、製造あるいは仕入の現場では、品質をいかに向上させるかが、経営理念実現のために行うべき仕事になります。

調達部門では、良い製品を適正な価格で提供するために原材料、仕入れ商品の安全性や価格についての十分な配慮が求められるでしょうし、輸送についても同様の配慮は求められます。

このように、企業理念実現のために、私が営業の現場で、プレゼンテーションのために行った、商品知識の学習と同じように、会社の各部門で経営理念実現のために求められる具体的取組が、それぞれ決められることになります。

これと同じように、会社の各部門、各グループ、係と、経営理念実現のために「何をすればよいのか」がより具体的に下位の組織に浸透することになります。

つまり、「顧客の喜び」のために会社は「何」(どんな商品)をどうやって顧客に届けるのかが、会社全体として一つの意志を持った行動が生まれることになるわけです。

この「何」と「どうやって」を一人ひとりが現場で実践すると、私が苦手なプレゼンテーションを何とか克服したように、自信ややりがいの正のスパイラルが生まれ、更なるモチベーションのアップと、業績のアップにつながっていくことになるでしょう。(自分の話は、少し控えめに・・・)

具体的に、そのような組織の構造をつくりあげ、実践していくのはそうかんたんなことではありません。

だからこそ、多くの組織や人事管理に関するノウハウ本が読まれているわけです。それらは、ほぼそのすべて正しい主張がなされているとおもいます。(ノウハウ本はあまり好きではないというか、嫌いな部類に入りますので、ほとんど読んだことがありませんが)

しかし、会社をはじめとする組織は、(社会はと言ってもいいかもしれませんが)、人と人の関係で作られています。人生と同じように、ノウハウで解決できることはほんの少しです。難しいから、面白いのです。経営も、人生も。

これらの話は後継者の学校でも。

後継者の学校
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トランプ大統領とブッシュ元大統領

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

トランプ大統領の発言に関連して何度か取り上げさせてもらいました。入国規制の問題や貿易についてなど、発言の内容はそんなにおかしくないのですね。でも、マスコミとの関係は最悪であるようにみえます。トランプ大統領が乱発する「フェイクニュース」という言葉は今年の流行語大賞にノミネートされるのではないかという勢いですね。

たしかに、マスコミと時の政権の間は、だいたい良好であることはないようです。それは仕方のないところです。マスコミは権力の番人といったりしますが、時の権力の動向について、私たち国民に知らせるという重要な役割を果たしています。一方で、第4の権力といったりもします。司法、行政、立法に次ぐ権力という意味で、報道を通じて一般国民を一定の方向に誘導して、民意を背景に大きな権力となっているということですね。

トランプ大統領は行政の長ですから、当然に国民から負託された正当な権力を有していますからそれを行使すること自体は当然である訳です。ただし、法治国家である限り「法律の許す範囲で」ですね。

王権神授説という言葉を世界史で習いました。「王様の権利は神から与えられたものであり、誰も反抗できない。」というものでした。確か、イギリスの革命のときにそれに反抗したのが最初だったのではないかと思い調べてみました。1628年に「議会の承認なしに課税しないこと・法律によらなければ逮捕できない」ということを国民の権利として明確にした(権利の請願(世界史の窓http://www.y-history.net/appendix/wh1001-028.html))とありました。

トランプ大統領も自らのルーツであるヨーロッパの歴史はご存じでしょうから、400年後に王権神授説を持ち出すほど時代錯誤ではないと思います。

権力の正統性はどこから来るのでしょうか?それは権威だと私は思います。王権神授説では、神というキリスト教から与えられたという宗教的権威です。トランプ大統領の場合は、国民の多くが支持し、法律に定める手続きによって選ばれたというアメリカ国民の支持と法律という権威に裏打ちされています。日本の天皇陛下の場合は、2千年も続く歴史と伝統に基づく権威だと思います。それに加え、天皇家が常に国民をともにあったことに対する国民からの支持が常にあったわけです。信長や秀吉、家康も天皇という権威を後ろ盾があったからこそ国を治めることができました。

と考えていくと、結局、民衆の支持が権威の創り出すのであり、権力の根源であることに思い至ります。

そこでブッシュ元大統領に登場願います。アメリカNBCでのインタビューのなかで、トランプ大統領に関連した質問に答えたものです。

「私は、メディアは民主主義にとって不可欠だと考える。私のような人々に説明責任を果たさせていくため、メディアは必要だと思う。権力には時に高い依存性があり、(人々を)むしばむものだ。権力を乱用する者の説明責任をメディアが追及していくことが重要だ。」(米43代大統領ジョージ・W・ブッシュ)

これに対して、トランプ大統領が障害のある記者をばかにするような物まねをしたことを取り上げましたが、この二人の大統領の発言や行動どちらが大統領らしく思えるでしょうか。

大衆の支持には、品位とか品格も必要です。小学校の学級委員をしていたとき「岡部君は無責任だと思います。」といわれ、なぜそのように言われたかわからなかったのですが、その発言にたいする答えを、いまだに探している私ですが、学級委員でさえそうなのです。ましてや、大統領ですから、その地位にふさわしい行動や振る舞い発言を求められるのは当然のことなのではないでしょうか。(時々は、親近感をアピールしてもよいかもしれませんが)

トランプ大統領が、アメリカとしては巨大ではないにしても、オーナー経営者であることが気になります。誰も、意見を言うことができない。すべて一人で決めてしまう。「俺がやらないと誰がやるんだ!」「アメリカを偉大にするにはこの道しかないんだ!」「誰もわかっちゃいない。文句を言うやつはみんな首だ!」(テレビ番組の「ファイヤー!」で人気だったそうですが)

こんな人、近くにいませんか?

 

後継者の学校では無料の入門講座を行っています。

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(最終回)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

なお、今回以降も、また前回以前も、歴史の解釈に関しては全く私の私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

今回は、石田三成の最終回です。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成は、着々と力をつけて堂々と挑戦しました。

 

徳川家康は、豊臣政権が文禄・慶長の役(朝鮮侵攻)で大名たちや領民たちを疲弊させていること、豊臣政権だけが富むような施策に対して、世間の見る目が厳しくなっていることを、政権の重臣として肌で感じていて、秀吉亡き後は自分が政権を取った方が豊臣政権よりも世の中をよくできる、と思っていました。

 

そういう意味では、あくまで豊臣政権への忠誠心だけで行動していた石田三成よりは、家康の方がはるかに視野が広かったと思われますし、その考え方を支持する大名が多かったのは事実です。

 

ただし、たとえ人心を失うような政治をしていたとしても、権力を握っていたのは豊臣家であり、豊臣家に対して忠誠心を持っている大名は多かったこと、またそのような家康の動きに反感を抱いている大名もいました。

 

三成が挙兵していたという報を聞いて、宇都宮まで進んでいた徳川家康はいったん江戸に引き返します。ともに従軍した武将たちは、ほとんど全て家康側(東軍)につくことを誓いました。

一方、三成に味方して豊臣側についた武将たちは、「西軍」と呼ばれます。西軍は石田三成がとりまとめ役でしたが、表には出ないようにとの島左近のアドバイスを受け入れて、毛利輝元に総大将を依頼しました。

 

江戸にいる家康、大坂にいる三成、それぞれ味方を一人でも多くすべく、各地の大名に書状を送ります。

 

名目上の主君は豊臣であるものの、トップに力量があるのは徳川であるため、各地の大名の判断は複雑になります。

表向きは西軍についたものの、裏では家康に使者を送って忠誠を誓っているようなケースがかなり多かったようです。

このそれぞれの大名の思惑が、関ヶ原の戦いをより複雑なものにしました。

 

戦いのための準備を一通り終えて、徳川家康は西へと向かいます。

 

家康西上の報を受けて、石田三成も大垣城に入りますが、前に申し上げたとおり徳川家康は城攻めを苦手としていたので、三成の佐和山城へ向かうふりをして誘い出そうとします。

一方、三成も野外で堂々と決戦して勝つ自信があったため、大垣城を出て関ヶ原で待ち構えます。

 

こうして、さほど広くはない関ヶ原に、東軍約7万5千人、西軍約11万人もの兵士が布陣しました。

 

意外と三成が頑張ったどころか、むしろ西軍の方が多いではないか!と思われる方も、もしかするといらっしゃるかもしれません。

 

明治時代にドイツから招聘された、戦略戦術に長けた参謀将校であるクレメンス・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て即座に「西軍の勝ち」と断定したという話が知られています(これは創作という説もありますが)。

 

しかしながら、先ほども触れたとおり関ヶ原の戦いは極めて「政治的」な戦いであり、東軍のほとんどは徳川家康に忠誠を誓っていたのに対して、西軍で石田三成の指揮のもとに動いたのは3万人もいないような状況でした。

あとは、「日和見」をしていたのです。どちらかが勝ちそうになったら、そちらに味方しようと。

実質的には、東軍7万5千人対西軍3万人ですから、やはり東軍の方が優勢だったわけですね。

 

様々な思惑が交差する中、いよいよ関ヶ原の戦いの幕が上がります。

 

東軍の先鋒の武将たち、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、みな「三成憎し」で家康に味方した者たちでした。争って、自分こそ憎き三成の首を上げてやろうと、石田三成隊へ殺到します。

 

石田三成隊の総大将は、当然のこと、島左近です。

 

この日の島左近の戦いぶりは、のちのちまで語り継がれるほど激しいものでした。

乱戦の中央に、鬼神のごとく馬上で仁王立ちとなり

「かかれえーっ、かかれえーっ」

戦場で鍛えた、低く鋭く響き渡る塩辛声で叱咤する声に応えるように、三成の兵士たちは攻めてきた東軍を苦もなく蹴散らします。

この一戦にかける三成の意気込みで一つになった士卒たちの形相をみて、東軍の武将である田中吉政は怖気をふるいます。

「こいつら、死ぬ覚悟で戦っている」と。

 

細川忠興は、戦いから10年たっても、この島左近の突撃の夢にうなされたと述懐しています。

 

石田三成を「ソロバンしかできない、腰抜け侍」と普段から罵っていた福島正則や黒田長政も、島左近の猛烈な突撃に防戦一方となります。

 

東軍に不利となってきた戦況を見つめる徳川家康の顔に、次第に焦りの色が見え始めます。つい、癖となっている指の爪を噛む仕草が激しくなります。

圧勝するどころの話ではない。目の前で東軍が敗北しつつある。周りで日和見している武将たちが、心変わりするかもしれない。

一人の武将が寝返ると、周りの武将たちも雪崩を打ったように西軍へ味方するのは目に見えています。そうなれば、さしもの徳川軍も敗亡せざるを得ない。

 

今川義元、織田信長、豊臣秀吉に仕え、若い頃からこき使われてきた苦労にじっと耐えてきた己の人生。

苦労も知らない、豊臣の小憎らしい若造に、自分と家臣たちが営々と積み上げてきたものをひっくり返されてなるものか。

 

徳川家康は、臆病なほど慎重なことで有名でしたが、生きるか死ぬかの土壇場になると人変わりがしたように大胆になります。この相反する二面性が、もしかすると家康に天下を取らせたのかもしれません。

 

部下を呼び、家康は命じます。

 

「松尾山に鉄砲を撃て」

 

部下は耳を疑います。松尾山には、東軍への裏切りを約した小早川秀秋1万5千人が布陣しています。もしも、鉄砲を撃って怒らせでもしたら、西軍に寝返られ、東軍は敗亡しないとも限りません。

 

「いいから行け!金吾(小早川秀秋のこと)につるべ打ちで撃ってやれ!何をぼやぼやしているのだと」

 

徳川家康の陣から撃ちまくられた小早川秀秋は、その気迫に震え上がり、松尾山から西軍へと攻め下ります。松尾山から一番近くに布陣していたのは、大谷吉継でした。反撃もあえなく吉継は戦死して、島左近も鉄砲で撃たれて屍をさらし、西軍は敗北しました。

 

石田三成は戦場から落ち延びますが、山中で捕縛されて京都で打ち首にされます。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康に上杉景勝と直江兼続は降伏し、はるか北国へと押し込められることになります。

 

3年後に徳川家康は征夷大将軍に就任して、江戸に徳川幕府を開くことになるのは、ご存じの通りです。

 

石田三成は徳川家康に敵対したために、江戸時代は散々な汚名を着せられます。

 

しかし、多くの大名が強い徳川家康になびく中、豊臣を守ろうと立ち上がった石田三成の勇気と忠誠心は、江戸時代であっても心ある人々、例えば水戸光圀などには賞賛されていました。

強大な家康に徒手空拳で立ち向かった三成の勇気を思えば、汚名ぐらいはむしろ名誉なことかもしれません。どうでもいい敵ならば、憎まれることはないからです。

 

何よりも、石田三成が自ら証明したように、普段から必要な努力を惜しまなければ、たとえ圧倒的な敵を相手にしても対等に戦えるところまで持っていくことができること、これは私たちに大きな勇気とヒントを与えてくれますね。

 

一時的な人の評判やその時の気分に流されず、長い目で見て自分にとって必要な努力を営々と続けること、自分がしなければならないことをたとえ嫌われてもやり続けること、そうすることによって人からの本当の信頼を得ることができるということを、石田三成の生涯は教えてくれるように思います。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(4)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密は、紹介した歌にあるように、三成が大きな代償を払って重臣を招いたこと、また身分不相応なほどの大きな城を築いたことで、三成が大名として飛躍的に力をつけたことにあると前回まで申し上げました。

 

初回で申し上げたとおり、石田三成は「へいくゎい者」(横柄者)と呼ばれていたように、無愛想で冷たい、とりつく島もない官僚のような印象を相手に与えていました。そのおかげで、豊臣政権の中では人気がなかったと言われています。

 

しかし、三成が豊臣政権の中でそのような態度を取らざるを得なかったのは、それなりの事情があります。

 

豊臣政権は、秀吉が子飼いの部下の中から取り立てたり、あるいは大きな利益を餌にして味方につけたりした武将が大名の多くを占めていました。野心と勢いはあるが、統制が取れていないのです。大坂城内で平気で泥酔して暴れたり、口論がエスカレートして取っ組み合いの喧嘩になったり、あるいは戦いで周りの動きなど一切構わずに、自分の手柄をたてようと抜け駆けしたおかげで、他の武将が危機に陥ったりするなど、様々なトラブルを起こす武将が多かったようです。

 

そのような中で、武将たちに対してしっかりとしたまともな統制を取ろうとすると、それをする人間は自然と嫌われ者になるのは、世の習いですね。その嫌われ役を、政権のトップである秀吉は当然やりませんので、そういう汚れ仕事は、部下に回ってくるのは時代を問いません。

 

石田三成は、豊臣政権の中での自分のすべきことを理解して、几帳面なほどにそれを実行しただけなんですね。ただし、秀吉が存命のあいだは、三成は自らの職務だけ考えていれば十分でしたが、後継者が育っていなかった秀吉亡き後の豊臣政権にあっては、もう少し政治的な動きが求められていたのです。その変化に適応するだけの力が三成には不足していたのに対して、経験豊富でスタッフも充実していた家康はうまく対応することができました。どのような違いがそこにあったのか、それはまた稿を改めて申し上げたいと思います。

 

そのように、石田三成が自らの職務に忠実であるほど、特に「武断派」と呼ばれる武闘派の武将(普通の会社で言うと、「現場」ですね)からは嫌われましたが、一方でストイックなほどに自らを高め、嫌われることもいとわずに自分の職務に邁進する三成に惚れ込む人たちもいたのです。

 

前々回で紹介した島左近もその一人であり、また武将として活躍した舞兵庫などもそうですが、一般的に世に知られているのは豊臣政権を同じ官僚として支えた大谷吉継と、上杉景勝の右腕であった直江兼続の二人でしょうか。

 

大谷吉継は、石田三成と同様に、少年の頃に秀吉に見込まれて取り立てられ、秀吉をして「大軍を紀之介(吉継の幼名)の采配に任せてみたい」と言わしめるほどの器量がありました。三成とは肝胆相照らす仲であり、無二の親友と言ってもいい間柄だったのです。

 

二人の間柄を示すエピソードを紹介したいと思います。

 

後年、大谷吉継は重病(ハンセン氏病と言われています)を患い、顔を布で隠していました。ある日、茶会に呼ばれましたが、吉継はお茶を飲んだときにうっかりと膿を茶碗の中に落としてしまいます。当然、参加者はお茶を飲むふりをして茶碗に口をつけませんでしたが、三成は膿ごとそのお茶を飲み干して、さらにお代わりを所望したと伝えられています。それを見ていた吉継がどう思ったか、申し上げるまでもないかと思います。

 

一方、直江兼続と三成の強い絆も有名です。直江兼続は、ご存じの通り義を重んじる上杉家の重臣ですが、自身も義理堅く剛毅な人柄で知られていました。

あるときに、秀吉の居城であった伏見城内で、仙台の伊達政宗が金の小判を、「皆見たことがないだろう」と半分自慢げに出席者に見せていたところ、兼続は小判を扇子の上に載せて受け取りました。政宗は兼続が遠慮しているのだろうと、「手に取って見よ」と言ったところ、「小判など、武士の手の汚れになるわ」と扇子で投げて返したそうです。

兼続の誇り高さ、気の強さが推し量れるエピソードですね。

 

直江兼続が上杉家と上杉景勝を強く想う心、そして石田三成が豊臣家と豊臣秀吉に抱く熱い忠誠心、似た者同士が一晩明かしてお互いの主君について語り合った夜もあったのではないでしょうか。

 

石田三成、大谷吉継、直江兼続は、三人ともそれぞれ秀吉亡き後の豊臣政権について憂慮していましたが、思いも空しく秀吉は病死してしまいます。

 

豊臣秀吉の死後、三人が懸念していたとおり、秀吉の遺言に反して徳川家康が大名との婚姻政策を進めたため、石田三成が奉行としてその行為を弾劾します。しかし、三成は家康党である加藤清正や福島正則から命を狙われて、家康の仲介で和解する代わりに豊臣政権からの引退を強制されることとなります。

 

石田三成という弾劾者がいなくなったことで、徳川家康の行動を縛る者は中央にいなくなりました。暗に反家康党とみられていた会津の上杉家が、家康に近い家臣を追放したり、国境の城を修築したりしていることについて家康がとがめたところ、「直江状」と呼ばれる直江兼続からの反論が来たことを受けて、徳川家康は会津を征伐することを決意します。

 

福島正則、黒田長政、細川忠興など家康党と呼ばれる秀吉の家臣を率いて、徳川家康は会津を目指して東へ下りますが、その隙をついて石田三成は家康討伐のために関西で挙兵します。

 

実は、「直江状」による家康への挑発は石田三成と直江兼続との密謀だったと伝えられています。その確証はないとも言われていますが。

そして、実は三成の挙兵も徳川家康の目論見通りであり、石田三成側についた軍勢を、豊臣政権の家康党の武将とともに打ち破ることで、徳川政権を強引に成立させてしまおうというシナリオだったとも言われています。

 

徳川家康とも意思疎通のあった大谷吉継は、強大な家康には到底三成の勝ち目がないとみて挙兵をとどまるように説得しますが、最終的には三成の熱意に押し切られて、三成と志をともにすることを決意します。

 

こうして、石田三成は徳川家康との戦端を開くことになったのです。

しかし、決して三成は独りで立ち上がったわけではなく、有力な協力者がいたわけですね。大きい志を持って、孤独であってもぶれずにすべき努力をし続けていれば、必ずそれを見てくれる人はいるのです。もしも三成がその場の状況に左右されているだけの人間であれば、そもそも家康への挑戦すらできなかったことでしょう。

 

徳川家康への石田三成の挑戦がどのような結末を迎えたか、次回は最終回です。

 

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入国禁止措置と企業のあり方

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

トランプ大統領が就任してひと月がたとうとしています。矢継ぎ早に発布していた大統領令もこの頃は少し落ち着いてきたようです。今回は、前回予告した通り1月27日に出された中東・アフリカ7か国から市民入国を禁止する大統領令について考えてみます。

大統領令で指定された7か国は、イラク、シリア、イラン、スーダン、リビア、ソマリア、イエメンで、テロ支援国家、内戦状態・政情不安が続いていることが理由として挙げられたようです。

この大統領令が発布されると正規なビザを持っている人々までも入国できずに、アメリカのみならず各国の空港で大きな混乱が引き起こされました。

大統領令に異議を唱えた司法省のトップはその日のうちに解任されたりして、さすがアメリカとびっくりするやら、納得するやら、トランプ政権の船出は、ある意味ダイナミック(ハチャメチャにも見えますが)なものです。(あくまで、現在進行形なので)

その後、というより発布直後から、この大統領令に対する批判は、アメリカ政界の与野党問わず、法曹界からも批判続出で、ワシントン州の連邦地裁が効力の停止の決定をし、政権側が控訴する騒ぎとなりましたが、結局、大統領令の差し止めが決定しました。

政権側は、控訴をあきらめ、新たな入国管理措置を講ずることとなり、この大統領令による混乱は、当面回避されることになりそうです。

この大統領令は、シリアからの難民は無期限停止としているものの、他の国からの難民の受け入れは90日あるいは120日間停止することと、生体認証による出入国管理システムの整備を進めるなどの内容であり、まったく正しいとは言わないまでも、全くダメという内容でもないのです。

そもそも、自分の国に誰(何)を入れて、誰(何)を入れないかは、まったく100%その国の判断によることになっています。私たちが、アメリカに行くとき(短期)に入国のための査証(ビザ)が不要なのは、アメリカ人が日本に来るときに同じ扱いになっているからです(うちの国の人を受け入れてくれるなら、同じ条件であなたの国からの人も受け入れますよ)。これを互恵協定といいますが、今回の大統領令にも、互いの協定が本当に互恵関係になっているかを再検討するとなっています。

政権側は、大統領令は「合法で適切」であり、「大統領令は国土を守るためのもので、大統領には米国民を守る憲法上の権限と責任がある」(http://www.bbc.com/japanese/38866319)と表明しています。

注目すべきは、この大統領令については、調査の時期や機関によっても違いがありますが、ほぼ50%の人が支持しているという事実です。これは、移民に対するこの原則は十分に説得力と実行力を持っているということを示しています。

一方で、雇用問題では概ね協力姿勢だったアマゾンなどの大企業が、「アップルは移民なしに成り立たない」(ティム・クック)、「移民がこの会社とこの国、そして世界にもたらすポジティブな力を目の当たりにしてきた」(インテルCEOサティア・ナデラ)など、一斉に反発しています。

企業が大規模化しグローバル化し、従業員の国籍も多様化していく中で、一つの統一したシステムとして機能していくためには、同じ価値観のもとに糾合する文化と価値観が必要とされていることを強く意識させるものでした。

翻って、わが日本は、難民の受け入れ人数の累計(平成18~27年)が、284人であり(法務省統計)、今回の大統領令による今年度受入数を5万人まで(11万人から半減)とは比べ物になりませんが(こと難民移管する限り、大統領令より何百倍も自国民の安全を守っていることになります)、企業の現状では、国際的な展開をしている企業だけではなく、国内にとどまっている企業についても、外国人労働者の問題は(欧米の難民問題は、労働力不足を補うことから始まっていることをみても)避けて通ることはできない問題ではないでしょうか。

ドラッカーは、日本の明治以降の発展を「近代国産業国家という新しい目的のために、日本独自の共同体伝統および人間の価値観をはたらかせた事実こそ、なぜ日本が成功したかを示している」(ドラッカー全集5「伝統的経営仮説の終焉」ダイヤモンド社)と言っています。

国際間の距離が、物理的にも、技術的にも縮まり、地域の伝統や価値観が日々、直接接触する世の中で、それらを融合する役割を否が応でも担わなければならない時代になっているように思えます。宗教的にも寛容な日本の役割が求められているのではないでしょうか。

 

このように移民や外国人労働者という観点から

「文化違いを受入れ、発展させる」ことは

事業承継にもつながることではないでしょうか。

 

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