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日本の首都を作った徳川家康(後編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑩

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。9回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

9回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったこと、という前回からの続きです。家康が感じた、関東への移動のメリットとはなにか、です。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

北条氏を降し、東北の大名も支配下に置いて、文字通り天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、政権の礎を盤石にするべく、東海・甲信地方の大勢力であった徳川家康に関東への移動を命じます。実力者である家康を、箱根の向こうへ封じ込めるのが狙いでした。

しかし、徳川家康はそれを受けて、1月足らずの間に電光石火ともいえる尋常でない早さで移動を完了してしまいます。

しかも、北条氏のいた小田原城ではなく、掘っ立て小屋のような江戸城へと入りました。

 

実は、徳川家康は北条氏を攻める前に、予め関東地方を詳しく調査して、移動を命じられた場合はむしろメリットの方が大きいと判断していたのです。

 

家康が考えたメリットは以下の通りです。

・既に天下は定まって敵のいない今、防衛のために荒れ地となっていた江戸を開発すれば国力が飛躍的に高くなる。

・河川が多いということは、陸上輸送よりも水上輸送が主であった時代においては、物流網を構築しやすい。

・北条氏が治めていた地を引き継ぐのは、前回書いたようなデメリットはもちろんあるが、法制度が統一されていたためむしろ統治はしやすい。

・先祖代々治めていた地から引き離されることは、不便もあるが、昔のしがらみを断ち切って新しい制度を作ることができるし、家康の求心力はむしろ高まる。

・豊臣政権に臣従した以上、秀吉の下ではどのような取り扱いを受けることも覚悟していた。

 

江戸は、利根川、荒川、多摩川という大河川が東京湾に注ぐその河口に位置しているため、前回も申し上げましたが、大雨が降るとすぐに氾濫するような湿地帯でした。北条氏は、小田原城の防衛のために、江戸城の周りをあえて湿地帯のままで放置していたため、寒村があるだけの寂れた土地であったのです。

 

しかし、豊臣による天下統一がなされた今となっては、湿地帯のまま放置しておく必要はありません。治水事業で氾濫を防止すれば、広大な平野は利用しがいのある領地に化けます。

また、河川が多いというのは、徒歩や馬しか陸上の移動手段がなく、舟による水運が主体であった当時としては、交通の便がいいというメリットがありました。現に、秀吉が作った大坂も河川の多い地で、舟運により商業都市として大きな発展を遂げています。

つまり、デメリットは視点を変えれば、あるいはうまく生かせば大きなメリットに変わりうるのです。

 

また、関八州は領民に対して善政を敷いていた北条の支配のもとで、統一された制度が浸透していました。

それまでの家康の領地は、出身の三河国、その次に増やした遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国と、全てそれぞれ統治の制度が違っていたため、代官(知事)もそれぞれ置く必要があり、余計なコストがかかっていたという事情がありました。

ところが、関八州は代官が一人ですむのです。これは大きなコストカットになりました。

 

そして、三河国にしろ他の国にしろ、もともと住み着いていた豪族たちを家臣にしたわけですから、家康としてはそこに遠慮もあったわけです。

しかし、まるごと全員移転してしまうと、家康も白紙の出発となりますが、家臣たちも同じです。過去のいろいろなしがらみがなくなって、改めて主従関係がゼロから出発するわけですから、家康の権威はより強くなるというわけです。

また、昔から続いていた不合理なしきたりや制度も、この移転で全て白紙にすることができました。

 

秀吉からは、箱根の向こうに追いやられて、監視役をいっぱいつけられたわけですが、もともと豊臣政権に臣従した時点で、家康はこのような取り扱いを受けることは覚悟していました。

むしろ、自分から積極的に秀吉の意向に従ってやろう、というくらいの気構えをもっていました。

本当は主人以上に有能な人間が、反抗するどころか主人の半分嫌がらせみたいな扱いにも黙々と従う姿を見ると、主にとっては反抗されるよりも不気味な存在になります。いわゆる「器が大きい」存在ですね。

このような家康の姿勢は、豊臣政権においてその存在感をいっそう際立たせる効果がありました。

 

家康は関東に移ると、ただちに伊奈忠次に命じて河川を改修し、新田開発と検地を行います。河川の改修は、やがて規模が大きくなり、ついには利根川を移動させる大事業に結実します。江戸時代以前は、江戸湾に注いでいた利根川は、この事業によって千葉の銚子を河口として太平洋へ注ぐようになります。

 

家康が命じた大改造によって、寒村だった江戸は、1609年頃には15万人の都市へと発展します。

江戸幕府が家康によって開かれた後は、天下の首府として大発展を遂げ、江戸時代の中頃には100万人のメガポリスに変貌したのでした。

 

徳川家康は、統治制度も全て一から見直して合理的なものに変更し、東の果てに置かれたおかげで朝鮮の役への参加も免れ、着々と天下を取るための力を蓄えます。

 

秀吉が老衰で亡くなった時点では、家康の存在感と実力は他の大名よりも抜きん出たものになっていました。

 

ある事業が有利か不利か、それは現時点ではなく将来の可能性も合わせて考えてみると、デメリットと思っていたことが実はメリットになることもあり得ます。

SWOT分析などで事業の可能性を考える時は、環境や前提を自分で変えられるかどうか、も合わせて考えてみると、答えが全く逆になることもあるでしょう。

 

徳川家康は、秀吉の密かな目論見を全てひっくり返すことで、より大きな飛躍を遂げることができました。

そしてその飛躍は、現代においても「東京」という形で日本人に大きな恩恵を与えているわけです。

器の大きい人がすることは、多くの人に計り知れない影響を与えるということです。

 

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日本の首都を作った徳川家康(前編)|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑨

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。8回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

8回目は、日本の首都である東京の礎を築いたのは、実は徳川家康であったこと、そしてそこには家康の大英断があったことを申し上げたいと思います。

 

後継者の皆様

 

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日本の首都である東京は、世界的にもたぐいまれな街です。2017年の「世界の総合都市ランキング」でも、ロンドン、ニューヨークに次いで3位に入りました。首都圏(ほぼ関東地方)の人口は3600万人であり、日本の人口の3分の1が集まっています。

 

しかしながら、東京の中心部は、400年あまり前はほとんど人の住んでいない湿地帯だったのです。大きな河川の河口が集中しているため、大雨が降るとすぐに氾濫してしまい、まともな農業も営めないような地域でした。

 

しかし、そんな誰も省みないような土地に大きなポテンシャルを見いだして、今の東京に至るような開発を始めたのは、何を隠そう徳川家康だったのです。

 

 

織田信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りによって没した後、その後を乗っ取りに近いやり方で承継した秀吉が柴田勝家との戦いに勝利して、天下の事業は豊臣(当時は羽柴)秀吉が進めることとなります。徳川家康は、豊臣秀吉と当初は対立して「小牧・長久手の戦い」で勝利しますが、最終的には秀吉に臣従して、秀吉の天下統一事業に協力することとなりました。

 

その総仕上げである「小田原征伐」(関東地方を制圧していた北条氏を攻め滅ぼした戦い)に徳川家康も従軍し、いよいよ北条氏の本拠地である小田原城も落城目前となったある日のことでした。

 

小田原城を見下ろせる丘へ、秀吉が家康を散歩に誘いました。

はるかに関東平野が遠望できる丘の上に立ち、風景を眺めながら(一説には、立ち小便しながら、ともいいます)秀吉は家康に話しかけます。

 

「徳川殿、このたびは格別のおん働き、まことにご苦労でござった」

「いえいえ、滅相もござらぬ。全ては上様のご威光でございましょう」

「ここから見ると、関東は広いのう。どこまでいっても真っ平らだのう」

 

ひとしきり雑談を交わした後で、秀吉は家康に申し渡します。

「この関八州、貴殿に差し上げる。いかがかな、徳川殿」

驚く家康に、秀吉は間髪入れず念を押します。

「その代わり、これまでの領地は召し上げる。よろしいな?」

 

こうして、徳川家康は先祖代々受け継いだ三河の地から、関東に移ることとなりました。

 

領土は、これまでの5カ国150万石から250万石と、価値は飛躍的に上がったわけです。1石は、成人一人を養える米の量を表すので、一気に250万人まで養うことのできる領土を得たということになります。

 

しかしながら、この移封にはメリット、デメリットそれぞれあり、秀吉としては下記のデメリットで家康の力を落とそうとした密かな狙いがありました。

 

・先祖代々からの土地から移すことで、領民との良好な関係を切り離す

・年貢(税金)が安く領民との関係がよかった北条氏の領土に移すことで、家康の統治をさせにくくする

・秀吉が家康に「与えた」土地に住まわせることで、家康との主従関係をはっきりさせる

・江戸は、その石高とは裏腹に洪水が多く人が住みにくい土地である

・家康を箱根の向こうへ追いやり、東海道沿いに豊臣秀吉の恩顧が深い大名を配置して、家康を関東に「封じ込め」る

 

先祖が自ら切り開いた土地を受け継いでいる大名は、その地において特別な存在となります。例えば、薩摩(鹿児島)の島津氏は、鎌倉時代から続く名門であり、家臣や領民から神のように崇められていました。豊臣政権においては、もちろん島津氏は政権に臣従しているものの、秀吉から土地を与えられたわけではないので、秀吉に取り立てられた大名とはその存在感や秀吉への忠誠心が全く異なります。

そして、代々住んでいるわけですから、住み慣れていて愛着もある、ということもあります。慣れない土地は行くのは、誰でも不安ですし、不便なものです。

例えば、織田信長の三男である織田信雄は、小田原征伐の後で尾張(愛知県西部)から徳川家の三河(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)へと国替えになりましたが、先祖代々の尾張を離れるのを嫌がって断ったため、秀吉の怒りをかって領土を全て没収されてしまいました。

 

まして、当時家康が本拠地としていた駿河国(静岡県東部)の駿府城(静岡市)は、家康が幼少期に人質として過ごした地です。ここに支配主として凱旋したわけですから、格別の思いがあったはず。現に、織田信長から武田攻めの軍功として駿河国を譲られた後、すぐに駿府城へ本拠地を移しています。並々ならぬ思い入れがあったと思うのです。

 

また、関東を代々治めていた北条氏(鎌倉時代の北条氏とは血縁がないため「後北条氏」とも呼ばれる)は、年貢率が低く、善政を敷いていたため領民からの評判もよかったことも、家康にとっては不利になります。

北条氏は、小田原の防衛のために、あえて江戸のあたりの洪水を放置していたというのもあります。越後国(新潟県)や常陸国(茨城県)から攻め下ってくる上杉謙信や佐竹義重は、江戸の湿地帯を避けなくてはならないため、小田原城へ攻め寄せることを躊躇せざるを得ませんでした。

従って、実質的には250万石の価値はなかったと思われます。

 

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した後、尾張国に子飼いの家臣である福島正則を置くなど、東海道の各地に忠誠心の高い部下を配置して、家康を完全に封じ込めます。

 

以上のデメリットをみて、皆さんはどう思いますか?関東へ移るか移らないか、例えばSWOT分析などすると、移らない方がいい、というのが正解になりそうですよね。

 

ところがです。

 

徳川家康は秀吉からその命令を受けた後、織田信雄のように渋るどころか、1ヶ月足らずで駿府城から江戸城へ移動を完了してしまいます。単なる個人の引越ではなく、今で言うと本社が移転するようなものですから、上も下も大騒ぎのはず。秀吉も驚くほどの早さで、家康は移転を決行します。

 

もちろん、そこには家康ならではの考えがありました。

この続きは、次回に続きます。

 

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優れたヘッドハンターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑧

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

7回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

7回目は、前々回のファシリテーターとしての手腕に続き、ヘッドハンティングとしても優れた徳川家康の力量を見て見ます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取ったということを、第5回目のファシリテーターとしての徳川家康の回で申し上げました。第5回では、家康の人材育成力に焦点を当てましたが、実は外部からも人材を積極的にスカウトしました。織田信長や豊臣秀吉に比べると、地味であり目立たなかったのですが、これは三人の事情が違ったからです。

織田信長と、信長に仕えていた秀吉は、織田家の領土拡大が急速であったために、人材がいくらあっても足りない状況でした。いわば、急速に拡大する事業や会社で、人材不足が常態となっているようなものです。

従って、二人は必要に駆られて、人材を血眼になって常に探し求めていたわけです。

二人に比べると、初期の家康は着実な領土拡大をしていたため、育成重視でも間に合いました。しかし、家康も何度か、飛躍的に領土を拡大するチャンスに恵まれました。

一度目は、武田信玄と示し合わせて今川氏真を攻めたときです。このときに、遠江国(愛知県西部)を得ました。このときには、今川家から離反した遠江国の豪族たちを家臣としてスカウトしました。

二度目は、武田家の滅亡と本能寺の変の直後に、空白となった甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を手に入れたときです。いわゆる、「天正壬午の乱」の時ですね。

このとき、徳川家康には強い思いがあって、長い間敵として戦った旧武田家の家臣たちを争うようにスカウトしました。

生前の織田信長は、家臣たちも含めて武田家を徹底的に滅ぼす政策をとりましたが、家康は優れた人材の宝庫と見て、武将と兵士たちを大量に召し抱えました。

武田の旧臣たちは、家康の四天王と呼ばれる家臣の一人である井伊直政に帰属して、装備も赤で統一され、「赤備え」と呼ばれるようになりました。武田家で最も勇猛とうたわれた山県昌景の軍勢が赤で統一していたのを、真似したのです。

井伊直政も、徳川軍団の切り込み隊長として、その勇名を天下にとどろかせることとなります。

また、家康の武田好きはこれにとどまらず、軍法まで全て徳川式から武田式に統一するまでに至りました。会社で言えば、営業手法であるとか、内部の規程などを全て買収した会社に合わせるようなものです。普通は、合併された会社が合併した方に合わせますが、家康は逆に武田に合わせたのです。

優れた軍法を採用することで、徳川軍の戦力をアップさせるというもくろみもありましたが、それ以上にスカウトした武田の旧臣たちが、存分に力を発揮できるように計らったということも理由の一つでした。

家康は、ヘッドハンティングにおいて、スカウトした人にむしろ組織を合わせるという、普通とは逆の発想をしたわけですね。

この逆転の発想により、徳川軍はさらに強くなって、強大な豊臣秀吉の軍勢と互角に戦い、最終的には秀吉の譲歩を引き出すことに成功しました。

家康のヘッドハンティングは、信長や秀吉のように派手ではありませんでしたが、スカウトした人を有効に活用するという点では、二人よりも優れていたと言えるでしょう。

人材の発掘、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

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武田勝頼に見る統治基盤の大事さと恐ろしさ|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑦

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

6回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

6回目は、武田信玄亡き後、信玄の事業を継いで織田信長や徳川家康と戦って滅亡した武田勝頼の敗因を分析して、当時も今も後継者が存分に力を発揮するためには、「統治基盤」が大事であることをお伝えしたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

徳川家康は、第4回目で申し上げたとおり、織田信長と協力して武田信玄と戦って敗れました。しかし、信玄はその後まもなく病気でこの世を去り、武田軍も甲府へと撤収します。

その後を継いだのは、信玄の四男である武田勝頼でした。

武田勝頼は、これまでの一般的な評価としては、戦闘能力には長けているものの、武田家をまとめる力はなく、親類や家臣たちに背かれて武田家を滅亡させた張本人とされてきました。

しかしながら、実は大名として優れた資質の持ち主であり、信玄の事業を継いだ当初は信長や家康との戦いに勝ってさらに領土を拡大し、信長や家康は「極めて優れた後継者である」と警戒していたことが、記録の丹念な読み込みによって最近明らかにされてきました。

しかし、それもそのはずです。人材を見極めることについては人後に落ちない信玄が後継者に抜擢したのですから、優れていないわけがないのです。

実は、武田勝頼の時に、武田家の領土は最大になるのです。

しかしながら、長篠の戦いで有力な家臣を一気に失った後、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いで次第に押されていき、ついにはあっけない最期を迎えることになります。

織田信長は、勝頼の滅亡後、「優れた武将であったけれども、不運であった」と評したそうです。

「不運」とは、どういうことでしょうか。

 

皆さんは、「統治基盤」という言葉をご存じでしょうか。
英語では、「governance(ガバナンス)」と言います。
権力を振るうための拠って立つ基盤、ということになりますでしょうか。
要は、「部下はなぜその上司の命令に従うのか」ということです。

統治基盤、いわゆるガバナンスというのは、実は極めて複雑でして、時代、状況、人間関係、その他様々な要因で決まってくるのです。
株式会社で言えば、これは極めてシンプルでして、株式を最も多く保有している株主の支配力が最も強いわけです。
ただし、その株主に対して人間力で影響力を与えられる人がいるとすれば、その人のガバナンスも無視することはできないでしょう。
このように、統治基盤というのは、普段はあまり意識されないのですが、組織の命運を分ける状況においては極めて大きな要素となります。

戦国時代であれば、「家臣たちは、なぜその大名の命令に従って命を懸けて戦うのか?」ということが、統治基盤であると言えるでしょう。

実は、武田勝頼の資質は極めて優れていたのですが、その統治基盤が脆弱でした。

「武田家」は、武士にとって極めて高貴な血筋である「清和源氏」の嫡流(本流)であり、要するに武士の「貴族」でした。会社で言うと、古くから続く「老舗」のようなものですね。
老舗なので、たとえ親族であっても他の家に養子に行った者は武田を継ぐことができない、という暗黙の了解がありました。

 

実は、武田勝頼は諏訪家の養子となって、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
諏訪家は、信玄が滅ぼした大名ですが、諏訪大社の神官を務めており、信濃国においては絶大な権威があったので、勝頼が養子となって継ぐことで信濃国と武田家との結びつきを強くしようと信玄は考えていました。

武田信玄には、長男である武田義信がおり、彼が武田家を継ぐことが決まっていました。義信は今川義元の娘を妻としてめとることで、武田と今川の同盟を強めていました。

このように、武田信玄は婚姻と養子で周辺国との結びつきを強めて、武田家の外交関係を安定させようと苦心していたのですが、そこに驚天動地の出来事が起こります。

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
この出来事が、武田家に大きな波紋を呼ぶことになります。

武田信玄は今川家が衰退すると見て、織田・徳川連合軍に今川が滅ぼされる前に、領地を乗っ取ろうと企みますが、義信から強硬に反対されます。妻の実家を攻めるなどとんでもないと。
武田の家中を二分させる騒動に発展しそうになったため、信玄は義信とその関係者を切腹させて粛清します。
これを通称「武田義信事件」といいます。

義信がいなくなったため、武田信玄はやむなく武田勝頼を跡継ぎとします。しかし資質には全く問題ないとはいえ、勝頼は既に武田家から見ると外様である諏訪家にいったん出されているため、「出戻り」となります。出戻りが後継者となることは、武田家では御法度でした。

従って、武田信玄は自分の正式な跡継ぎは武田勝頼の嫡男である武田信勝(武田信玄の孫にあたる)とし、勝頼はその後見人であると遺言に残すという苦肉の策をとります。つまり、武田勝頼は正式な跡継ぎではなく、その後見人というのが形式的な地位であったため、必然的に武田の家中から軽んじられることとなってしまいました。

要するに、武田信玄が今川の領土を欲したことが、結局は武田家の弱体化を招くこととなったと言えるでしょう。

武田勝頼は、それでも勝ち続けている間は家中を治めることができましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は次第に親類や家臣から背かれるようになります。

そして信玄の後を継いで10年足らずで織田信長の「甲州征伐」により、武田家は親族や譜代の家臣の裏切りや逃亡であっけなく崩壊し、わずか1ヶ月足らずで惨めに滅亡してしまいました。

どんなに後継者の資質が優れていたとしても、それを支える統治基盤が不安定であれば、人からの支持が得られず後継者はその能力を発揮することはできないのです。それが、統治基盤の恐ろしさです。

それを、すぐそばの敵として近くからつぶさに見ていた徳川家康が、学ばないわけはありません。

徳川家康は、資質は平凡でしたが、状況から考えて一番承継するのに無理のない秀忠を後継者に定め、その周りに自分の一番の腹心の家臣を補佐として置きました。
また、秀忠の跡継ぎについても、親から寵愛されていた次男ではなく、長男である家光を定めるように秀忠に命じます。跡目争いを起こさせないようにするためでした。
それだけではなく、直系の子孫が断絶することも考慮して、尾張藩(愛知県西部)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)に親藩(徳川家の親戚)を置き、直系が途絶えた場合にはその藩から跡継ぎを出せるように定めました。いわゆる、リザーブですね。
できるだけ血筋を絶やさないことで、徳川家の統治基盤を守ろうとしたわけです。
このような家康の苦心により、徳川幕府は15代まで続く長期政権となったのですね。

統治基盤は、いざというときに巨大なリスクを発生させる可能性があります。会社で言えば、株式をどれだけ持っているか、ということは経営者や後継者の手腕には全く影響しませんが、手腕を発揮するための前提としては極めて重要となります。株主総会で過半数の決議があれば、どんなに優れた経営者であっても、解任されてしまうのです。

従って、経営者のみならず組織を掌握しようとする人は、必ずその組織における統治基盤を見極めて、それを完璧に掌握する必要があります。逆に言えば、統治基盤を熟知して掌握してしまえば、トップでなくともその組織を動かすことができてしまうのです。
いわゆる「フィクサー」とか「陰の実力者」と言われる人たちがいますが、彼らはたとえ表向きはトップでなくても、その組織を意のままに動かせます。なぜなら、彼らは統治基盤を完璧に握っているからです。

統治基盤は、株式に限られず、人事を動かす力とか、取引先を引っ張ってくる力であるとか、一概に定義することはできません。組織の置かれている環境、制度、人間関係、財産、様々な要素によって柔軟に変化します。
株式会社であれば、株式を多数(できれば全部)掌握しておけば、統治基盤のリスクをかなり低くすることができます。

統治基盤の掌握、これは事業承継の最重要なテーマの一つです。

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

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独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。

この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。

地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。

そうすれば、大きな失敗をすることはありません。

徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

 

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

 

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。

しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

 

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。

しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。

今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

 

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。

今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

 

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

 

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。

今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。

家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

 

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。

味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

 

もちろん、この家康の行動には二面性があります。

今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。

一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

 

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。

織田信長ですね。

織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。

この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。

そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

 

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。

人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。

そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。

隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。

この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

 

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。

そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

 

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

 

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。

チャンスの時に、どのように行動したらいいか。

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校

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優れたファシリテーターとしての徳川家康|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑥

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。5回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

5回目は、織田信長や豊臣秀吉とは違った、ファシリテーターとして部下を育てた徳川家康の優れた育成力についてフォーカスします。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

徳川家康は、優れた家臣たちに支えられて天下を取りました。優秀な部下たちに恵まれていたのは、織田信長や豊臣秀吉も同じですが、三人はスカウトや育成のやり方がそれぞれ違いました。

織田信長や豊臣秀吉は、優秀な人材を見つけると、積極的にヘッドハンティングして、その手腕を発揮できる地位に就けました。二人が優れたいたのは、「情報収集」、「能力評価」、そして「説得力」です。

豊臣秀吉は特に、「人たらし」とも言われ、人材を引っ張ってくる説得力に定評がありました。

 

二人に比べて徳川家康が優れていたのは、「育成力」です。

特に、今で言うところの「ファシリテーター」としての能力が家康にはありました。

 

徳川四天王と言われる、徳川家康の配下で傑出していた家臣は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、その一人の本多忠勝が家康に関して下記のごとく評していました。

「われらが殿は、ハキとしたることを言わぬ人」

 

軍議において、徳川家康はほとんど自分から意見を言わない人だったようです。

皆に自由闊達な意見を出させて、議論が出尽くしたところで自分の意見に近いか、もしくはより優れた意見を採用しました。

家臣たちの自発性を重要視していたのです。

 

さらに、指示をするときもおおまかなことしか言わず、具体的なプランや細部は全て家臣の裁量に任せたようです。

家臣たちは戸惑うこともありましたが、家康の意図などをくみ取って、自分流で物事を進めていくやり方を学んでいきました。

 

戦国大名でこのような手法をとっていたのは、当時としては稀でした。

織田信長は、軍議で議論はさせましたが、結論は全て自分で決めたようです。豊臣秀吉も同様でした。

上杉謙信に至っては、「軍神」ですから軍議自体がほとんどなかったようです。ただし、戦いにおいては謙信の醸し出す「神がかった状態」に皆トランス状態となり、すさまじいほどの力を発揮したとのことです。

武田信玄は、軍議を重視しましたが、家康ほど自由にはさせませんでした。

 

家康の方法は、部下の成長速度は速くありませんが、平凡以下だった家臣たちがいつの間にか自主的な判断ができるようにまで成長しました。

 

前回も申し上げましたが、越前(福井県)と北近江(滋賀県北部)の朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は滋賀県の姉川で大決戦を繰り広げました。

朝倉の1万人と徳川の5千人、織田の2万4千人と浅井の5千人とがそれぞれ戦いました。織田軍は圧倒的な人数にもかかわらず、浅井の強悍な軍勢に潰乱してしまい、徳川軍は、倍の朝倉の攻撃に押され、織田・徳川連合軍は絶体絶命のピンチに立たされます。

 

その中で、榊原康政は家康から「朝倉の横を突け!」と命じられます。自らも正面の敵で動けないのに、どうすればいいのか。しかし榊原康政は工夫して軍勢を引き抜き、朝倉の横から攻撃します。

同時に織田の軍勢からも浅井の横合いから攻撃を行い、朝倉・浅井連合軍はたまらず退却して、かろうじて織田・徳川連合軍は勝利を収めました。

 

あるいは、やはり前回での三方ヶ原の戦いの前に、武田信玄による侵攻を偵察すべく、本多忠勝らが武田軍に近づいたときに小競り合いがあり、徳川軍はいったん退却します。

本多忠勝はすぐに敗走せずに、味方が退いたのを確認した後で道路に戸板やむしろなどを積み上げて火をつけ、武田の追撃を防ぐ煙幕を張ります。

このように、家康の指示がなくても家臣たちは、自分の自主的な判断で動けるように成長しました。

 

ただし、自主的な判断で家臣たちが動けるようにするためには、彼らの失敗を受け入れる包容力が家康に必要です。家康は、家臣の失敗については極めて寛容な上司でした。信長は部下の失敗について、時折厳しい処断を降しました。秀吉も、自らの地位が上がるにつれて、失敗に苛烈な処断を降すようになります。

徳川家康は、チャレンジして失敗したことについて、責め立てることはしませんでした。

 

太平洋戦争開始時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ」という名言があります。

家康は、これを地で行っていた武将でした。

 

豊臣秀吉は、徳川家康を評して「徳川殿は、人持ちである」と羨ましがりました。特に、四天王を引き抜こうと画策しますが、うまくいくことはありませんでした。家康に育てられたという恩義を、4人は強く感じていたからです。

 

逆に、豊臣秀吉がスカウトした優秀な人材は、秀吉の死後にその多くが家康へ寝返ります。

失敗も受け入れて手塩にかけて育てた人材は、裏切ることはありません。しかし、能力を買ってスカウトした人材は、時と場合によってはよそに行ってしまうこともあるのです。

 

経営者には、人材を育成する能力も求められますが、家康のファシリテーターとしての手腕にも、学ぶところが大いにあるでしょう。

 

人材育成、これもまた、事業承継のテーマの一つです。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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経営において、無謀な冒険は禁物 ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑤~

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

4回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

4回目は、力をつけてきた家康が、「暴挙」とも言える行動に出て徳川家は存亡の危機に直面しますが、そこで家康がなにを学んだか、というところに焦点を当てます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者のみならず経営者にとって、で力をつけて成功しつつあるときに、一番落とし穴に入りがちなリスクがあるものです。

成功体験を積み重ねることは成長していくことにおいて大事ですが、成功しているときこそ勇み足に注意したいものです。

 

徳川家康も、独立して三河一向一揆を鎮圧して内部を固め、武田信玄と協力して今川家を滅ぼして遠江国を領土に加えました。

これまで三河国(愛知県東部)だけだった領地が、今の静岡県西部まで広がったことになります。

 

今川義元の下で、厳しい戦いに駆り出されていた三河の武士たちは、そのおかげで戦いにめっぽう強く、「尾張(織田家)の武士3人に三河武士1人が匹敵する」との評判をとりました。今川義元の軍師であった太原雪斎から采配(戦いの指揮)を学んだ家康のもとで、織田信長を助けて姉川の合戦(織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の戦い)に大苦戦の末かろうじて勝ち、おかげで家康は「東海道一の弓取り(名将)」とまで呼称されるようになります。

 

自信を深めつつあった家康と三河武士たちに、しかし大きな試練が訪れることになります。

 

室町幕府の15代将軍である足利義昭を擁して京都へ攻め上った織田信長は、天下の政治を巡って義昭と対立するようになります。

義昭は各地の戦国大名たちに密書を送り、信長包囲網を形成して、自分にとって邪魔な存在となりつつあった信長を京都から追い落とそうと画策していました。

 

その信長包囲網で最も強力な勢力であったのは、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を支配していた、かの武田信玄です。

「風林火山(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」の軍旗で有名ですね。

武田信玄の配下の兵士たちは、伝説的な名将である信玄によって鍛え上げられ、磨き込まれた精兵たちでした。

やはり、信玄に見込まれた選り抜きの武将たちの指揮のもと、上杉謙信や北条氏康たちと幾度となく戦って、ほとんど負けたことがありません。

かろうじて、「軍神」と称された上杉謙信の越後軍団だけが、武田軍団と対等の戦いができたと言われています。

 

武田信玄と国境を接していた家康は、次第に武田信玄と対立するようになり、その武田軍からの強烈な圧力に耐えていました。

しかし、武田信玄は足利義昭からの依頼に応えて、ついに「山」が動き出しました。

 

元亀3年(1572年)10月、武田信玄は甲府を出発し京都を目指して西上を開始します。

 

信玄の本隊が青崩峠を越えて東海道へ出たときの様子は、伝説として語られています。

その行軍は粛々として、二万人が踏みならす地響きのみが聞こえ、私語する者や脇見をする者は一人もなく、あたかも一匹の巨大な猛獣が突き進むさまを見ているようだったとのことです。

武田軍は徳川領内の城を一撃で粉砕して、悠々と進撃します。

 

織田信長からは3千人の援軍が徳川軍に加わり、この一大危機への対処について軍議を開きます。

当然のことながら、強い武田軍への勝ち目は万に一つもない、浜松城へ籠城すべきと言う意見が大勢を占めました。

 

しかし、普段は人一倍慎重な家康が、この時ばかりは狂ったように城を出て野戦で戦う!と強硬に主張して、家臣や援軍としてきている織田家の武将たちは度肝を抜かれます。

武田軍は、遠江国の主要な城を落とした後、浜松城を素通りして、浜松の北にある三方ヶ原へと進軍しようとしていました。

 

家康が出戦論を唱えたのは、次のような判断によるものでした。

・籠城していると、遠江国の他の武将たちが武田家に寝返る恐れがある。

・近畿で苦戦している織田信長への体面もある。

・遠江国の地形をこちらは熟知しているのだから、うまく背後から突けばたとえ人数で劣っていても勝つチャンスはある。

 

しかし、おそらくそれらの判断以上に、数々の合戦に勝利してきた自らの手腕に、家康が自信を持ち始めていたことが大きいでしょう。

たとえ、武田信玄が名将であっても、武田軍がいかに強くても、今の自分なら互角以上に戦える自信がある。

 

こうして、大将が主戦論を唱えているわけですから、家臣や織田家の武将たちは押し切られ、浜松城を出て武田軍の後を追うことになります。

 

粛々と浜松の北を進軍する武田軍は約3万人、徳川・織田連合軍は1万5千人、圧倒的に人数が劣勢ですが、背後を突かれると確かにあっけなく大軍が負けることもあります。

桶狭間の戦いでの今川義元のように。

あるいは、徳川家康は桶狭間の戦いでの織田信長を意識したのかもしれません。

しかし、武田信玄は今川義元ではありませんでした。

 

浜松の北に、三方ヶ原という台地があり、武田軍はそこを登っていくところでした。家康としては、敵に気づかれないように後をついていき、三方ヶ原を下ろうとしたときに背後から攻め下れば、勝機があると考えていました。

高い所から下にいる敵を攻撃するのが、一番有利だからです。

 

ところが、武田信玄はそのような家康の目算は百も承知でした。

わざと本陣を通常とは逆に先行させて、家康が台地を登ってきたところで軍勢を反転させ、あっという間に行軍隊形から戦闘用の陣形に変換したのです。

そのまま、追いすがってくる徳川軍を待ち構えていました。

坂の上に万全な魚鱗の陣(楔のような縦に鋭い陣形)で待ち構えている武田軍を見て、徳川家康は罠にかかったことを悟ります。

武田信玄は、家康の心の動きまで全て計算して、最初から城を攻めずに徳川軍を誘い出して撃滅するつもりだったのです。

百戦錬磨の武田信玄の方が、徳川家康よりもはるかに役者が上でした。

 

家康は、破れかぶれの鶴翼の陣(横に広がる陣形)で武田軍に対抗しようとします。戦いの火蓋が切られ、さすがに強い徳川軍は持ちこたえますが、織田の援軍が潰乱して一気に敗勢となり、散々に徳川・織田連合軍は打ち破られます。

 

家康を始めとして、徳川・織田連合軍は散り散りになって武田軍から逃げます。家康も単騎命からがら逃げますが、武田軍の追い討ちにあって危うく捕まりそうになりました。

しかし、忠実な三河武士たちが家康の窮地を救います。

三河一向一揆で、一揆側についたものの許されて帰参した夏目正吉は、その恩を返そうと家康の名を名乗って武田軍の追撃の群れの中へ突撃して戦死します。

そのような家臣たちが、他にも何人もいました。

家臣たちは、家康あっての徳川家であることを、過去の辛酸をなめた経験から、心に刻んでいたのです。

そしてまた、このような徹底的な敗北を経験することで、そのような家臣たちの強い思いを家康も思い知らされることとなりました。

 

命からがら浜松城へと逃げ帰った家康は、その敗北して憔悴した姿を絵師に描かせます。

これがかの有名な「顰像(しかみぞう)」です。

家康はこの絵を生涯座右に置いて、自分の思い上がりの戒めとしたと伝えられています。

 

この戦いの後、徳川家康は無理な戦いをしなくなります。勝てる情勢になるまで、勝てる戦力を持てるまで辛抱強く粘り強く待つようになり、むやみやたらと決戦をしなくなります。

家臣たちにとって自分がなくてはならない存在であると同様に、自分にとって家臣は何よりも大切な存在なのであり、彼らの命を損ねるような戦いをしてはならないと、三方ヶ原の戦いの痛切な敗北経験から学んだのでした。

 

そして、この経験が「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の合戦で生きることになります。

大垣城に籠城する石田三成をおびき出すために、徳川家康は大垣城を素通りして、三成の居城である佐和山城へ向かいます。

家康の目論見通りに、三成は大垣城を出て関ヶ原へ向かわざるを得なくなりました。

痛烈な敗北の経験が、後々の大勝利に生かされたわけです。

 

また、強大な武田信玄に挑戦した「無謀」な経験は、家康の声望を高めました。

「三河殿(家康の通称)は、かの信玄公に挑んだお方」として、後年になってカリスマ的な尊敬を受けることになります。

関ヶ原の戦いの頃になると、武田信玄も上杉謙信も伝説的な存在であり、そのレジェンドたちと互角に戦った家康に戦いを挑むこと自体が「無謀」なことになったのです。

家康に挑戦したのは、かの石田三成だけでした。

無謀な経験は、家康のいろいろな意味での財産になったと言えるでしょう。

 

自信があるときほど、過信へつながりやすい落とし穴があること、そして忠実な部下たちこそが経営者にとって何よりも財産であり、何よりも尊重しなければならないこと。

いくら成功を積み重ねても、一度の痛烈な敗北が命取りになることがある。成功以上に大敗のリスクを徹底的に避けることが重要であること。

それを、三方ヶ原での家康の敗北から私たちも学ぶことができます。

これもまた、事業承継の本質の一つです。

経営の本質でもありますね。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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内部の危機に対して、どのように対処するか ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡④~

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

3回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

またまた、前回から空いてしまいましたが、3回目は独立したての家康が遭遇した「三河一向一揆」という、内部の危機に対してどのように対処したかを見ることで、後継者が会社を継いでまもなく到来する危機へのヒントを得られないか、見ていきましょう。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者にとって、事業を承継した直後は、経営の全てを掌握していないため様々な危機に襲われる可能性が低くはないでしょう。ある意味で、不安定な時期です。

徳川家康も、ようやく今川氏から独立したとはいえ、内外にリスクを抱えていました。

 

それが表面化したのが、永禄6年(1563年)でした。独立してから3年目ですが、本願寺の寺領(寺の管理する土地)に不用意に踏み入ったことをきっかけとして、三河の西部で一向一揆が吹き荒れました。一向一揆とは、浄土真宗の門徒(一向宗)による宗教一揆です。戦国時代の後半では、越後(新潟県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、越前(福井県)、三河と尾張(愛知県)で、この一向一揆が大名に対抗しうるほどの勢力を持っていました。

 

徳川家康にとって誤算だったのは、少なくない家臣たちが自分から離反して、一揆側についたことです。

原因としては、一向宗の結びつきが強く、家臣たちが主君よりも一族の信仰による結束を選択せざるを得なかったことです。また、今川などの外部からの揺さぶりもあったかもしれません。

なによりも、二十歳にようやくなったばかりの徳川家康が、まだ家臣から認めてもらえていなかったことが、主たる原因と思われます。

今川氏による苦難の支配を経て、ようやく独立して主君と家臣ともにほっとしたものの、落ち着いてみるとまだ主君である家康に頼りないところがあったのかもしれません。

 

隣国には今川が健在であり、同盟者である織田信長も美濃国(岐阜県)の斎藤氏との戦いの展望が見えず、家康は内外にリスクを抱えることになります。

まして、宗教を中心にしている勢力は士気も高く、戦いも手強いため、妥協する大名も少なくありませんでした。

 

しかし、徳川家康はむしろこれをチャンスに変えます。

 

家臣が二分されたおかげで、戦いには苦戦するものの、一つ一つしらみつぶしに反乱を正面から戦って抑え込んでいきます。

反乱側についた家臣たちも、主君を相手としては戦いにくく、降伏したり他国へ逃亡したりして、次第に一揆の勢力は減退していきました。

戦いを通じて、本願寺(浄土真宗)勢力も弱められ、徳川家康の支配下へと組み込まれていくことになります。

 

結果として、一揆が終息したときには、戦いを通じて家康と家臣との絆は深まり、また家康の声望も上がっていました。

まさに、ピンチをチャンスへと変えたわけです。

 

一揆側について、家康に負けて他国へ逃亡し、後に家臣へと帰参した中には、かの有名な本多正信もいます。他国を流浪する中で、様々な経験や人脈を作り、後に家康が天下を取るにあたって多大な力を発揮しました。

また、同じように一揆側について、降伏して家臣になった中には、夏目吉信がいます。家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとなって戦死します。

「犬のように忠実な」三河家臣団が、数々の紆余曲折を経て作り上げられていったのです。

 

独立したばかりの時、あるいは事業を承継したばかりの時は、様々な苦難が襲ってくることもあるかもしれません。

しかし、その時こそ自らの力量を上げるチャンスなのかもしれませんね。

 

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡②

「不遇のときに、後継者は何をすべきでしょうか」

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

その1回目は、不遇であるときに、後継者は何をしたらいいのだろうか、それを家康の人生から考えて参ります。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

「後継者」とは、時と場合によっては、会社の中で中途半端な立場におかれて肩身が狭かったり、あるいは事業承継と言ってもなにをしたらいいのかわからない、というもどかしい気持ちでモヤモヤしていることがあったりするかもしれませんね。

 

まだ社長でもないし、かといって普通の社員とも違います。

将来、会社の社長になる予定の社員、と言えばいいのでしょうか。

考えれば考えるほど、モヤモヤしませんか?

 

でも、いつかは「その日」、会社を継いで社長として経営をしなければならない日は来るのです。

たとえ中途半端であっても、モヤモヤしていても、準備はしておく必要はあります。

そして、どんな状況であっても、その気さえあれば、やる気さえあれば、準備はできるのです。

現に、徳川家康はそれをやりました。

 

東海道新幹線の「のぞみ」に東京から乗車して、まもなく名古屋駅に到着するときに、必ず流れるアナウンスがあります。

 

「ただいま、三河安城駅を通過いたしました。定刻通り運行しております。まもなく、名古屋駅に到着します」

徳川家、かつての松平家の発祥の地は、この三河安城駅の近辺で、かつて「安祥」と呼ばれていたところです。

 

しかし、松平元康、後の徳川家康が生まれたときは、松平家にとって一大危機の時でした。

家康の祖父である松平清康は、優れた武将として領土を拡大しますが、戦いのさなかで部下に裏切られ25歳で急死し、その嫡男(息子)、つまり家康の父である松平広忠は、駿河国と遠江国(ほぼ静岡県にあたります)の大名であった今川義元を頼ります。

いわば、伸び盛りのベンチャー企業が、社長の急死によって老舗の会社の子会社になったようなものですね。

 

父の松平広忠も24歳で病死してしまい、まだ幼かった6歳の徳川家康は人質として今川家の本拠である駿府城(今の静岡市)に預けられてしまいました。

人質として駿府城では大事に扱われたものの、外出も自由にできず、常に周囲の監視の下にあったわけで、いわば「籠(かご)の中の鳥」みたいなものですね。

これ以上に、半端な環境というのもないように思います。

普通なら、その環境に絶望して、投げやりになったり、無気力になったりしてもおかしくはありません。

 

しかし、家康は違いました。

自分が人質に取られているおかげで、三河国の家臣たちは過酷な戦争にかり出されて命を落とし、あるいは今川家に自分たちの収穫を取り上げられて、貧しい生活を強いられているという噂を聞いていました。

自分は武将としてしっかりと成長して、いつか国許に帰って松平家を承継し、家臣たちのリーダーとして彼らを守らなければならない。

周りがどのような環境であっても、そういう自覚をしっかりと持っていました。

いや、持たざるを得なかった、というべきかもしれません。

 

優れたリーダーになるために、自分にできることはなんでもしなければならない。

しかし、行動の自由を奪われた家康にできることは、当然のことながら限られています。

今、自分にできることは何だろうか。

それは、身の回りにいる優れた人から「学ぶ」ことでした。

 

当時、今川義元の政治と軍事の右腕を務めていた、太原雪斎という今川家の重臣がいました。太原雪斎は、詩歌に詳しい教養人であると同時に、政治、経済、軍事、外交に明るい、いわゆる「軍師」のような存在でした。

世にも名高い「今川・武田・北条の三国同盟」をまとめたのも、太原雪斎です。

 

徳川家康は、太原雪斎を師として仰ぎ、リーダーになるための学問を授けてもらいます。太原雪斎も、家康の優れた資質を買っており、かつ熱心な学びの姿勢に心打たれ、行く末は今川家の頼もしい同盟者となってもらうべく、厳しく教育しました。決して長くない期間であったものの、家康は大名になるための基礎を太原雪斎からじかにたたき込まれました。

 

また、今川義元は、織田信長に討たれたために決して評価が高くない武将ですが、「今川仮名目録」という国を治めるための法律が残っているように、優れた統治力を持っていました。

徳川家康もその影響を受け、後に自らもしっかりとした法律に基づいた政治を行うようになります。

 

今川義元と太原雪斎。人質でありながら、徳川家康は彼らから大名として生きていくための手ほどきを受け、後に独立した時にそれを見事に生かしていくことになります。

 

また、家康の優れた人から学ぼうとする姿勢は、終生変わることはありませんでした。後に同盟を組むことになる織田信長や豊臣秀吉、あるいは若い家康にとって強大な敵であった武田信玄からも、そのいいところを必死になって取り入れようと努力しました。

 

徳川家康は、人一倍素直であるという優れた資質はありましたが、決して天才的な人物ではありませんでした。かつ人生のスタートは人質という、極めて不遇な環境でした。

しかし、周りの優れた人たち、時には家臣からも、必死になって学んでいくことで、彼は三河の田舎領主から天下人へと登り詰めていったのです。

 

後継者の皆さん!もし、不遇であると思うならば、あるいはなにをしたらいいのかわからないならば、それが「学ぶ」に一番いいときなのかもしれません。

ただし、「学び」はその内容も重要です。事業承継を学びたいと思っていらっしゃるのであれば、後継者の学校は最適な学びの場であると自負しております。

 

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また、後継者の学校の入門講座では「事業承継の本質」についてわかりやすくお伝えしております。学校はまだかな~と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

後継者の学校

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歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

前回まで、関ヶ原の戦いの主人公の一人であった石田三成を見て参りましたが、今回からはもう一人の主人公である徳川家康の生き方を紹介して参りたいと思います。

 

徳川家康。

 

戦国時代を終わらせて260年以上に及ぶ江戸の泰平の世をもたらした、織田信長、豊臣秀吉に続く戦国ビッグ3の一人ですね。

そんな凄い人から、後継者が学ぶことなんてあるのだろうか、とひるむ方もいらっしゃるかもしれません。

うむ、確かに。

書いている私も、「徳川家康か…ちょっと、大きく出てしまったなあ」と、ひるむ心があります。

あるいは、信長や秀吉に比べて、地味すぎて面白くない、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

確かに、その二人が派手なので、比較すると家康は地味ですね。この頃は、大河ドラマでも脇役ばかりです。

 

でも、ひるむ方には、徳川家康も後継者だったし、秀吉はともかくとして、現代の起業家に神のようにあがめられている織田信長だって、もともとは後継者だったんだよ、と申し上げたいと思います。このブログでも、以前に取り上げたことがありますね。二人とも、確かに創業者としての一面を持っているけれど、最初は後継者としてキャリアを始めているのです。

 

また、後継者というのは、実は様々な要素、側面を持っているのです。創業者(先代)が健在の時は部下であるとともに後継者であり、事業を承継した後は経営者であり、新しい事業を始めたら創業者にもなるわけです。そう考えると、実は後継者は事業承継だけ学べば足りるわけではありません。経営のやり方も、アントレプレナーシップ(起業)も、学ぶことは必要です。

 

徳川家康の生涯は、地味ではあるけれど、今川義元の人質から始まり、長く今川、織田、豊臣の家臣や同盟者を経て、最後に天下人となるという、大変に複雑で紆余曲折を経た人生なので、一見すると派手な信長や秀吉よりも、参考になるヒントは多いんじゃないか、と私は思っています。

 

そんな徳川家康の人生を、現代の経営者で表現すると、下記のようになるのではないかと考えます。

 

「散々に親会社にこき使われてきた子会社が、親会社の内紛に乗じてM&Aで事業を乗っ取り、天下人となった」

 

あるいは、家康が遺したと伝えられている、下記の遺訓(格言)が一般的には知られていますね。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

 

これは、実は徳川家康が遺した言葉ではないようですが、家康の人生を表すにふさわしいので、遺訓として言い伝えられているようです。私も、そのように思います。

 

とはいえ、これから皆さんと見ていくうちにご理解いただけると思うのですが、決して家康は「重荷」をイヤイヤ背負っていたわけではないんです。むしろ、重荷を背負うことで自分を鍛える喜びさえ感じていたように思います。重荷を背負わされているとストレスがたまる一方ですが、重荷を背負うことで自らを鍛えているのであれば、自分の足腰が強くなっていく楽しみがありますよね。

 

歴史に名を残すような人たちは、おそらく自らが背負わされたマイナスの「宿命」を、そのように前向きに受け入れることで、自分の「運命」を切り開く原動力に変えているのではないでしょうか。

 

では次回から、徳川家康がこの世に生まれ落ちたときに、どのような「宿命」「重荷」を背負わされていたか、まずはそこから始めたいと思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

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後継者の学校

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