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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(2)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回は、前回からの石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密を、今回は探っていきたいと思います。

 

石田三成の挑戦を探る鍵は、当時の三成をはやした歌にあるように思います。

 

「治部少(じぶしょう・三成のこと)に

過ぎたるものが二つあり

島の左近に 佐和山の城」

 

石田三成は、自分の欠点の一つとして、戦場での経験が浅く、また謀略が不得意であることをよくわかっていました。

秀吉から近江国(滋賀県)の水口4万石を任されたときに、自分の右腕となってくれる部下を召し抱えることを決意します。

 

しばらくして、秀吉がふと気になって、

「佐吉(三成の幼名)よ、そなたを大名に取り立ててやったが、どれだけの家来を召し抱えたのだ?」と三成に質問します。

計算に明るいしっかりものの佐吉のことだから、さぞ多くの家来を召し抱えたに違いない、と秀吉は考えました。

 

すると三成は

「一人です」と答えます。

 

秀吉は驚いて、「一人とはどういうことだ?」と尋ねると、三成は、

「筒井家の牢人、島左近を召し抱えました」と答えるので、秀吉は苦笑します。

「島左近ほどの名士が、そちのような小身者のところに来るわけがないではないか」

 

島左近(しまさこん)。

 

またの名を、島清興(しまきよおき)ともいいます。

大和国(奈良県)の筒井順慶の重臣として活躍し、戦闘の指揮の巧みさと外交や謀略に明るい名士として、その名が知られた存在でした。

蒲生氏郷や豊臣秀長にも仕えたようですが、当時としては高齢でもありその後は隠居していたようです。

様々な仕官(リクルート)の話もありましたが、全て断っていました。

 

石田三成からの誘いも,当然のことながらいったんはにべもなく断ります。

島左近にしてみれば、豊臣家の若造が、身に余る出世をしたばかりに頭に血が上ったのだろう、くらいにしかとりません。

4万石ごときの大名が、なにを血迷ったのかと。

 

しかし、三成はあきらめません。

島左近に出した条件が、破格でした。

 

4万石のうち、2万石(1万5千石という説もあります)を与えるから来てくれと。

今で言えば、4億円の売上(利益ではありません)のうち半分を毎年差し上げるということですね。

ほとんど、あり得ない条件です。

1万石以上が「大名」と呼ばれていたのですから、同じ国に大名が二人いることになります。一緒に社長をやってくれというのと同じですね。しかも、経費は全部三成持ちです。

 

さすがに、島左近も心が動きますが、やはり仕官するつもりはないけれども、せっかくの申し出なので三成に会って断ろうと面会に応じました。

 

しかし、島左近は結局三成の申し出を受け入れます。2万石の誘惑に負けたわけではありません。

他の大国に行っても、それくらいはとれる島左近です。たたき上げの海千山千の軍師であった島左近は、三成の裏表のない一途な正義感の強さにすっかり魅了されてしまったのです。

 

いい人材を手に入れるためには、売上の半分をあげることもいとわない。

秀吉はその話を聞いて、大笑いするとともに、昔の自分を見るように三成を頼もしく思います。

三成は、大名となったことに満足しない、大望を抱く男だと。

 

島左近を右腕としたことで、石田三成軍団は格段に強力な存在となります。

後から加わった、歴戦の指揮官として知られる舞兵庫や蒲生頼郷とともに、関ヶ原の戦いで伝説的な強さを発揮することとなります。

 

また、島左近は戦いだけでなく、情報収集や各種の謀略にも手腕を発揮することとなります。

 

この島左近が、冒頭の歌の「島の左近」に当たるわけですね。

最初は、「過ぎたる」ものであったかもしれないけれども、この主従は最後は一枚岩のようになるのです。優れた家臣を召し抱えることで、三成自身も成長したわけですね。

大名も、会社と同じで「人材」が大切なのです。

 

次回は、後半の「佐和山の城」に触れますね。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

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しばらく、時間が空いてしまいました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

私は、年に何度か東京から大阪へ新幹線で行くことが多いのですが、途中で関ヶ原付近を通過するたびに「関ヶ原の合戦」に思いをはせることがあります。

 

その「関ヶ原の合戦」を、学生(中学・高校?早熟な人は小学校かも、ですね)の時に初めて習ったときに、皆さんはどのように思われましたか?

 

私は、率直に「石田三成?誰だろう?」と思いましたね。

 

何しろ、関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも言われた大きな戦いです。その片方が徳川家康という押しも押されもせぬ江戸時代の創始者であるならば、相手は「豊臣秀吉」でないととても釣り合いませんよね。

まあ、当時は歴史に無知だったので、豊臣秀吉が生きてたら起きるはずのない戦いということまでには思いが及びませんでした。秀吉亡き後の、覇権を争う戦いですからね。

 

しかしながら、無知でありながらも私の素朴な疑問はそれほど的を外していなかったと思います。東軍の大将である徳川家康の国力は石高にして約260万石、西軍を仕切った石田三成は同じく19万石、約13倍もの開きがあります。

 

260万石と19万石、これはどのくらいの違いかというと、単純に260万人の人口がいる国と、19万人の国との違いと考えてください。家康が使える兵力は、約6~7万人、三成の使える兵力は5千人でした。やはり、10倍以上の差があります。

 

いかに、徳川家康の力が隔絶していたかわかりますね。

 

さらに、徳川家康は豊臣政権において、5大老と呼ばれる重臣たちの筆頭であり、かつ織田の時代からの豊富な戦歴を持つ、権威と実力においても他を圧倒する存在でした。

 

はっきり申し上げると、徳川家康に石田三成が戦いを挑むなど、「無謀」「無茶」「怖いもの知らず」以外のなにものでもないのです。

 

でも、今回から始まる「石田三成」では、この「無謀さ」をテーマにしたいと思います。

常識的に考えれば惨敗どころか全く勝負にならないであろうこの「無謀な」戦いは、実はかなりいい勝負になります。

東軍の圧勝どころか、徳川家康はすんでのところで天下を取り落とすところまで行くのです。

当時の下馬評でも、あるいは現代においても、無謀な戦いであるという下馬評を、どうやって三成はひっくり返すところまで持って行けたのか。ここに、後継者が学ぶべきヒントが埋まってやしないか?と思うのです。

 

ほう、いい勝負まで持って行けたということは、石田三成はすごくできる奴なんじゃないか。優秀だから、周りの人がついてきたんでしょう!

皆さんは、もしかするとそう思われたでしょうか?

 

当時の石田三成の評価は、実務能力は有能だけど、戦場ではたいしたことはない、というものでした。

飛び抜けて優れた官僚ではあるが、武将としては平凡というのが正直なところでしょう。

 

でも、10万人とも言われる東軍(家康の率いた軍勢)に対抗できる勢力を揃えたんだから、さぞ石田三成には人気や人望が備わっていたんじゃないでしょうか、と思われる方も、ひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。

 

石田三成の当時の人物評は、当時の言葉で表すと「へいくゎい者」です。

現代語で言うと、「横柄」「傲慢」ですね。

 

超がつくほど管理能力に優れ、豊臣秀吉の絶大な信頼があり、豊臣家の政治は三成なしには成り立ちませんでした。それほどの能力を持ちながら、他人からは恐れられ、嫌われていました。

もっとも、それは石田三成の場合、豊臣秀吉の権威を借りてというわけではなく、持って生まれた性格だったと思います。

頭の回転が速く、思考が明晰で先が見えすぎる人は、ついつい他人がバカに見えてしまうんですね。

石田三成の場合、それを隠さなかったので、人望があるどころか嫌われ者だったと申し上げても言い過ぎではありません。

 

武将としてたいしたことがなく、人望も全くなかった石田三成が、いったいどうやって歴史上に残るような合戦をまとめることができたんでしょうか?

 

これって、後継者でなくても興味ありますよね。

 

まして、事業を承継しようとしている後継者は、家康に挑む三成のような、ある種無謀な戦いをしようとしているといっても、言いすぎではないですよね?もちろん、皆さんが三成のように性格が悪い、と申し上げているのではないですよ。

 

資質もたいしたことなく、人から嫌われていた三成でさえ、家康と勝負できたんです。

でも、それはもちろん、三成が尋常ではない努力をしていたからです。

そこに、事業承継という勝負をしようとしている後継者が学ぶべきことがあるんじゃないか、ということです。

 

次回から、石田三成の尋常ではない努力を、見ていきたいと思います。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 真田丸④(真田昌幸)

samurai

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナー、今年はすっかり「真田丸」ウオッチャーとなっています石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

ようやく、数ヶ月にわたって(ブログはたったの4回ではあるのですが(汗))、見て参りました「真田丸」も、今回で一応区切りになります。

 

前回まで、主家であった武田家が滅び、自分の居城である岩櫃城へ帰って知謀を巡らせた上で自らを織田信長に首尾良く売り込んだところまではよかったものの、本能寺の変により再び戦国の混乱に巻き込まれて、すっかり困り果てた真田昌幸の去就を見て参りました。放映されたのは、もう半年前になるのですが…(汗汗)

 

ところで、真田昌幸が巻き込まれた、本能寺の変に端を発する甲信地方の混乱は、「天正壬午の乱」と呼ばれています。天正10年(1582年)の干支が「壬午」だったからです。

これは、どのくらいすごい混乱なのでしょう。おそらく、こないだのリーマンショック程度は、「乱」とさえ言われない程度のものかもしれません。少々ショックは強かったけれども、単なる景気変動に過ぎないからです。

「乱」というのは、あらゆる秩序が失われ、人々がお互いに疑心暗鬼に陥って、明日生きていけるかわからない、そういう状況をいうのでしょう。「真田丸」でも、信之と信繁が人質を伴って新府城から岩櫃へ落ち延びる道中は、命と財産を狙われる危険に絶えず襲われていました。そんな思いをしてたどり着いた岩櫃城は、新府城や安土城に比べれば粗末でみすぼらしかったとしても、どれだけ心強い存在だったでしょう。

 

そのような極限の状況の中で、家族と家臣と国人たちを敵から守らなくてはならない、しかし味方はおらず見渡せば皆敵ばかりにみえる状況の中で、真田昌幸が背負っていた責任感とプレッシャーはいかほどのものか、それもまた穏やかな時代に生きるわたしたちの想像をはるかに絶するものがあります。

その中でいかに的外れであったりピントがはずれていたり、あるいは臆するような行動を取ったとしても、決して責められるべきではありません。とはいえ、事態を打開しなければ、武田のように真田も滅び、真田親子の首は桶に入れられて見世物としてさらされるのです。そのような時代でした。

 

さて、本能寺の変で自分の知謀で勝ち取ったと思ったものが全てひっくり返された昌幸は、自らの知謀でさんざん振り回して心に傷を負わせた信之に助けを求めます。

昌幸から見ると、信之(源三郎)は杓子定規で考え方が硬いように思われ、逆に信繁(源二郎)は素直で知恵が回るけれども、思慮深さに欠けるように感じます。いずれにしても、まだ自分の手足になるには両人とも頼りない存在。

しかし、この絶体絶命のピンチの場面で、昌幸は二人から起死回生の大事な気づきを得ることになります。

 

昌幸から意見を求められて、信之は「我らは織田家についたのだから、家臣としての道を貫き、滝川一益を助けて明智を討伐し、織田信長の仇を討つべき」と進言します。信之は常に、まっすぐな原則論、王道を述べるんですね。そこが昌幸から「面白くない」と酷評されるゆえんですが。

しかし、このまっすぐさが昌幸の琴線に触れることになります。ずっと、大名たちの裏をかくことに熱中するあまりに、すっかり策におぼれかかっていた自分の現状に気づかされるのです。

昌幸は言わんことか「なぜ、もっとそれを早く言わない」と信之をとがめます。信之は立腹して「ずっと、申しておりました!」と返しますが。そりゃ怒りますよね。信之はぶれていないのですから。

 

真田昌幸は、信之の進言に従って滝川一益に助太刀を申し出ますが、それまで散々に策におぼれすぎたしっぺ返し、一益から信用されず逆に人質を求められてしまいます。こうしてみると、自分の策謀は全く的を射ていなかったことに改めて気づかされるのですが、それでもそのことに気づかないよりはよほどにいい。

ただし、いざというときのために、巨大な勢力である北条にも真田信伊から気脈を通じておく策も忘れないのですが…

 

そこへ、安土から真田信繁が命からがら逃げ帰ってきます。一緒に人質として同行していた姉の村松殿を護りきることができず、すっかり意気消沈して帰ってきます。

昌幸も、羽柴秀吉が明智を討滅したとの報を聞いて、滝川一益が天下を取る目がなくなったことを嘆きます。

「わしの肩入れした者は、ことごとく運を逃す。源三郎教えてくれ…わしは、疫病神か?」

自分が頼ろうとした大名たちは、ことごとくつまづいてしまう。いったい、この先誰に頼ればいいのか…

 

お互いに意気消沈した二人は、示し合わせたわけでもないのに物見櫓へ登ります。

 

そこからは、はるかに真田の里が見渡せます。

 

信繁は、「ここで姉上と追いかけっこをしておりました…」と述懐します。

 

昌幸は、「力が欲しいのう…織田や北条や上杉と対等にわたりあえるちからが…」と自らの悲運を嘆きます。

 

二人は、それぞれ違った思いを胸に真田の里を眺めます。

 

落ち行く夕陽が差し掛かる、信濃の雄大な山々の美しさ、細やかに手入れがなされたまばゆいような田園風景、もう少しすると豊かな収穫をもたらすであろう畑と甲斐甲斐しく働く百姓の姿、路を盛んに行き交う行商たちの列、そして戦国のなかにあって無邪気にじゃれあう元気いっぱいな子供たち…

 

信繁が、独り言のように

「私は、この景色を見るといつも思うのです。たとえ領主が変わっても、この信濃の景色が変わるわけではない。いつも静かに、あの山々はそこにある。人間のいさかいを笑っているように。

私は、この景色が好きです。信濃は、日本国の真ん中ですから。信濃に生まれたことを、誇りに思います。

父上の子として生まれたことを、誇りに思います」

 

昌幸は里を眺めながら、電気で打たれたようにはっと気づくのです。

 

力がない、と思い込んでいたのは自分だと。

なぜ、北条も上杉も徳川も信濃をうかがうのか。

信濃が豊かな土地だからだ。信濃を欲しいからだ。

信濃には、よい材木が獲れる山々がある。それを運ぶ川も流れている。よい馬も育つ。

街道が通り、人が集まる。東と西を結ぶ、要の土地なのだ。

力がないなんてとんでもない、この信濃がある限り、自分たちは大名たちと対等にわたりあえるのだと。

 

そして何よりも、真田には人がいる。真田を信頼して慕ってくれる民たち、武田に比べれば土臭いけれども忠誠心のあつい家臣たち、そして父親である自分を誇りに思ってくれている息子たち。

これ以上、自分は何を求めるのだと。十分すぎるほどではないか…

 

真田昌幸は、決意します。

 

もう大名たちの顔色をうかがうのはごめんだ。信濃を使って、餓狼のように欲深な大名たちを操ってやる。隙あらば打ち倒す。

そして、この真田をなんとしても守りきってみせると。

大ばくちを打ってやる!と覚悟を決めます。そう、やっと腹が据わったのです。

 

腹が据わると、不思議なことに迷いが消えて、どんどんと打ち手が出てくるのです。これまでのように、周りが困惑するような策ではなく、味方を生かし敵を縦横無尽に欺く打ち手が。策ではなく知謀がわいてくるのです。

息子たちや家臣が昌幸を見る目も変わってきます。父を見上げる信繁の目が輝いてきます。それまで疑いと戸惑いで父を眺めていた信之も、信服するようになります。

 

それにしても、これまで真田昌幸のやることなすことは、なぜ空回りしてしまったのでしょうか。

それは、自分は力のない、誰か大きい勢力に頼らなくては生き延びられない「国人」だと思い込んでいたこと、つまり国人としての「自己概念」で行動していたからだと思います。

 

しかし、国人として行動すると打ち手は限られるんですね。誰につけばいいかをまず見極めなくてはならないし、その相手の力と心理を読まなくてはならない。

これは、安定した状況で力関係がはっきりとわかるのであれば、ある程度打ち手は明確になりますが、天正壬午の乱のような混乱の極みのなかでお互いに疑心暗鬼になっている状況では、ほとんど打ち手がありません。選択肢が少なければ、どんなにすごい知謀の持ち主でも、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

でも、自分に軸を持ったちからのある大名であればどうでしょうか。そのちからを生かしていけば、どんなに周りが混乱していても打ち手はあるものなんです。

 

真田昌幸は決してちからがないわけではなかったのです。それに気づかなかっただけなのです。でも、すっかり自分を国人だと思い込んでいて、自分のちからをありのままに見ることができなかったのです。このように、周りとずれている自己概念、自己認識で行動していると、現状を変えることはなかなかできないのです。

 

でも、策を考えるのに疲れ果てて、ゼロベースに立ち返って真田の里をぼんやりと眺めたおかげで、昌幸は自分の持っているちからを客観的に見ることができたのです。

 

つまり、真田昌幸は自己を客観視することによって、自己概念が変わったということなんです。

もっと言えば、自己概念が「国人」から「大名」へと成長したのです。

 

会社で例えると、課長から部長、部長から社長へ成長するように。ここで言うのは地位ではなくて、「自己概念」ですが。

いや、戦国にあっては、もっと切実なことかもしれません。もし真田が大名にならず国人の自己概念のままであれば、大名たちに引きずり回された挙げ句に滅亡したかもしれないからです。

 

自己の客観視によって、自分が持っているちからを正しく把握することができる。ちからがあるとわかれば、「決意と覚悟」も定まります。ちからがないのに覚悟って定まらないと思いませんか。例えば、借金ばかりあって売上がない会社を継ごうと思っても、覚悟ってできませんよね。昌幸も同じです。国人ではとても頼りなさ過ぎて覚悟なぞできなかったけど、「ああ、信濃って実は恵まれた国なんだ。それを押さえてる自分には立派なちからがあるから、大名に頼らなくても自立できるんだ」と覚悟が定まり、「よし、絶対に奴らには負けない!真田を守りきってみせる!」と決意ができたのです。

 

真田昌幸は、こうして「国人」から「大名」へと成長して、天正壬午の乱を乗り切り、上田城の戦いで徳川軍を打ち破って、戦国に一躍その名を轟かせることになるのです。

 

こうしてみると、正しい自己概念を持つことはすごく大切なことですね。自己概念が変わることで、現状への意味づけが変わり、自分の行動が、目の色が段違いに変わるのです。後継者の学校では、キャリアの視点から後継者の「自己概念」に切り込むプログラムを準備しています。これって、すごいことなんですよ。期待してもらって全然構いませんよ。期待してください!

 

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歴史に学ぶ後継者経営 真田丸③(真田昌幸)

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私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

後継者の学校パートナー、この頃はすっかり「真田丸」ウオッチャーである石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

前々回からの続きで、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」を取り上げて、後継者のあり方を考えてみたいと思います。

今回取り上げるのは第6話くらいまでですね。前回からも時間がたってしまい、既にだいぶ昔の話ですので、ご覧になられている方はもう忘れちゃったよ、と思われるかもしれませんが、どうかおつきあいください(汗)。

 

さて、前回は「真田丸」以前の真田家の話、当時真田家が置かれていた環境や歴史について、少し説明させていただきました。今回から、いよいよ「真田丸」での真田昌幸について、お話ししたいと思います。

 

武田家が滅び、真田昌幸は本拠である岩櫃城へ戻って今後の方針を考えます。

 

ただし、真田家は独立した大名ではなく、「国衆」と呼ばれる地方の有力者の一つに過ぎません。信濃の大名は武田家であり、国衆はその武田家に協力する代わりに庇護を受けている、いわば大企業の系列会社のような存在でした。「国人」とも言われたりします。

大名から見ると、国衆は平時には自分の手の届かない地元住民を代わりに治めてくれて、合戦になった時には兵士を連れてきて一緒に戦ってくれる頼もしい存在である一方で、いつ何時敵方にいつ寝返るかもわからない存在でもありました。自分の家臣とは違って、人質を取って警戒する一方で、丁重に扱っていたようです。「真田丸」の中で、武田勝頼が真田昌幸の人質を解放したのは、いかに昌幸が勝頼から信頼され感謝されていたかを示すエピソードです。

 

また国衆にとっては、大名は自分たちを守ってくれる、頼れる存在でした。

それがいなくなってしまったのですから、一大事です。

 

まして、真田家が治めていたのは信濃から上野(今の群馬県)にまたがる地域であり、北は上杉、上野の南には北条、甲斐国(今の山梨県)からは織田が迫ってきていて、元々は武田家の敵方になったり同盟を組んだ相手だったりと、過去のいきさつが複雑な相手ばかりに囲まれています。一方と手を組めば、他の相手を敵に回すことになる。しかも過去のいきさつから考えると、手を組んだ相手が100%信頼できるとはとても言えない。

 

このような困難な「外患」(外からの脅威)に加えて、真田昌幸は「内憂」も抱えています。国衆たちです。

武田家からは、真田家が有力な国衆であると扱われていましたが、それはあくまで武田家内部の話で、当の国衆たちはそのように思っていません。人によって違いはあるものの、真田家を含む北信濃と上野の国衆は皆平等な立場だと認識しています。特に「黙れ、小童!」の室賀正武ですね(笑)もう、古いですが…(汗)

 

従って、昌幸がいろいろな案を出しても、自分の利害やメンツにとらわれて全くまとまりません。

 

また、当の真田昌幸はどうだったのでしょうか。

 

前回申し上げましたとおり、真田昌幸は外様でありながら、武田家のエリートコース、大企業で言うとオーナー一族の親類にもなれるチャンスがありました。そこから兄たちの死や武田家の滅亡によって、一気に中小零細企業のような真田家の当主に「落ちぶれた」わけです。

 

そういう経験をした真田昌幸の意識って、どうでしょうか?想像してみてください。

 

自分や自分の周りの全てが武田家に比べると頼りない存在だなあ~と、思ってしまうのも無理はないですよね。

 

武田一族や家臣たちに比べると、意識も能力も低いのに我欲だけは一人前な国衆たち。

完成前だったが立派だった新府城に比べると、貧弱そのものの岩櫃城。

広大な領土と金山(「真田丸」では触れられていませんが武田家の財力を支えていた)を持っていた武田家に比べて、真田の領土は貧しく兵士も少ない。

そして、自分の危機感をよそにわかりきってることばかり言う長男と脳天気な次男坊。

 

「真田丸」の真田昌幸は、胡桃をもてあそびながら独り苦悩します。

自分が頼ることができるのはなにもない。頼れるのは、武田信玄の薫陶を受けた己の知謀のみ。この知謀でしか、この難局は打開することができない。そう思い込んでいます。

 

でも、果たして本当に、そうなのでしょうか。昌幸は自分の知謀しか頼ることができないのでしょうか。真田家はよるべなき存在なのでしょうか。

 

ところで、皆さんは「キャリア理論」というものをご存じでしょうか。

古い話をしていたのに、突然「キャリア」とかカタカナ用語を持ち出して、ごめんなさい。

でも、この時期の迷っている真田昌幸を考える上で、「キャリア理論」を使うのが非常にぴったりなのです。

「キャリア理論」とは、「キャリア」に関する理論ですね。当たり前か。

「キャリア」とは、皆さんご想像の通り狭い意味では「職歴」「経歴」を意味しますが、本来はもっと広い、人の「人生」について考えるものなのです。仕事も含めて、どうすれば自分の人生を有意義なものにすることができるのか、それをいろいろな人が考えている、非常に奥の深い学問です。決して、大学やハローワークの「就職相談」だけではないのです。

 

その「キャリア理論」で非常に大切な概念として、「自己概念」というものがあるのです。「自己概念」とは、文字通り「自己」に関する「概念」です。これも当たり前か。

非常に簡潔に言ってしまうと、自分や自分に近い人たちは、自分をどのようにとらえているか、考えているのか、ということです。家族をみてみると、親は自分を自分の子供の親と考えているし、子供は自分を親の子供と考えています。これはあまりいい例ではないかもしれません。会社で言うと、新入社員は新入社員としての、課長は課長としての、社長は社長としての自己概念を持っています。

 

自己概念の重要性は、自分をどうとらえているかというそのものよりも、自分をどうとらえるかによってその人の行動に影響を及ぼす、ということにあります。新入社員は新入社員の行動をしますし、課長も社長もそれぞれ課長と社長の行動をします。もしも、ここで新入社員が社長のような、あるいは社長が課長のような行動を取ったらどうなるでしょうか?自分も周りも混乱しますね。自己概念が自分の行動や周囲と一致していると、割と物事は上手くいきますし、不整合を起こしているといろいろなあつれきが起こったり、自分のしたいことがうまくいかなかったりします。

自己概念は、本当はもっと深い概念なのですが、今回はこの辺にしておきますね。

 

さて、この「自己概念」という考え方を真田昌幸に当てはめてみるとどうでしょうか?

 

昌幸は、先ほども述べたとおり真田家を「頼りない、ちからのない“国人”」ととらえています。昌幸の場合不幸なのは、かつて強大な武田家の一族に連なるところまで登り詰めたところから、あれよあれよという間に地方の一豪族の当主にまで身を落としてしまったという意識があるために、余計に真田家を小さい存在だととらえてしまっているのですね。

 

それを示す象徴的なシーンがあります。

 

昌幸は、信之(源三郎)に「わしは海を見たことがない…山育ちだから」と述懐します。そして、「国衆(国人)は、力のある大名にすがるしかないのだ…」と呟きます。

しかしながら、武田家で武藤喜兵衛のときに、昌幸は家康を三方ヶ原の戦いで追い詰めていたはず。三方ヶ原は浜名湖の東側にあり、海はすぐそこです。信之からそれを聞かされた高梨内記も「そんなことはないはず…」といぶかります。

ここで「海」とは、「港」のことなんですね。有力な大名は、交易の拠点となる良港を有していました。武田信玄は、清水港が欲しいがあまりに、同盟を破って今川を攻めたくらいです。

自分は国衆であり、国衆は大名にすがるしかない、という自己概念から、思わずこのような一言が出てしまったのですね。

私も、これを聞いていて思わず膝を打ってしまいました。三谷幸喜、芸が細かい!と。

 

そのような自己概念を持っていると、どうなるでしょうか。昌幸の行動は「国人」という枠に押し込められて、いや自ら押し込めているために、非常に選択肢が少なくなってしまいます。そのような状況では、得意の知謀も飛躍のためのつばさを失ってしまっているも同然です。

 

武田が滅亡し、織田が攻めてきているいま、北の上杉に掛け合うか、北条に頭を下げるか。

 

真田昌幸は、皆の意表をついて、敵方と思われた織田に売り込んで、見事に成功させます。それはよかったのですが、一本気だけれども少々知恵の回らない長男を謀略のだしにつかい、心に傷を負わせてしまいます。得々としている父親を見て、源三郎は情けないとともに不信感を抱きます。昌幸は確かに、知恵は回るけれども、なぜかそれに心から納得することができない思い。なぜなんだろう…

 

織田信長に、真田家を高く売り込んで得意の絶頂にいた昌幸に、しかしながらこれ以上ない天の鉄槌が下ります。

 

本能寺の変!

 

真田昌幸が「知恵」を絞ってこねくりあげたものが、全て粉々に砕け散ります。

 

源三郎と二人になった昌幸は、こともあろうにもてあそんだ長男に対して「俺はどうしたらいいんだ!」とすがります。どの面下げて、とはこのことですが…

でも、ここで徹底的に、心の底から自分の「知恵」に自信を喪ったことが、昌幸が変わってゆくきっかけとなります。

そして、二人の息子たちが、昌幸を変えていくのです。

二人のそれぞれの個性で…

 

変わった真田昌幸は、国衆としてうろうろしていた真田家を、戦国を生き抜いて明治まで続く大名へと変えていきます。

 

ようやく、次回完結編です。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 真田丸②(真田昌幸)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナー、石橋です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

前回からの続きで、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」を取り上げて、後継者とは、ということについて考えてみたいと思います。前回が、5月末というのは伏せておきたい事実ではございますが…大変ご無沙汰いたしまして、申し訳ございません。

前回では、「真田丸」を見てみたら期待以上に面白かったこと、そして1話から6話までに描かれている真田昌幸の後継者としての成長から、私たち後継者も学べそうな気がしたことを申し上げました。

 

ただ、大河ドラマの1話から6話といえば…お正月から2月の寒い頃までのお話しです。もう梅雨も終わろうとする今頃になって、書く話ではないですよね。もうすっかりそんな頃の話など忘れておられる方も多いと思いますので、あらすじと一緒に真田昌幸の成長を見ていきたいと思います。

 

また、前回でも真田昌幸について簡単に紹介しましたが、真田家と真田家が置かれていた時代や環境について、少し説明させていただく必要があると思います。「真田丸」は話の展開上、武田家の滅亡から始まっているのですが、その関係でそれまでの真田家の成り立ちなどの説明を省略しています。大河ドラマは、45分×50回あまりという制約があるので、致し方ないのでしょう。

 

その補足の意味で、少々まどろっこしいとは思いますが、「真田丸」に至るまでの真田昌幸について、今回は申し上げたいと思います。

 

 

真田昌幸は、「戦国キャラ」で分類すると、いわゆる「知謀派」です。

「知謀派」は、毛利元就のところでも紹介しましたね。

「知謀派」と言っても様々でして、ライバルの国の武将を寝返らせる(こちらの味方につける)「調略」を得意とする武将や、敵方を混乱させる「謀略」を得意とする者、戦場において相手の意表を突く戦術を得意とする武将なども、「知謀派」と言われたりします。

 

「知謀派」にはそれぞれ、得意不得意があります。「調略」で有名なのは言うまでもなく羽柴(豊臣)秀吉ですね。「謀略」は毛利元就でしょうか。

 

真田昌幸は、「知謀派」の中でも、相手の意表を突く戦術に長けていたタイプだと私は思います。小集団を意のままに操って、複雑な地形を利用した芸の細かい戦術の使い手でですね。これは、真田昌幸が生まれ育った環境が影響しています。

 

真田昌幸は、信濃国の小県郡(上田市のあたり)の生まれです。北陸新幹線に乗られたことがある人はご存じかもしれませんが、安中榛名を過ぎて富山に出るまでの長野県の区間は、トンネルに入ったり出たりの繰り返しです。

 

そうなんですね。信濃国は今の長野県とほぼ同じですが、山々のあいだに小さな盆地があってそこに人が住んでいるような土地柄なのです。耕作できる土地は狭く地質も痩せていて収穫が少ないため、人口は少なく、それぞれの盆地を小さな豪族(国人・国衆と呼ばれている)が治めていました。あまり、大きな勢力(いわゆる大名)は育ちにくい環境でした。

 

なおかつ、地形が複雑なため攻める方に厳しく守る方に有利です。領地を拡げようとしても、はるばる山を越えていかないといけないので、時間も手間もかかります。

このような環境では、少ない人数を使って、入り組んだ地形を利用した複雑な戦術が有効です。美濃(岐阜県)や近江(滋賀県)の平野で大兵力同士の戦いをしていた織田信長などとは、対照的ですね。

 

ただし、東海道や北陸道と並び東西を結ぶ東山道(中山道)が通っており、人の往来は少なくはなかったようです。

 

そのように小さい豪族同士が争っているところへ、甲斐国から大勢力を率いた武田信玄が侵攻してきて、最終的には信濃は武田家に併呑されます。ただし、信玄をもってしてもそれは簡単な事業ではなく、武田家は様々な国人たちに協力を求めます。

真田家は当時の当主である真田幸隆が積極的に武田家に協力しました。優れた知謀を使ってめざましい活躍をして、たちまちに信玄の信頼を得ます。

真田昌幸は真田幸隆の三男でしたが、真田が武田の家臣となった証として人質になり、武田家に送られます。

もっとも、真田一族は優秀であり武田家での働きも高く評価されていたので、人質というよりもスカウトされて英才教育を受けさせてもらえたようなものです。それはまた、武田の懐柔策の一つでもありました。

 

「真田丸」7話の中で真田昌幸が「わしもカンだけで生きておる。だがわしのカンは、場数を踏んで手に入れたカンじゃ」というくだりがあります。これは、実は正しくはありません。真田昌幸は武田信玄の生前、「信玄の眼」と呼ばれたほどに認められ、信玄から期待をかけられておりました。

武田信玄は、自他認める学問好きであり、四書五経を始めとして一通りの学問は全て修めており、目をかけた家臣にも必ず学問をさせたはずです。武田信玄を尊敬していた徳川家康も、同様に熱心な学問好きでした。

 

基本的な学問を修めていないと、人を率いる武将としての働きはできないと当時は考えられていました。主だった武将には、必ずアドバイザーのような僧侶がいます(武田信玄の場合は快川紹喜)。信玄から命じられて、真田昌幸も一通り以上の学問は修めていたことでしょう。

 

そのように、武田信玄から大きな期待を受けて、信玄の親衛隊としてそばに仕えていた昌幸は、その期待のあらわれとして、跡継ぎがいなかった武田家の親類(信玄の母の一族である大井氏の支族)である「武藤氏」の養子に入り、「武藤喜兵衛」と称します。「真田丸」でも、三方ヶ原の戦いで徳川家康を追い詰めた「武藤喜兵衛」の話が出てきますね。いわば、選ばれて親会社の社長の一族になったようなものです。将来は、武田氏の親類族として、武田家を支えることが期待されていたわけですね。

 

しかし、前回でも申し上げたように、昌幸と同様に武田家に仕えていた二人の兄が長篠の戦いで戦死します。二人とも同時に失うのですから、いかに過酷な戦いだったかがわかりますが、これで昌幸は武田家の一族になれるという夢のような立場から、真田家の跡継ぎとして真田姓に戻ることとなります。兄たちを失った悲しみと合わせて、少々複雑な、残念な気分だったかもしれません。

 

追い打ちをかけるように、長篠から7年後、織田軍が攻めてきて親会社である武田家が滅亡してしまいます。国人衆として武田家を支えていた真田家は支柱を失い、途方に暮れることとなります。

 

ここから、真田昌幸の苦闘が始まります。さて、真田昌幸はこの苦境をどのように越えていくのか。次回、見て参りましょう!

 

 

というわけで、延々と退屈な説明を聞かせてしまい申し訳ございません。書いているこの私も退屈でしたが、これを書いておかないと次回につながらないのです。次回からいよいよ本番ですので、こうご期待です!

 

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歴史に学ぶ後継者経営 真田丸①(真田昌幸)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の大河ドラマウオッチャーである、石橋治朗です。

大変、ご無沙汰いたしておりました。

 

最初から申し上げておりますが、私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営を考えてみたいと思っています。

 

今回は、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」を取り上げて、後継者とはどうすればいいんだろうと考えてみたいと思います。

いや、今回だけではなく、今年いっぱいは折を見て「真田丸」からヒントを得たいと思います。

 

というのも、

 

真田丸、めちゃくちゃ面白いからなんです!!!

 

いや、のっけから失礼しました…

 

大河ドラマ好きな人、ことに戦国モノ好きな人からの評判がよろしくない「真田丸」

私も、三谷幸喜の歴史物というところに偏見を抱いて、一通り録画はしていたもののこれまで放置しておりました。

しかも、うっかり大事な第1回目(しかも2時間もの)を撮り忘れる始末。

まあ、どうせ三谷幸喜だからいいか、とこれまたやる気のなさを全開にしておりました。

 

そうはいうものの、このブログでどうしても真田一族を取り上げたいと常々思っておりまして、ブログで取り上げるためには真田丸を見ないわけにはいかないだろう、面倒だなあ~という渋々な消極的な態度で、ようやく3月決算の申告が一段落しつつあったこの週末に第2話を見てみたわけです。

 

しかし!

 

あまりの面白さに、第7話まで一気に見てしまいました…

なぜ、なぜに第1話を撮り忘れたのか!!と地団駄を踏む始末。

NHKは確か、オンデマンドがあったよな~それで見るかと気持ちを取り繕ったものの、どうやってオンデマンドを見たらいいか知らないのです…

 

私のお粗末はともかくとして、さすがに三谷幸喜は凄いですね。

脚本に独特の軽さはあるものの、基本となる歴史考証や人物の造形はしっかりしています。ちゃんと主だった資料はきっちりと読み込んでいるように思いました。もちろん、そこはドラマですから考証に縛られず現代の視聴者に見せるようなフィクションも盛り込んでいますが。

 

また、選んでいる役者もいちいちぴったりで驚きです。織田信長と明智光秀だけはちょっと?でしたが、二人ともそれぞれ5分くらいしか登場しないのでさほど支障はありません。

 

なによりも、今で言うと真田昌幸は中小企業の親爺のような、一昨年の黒田官兵衛に比べるとかなり地味でくすんだ風貌なので、ハーフでダンディな草刈正雄ってどうよ?と危惧していましたが、いつの間にか草刈正雄が中小企業の親爺風になっていたとは知りませんでした(笑)

クルミをもてあそびながら火鉢を前にブツブツとしかめっつらでじっと考えてる姿が、全く違和感ありません。

 

そのように、ドラマとしても素晴らしいのですが、なによりもこのブログにとって有難いのは、6話までの展開(本能寺の変後の信州の混乱)が真田昌幸の後継者としての成長を描いてくれていることです。

(6話までというのは2月上旬ですので、リアルタイムでご覧になっている方々はお忘れかもしれません。そこはご容赦ください)。

 

そう、真田昌幸は主人公である信繁やその兄の信之の父であると同時に、真田家の後継者なんですね。

しかも普通の後継者ではありません。

昌幸は実は父真田幸隆の三男であり、極めて優秀な兄が二人もいたので、一度は武田家の親類筋の養子に入ります。

しかしながら、二人の兄がいずれも長篠の戦いで戦死したため、真田家に後継者として戻ったというやや複雑な経緯があり、それがおそらくは真田昌幸の姿勢や考え方に影響を与えています。

第1話を見ていないのでなんとも言えないですが、それも加味して脚本を作っているとするならば、いや作っているのでしょうが、三谷幸喜凄いです。

その複雑な経緯が、見事に第6話まで伏線として生きてきます。

 

で、もっとありがたいのは、おそらく信之や信繁の承継もドラマ化してくれるだろうということです。

二人は、昌幸から別のものをそれぞれ受け継いで、それぞれに花開かせます。

それはまた、大河ドラマが進むにつれて、折を見て取り上げます。

 

 

次回からはまず、真田昌幸の成長をみて参りたいと思います。

 

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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歴史に学ぶ後継者経営 毛利元就のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。

六回目は、「三本の矢」の訓戒で知られる、中国地方の覇者毛利元就に学ぶ、統治基盤のあり方です。矢は三本集まると確かに折れにくくなりますが、経営者は三人集まっても団結するとは限らない、そしてリスクに直面したときに統治基盤が弱いと、組織を危機に陥れる、ということです。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の考古学者(笑)である、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回までは、東日本の戦国時代のボスキャラ、織田信長、武田信玄、上杉謙信を取り上げて参りました。

今回からは、少し西にも目を向けたいと思います。

 

そして戦国シリーズの第四回目にして西国編の第一回目は、戦国きっての知謀派である毛利元就を取り上げたいと思います。

 

毛利元就、真田昌幸、本多正信、黒田官兵衛…

戦国ゲームでの知謀派は、挙げていくときりがありません。

しかし、知謀だけで一介の国人(村の大きな庄屋さん)レベルから中国地方一帯の支配者となった、正真正銘にして王道中の王道の知謀派は、毛利元就をおいて他にいないでしょう。

 

猪突猛進タイプの武将であった陶晴賢を厳島におびき寄せて敗死させたことは有名ですが、敵方に謀略をしかけて人間関係をがたがたにさせたり、偽情報を流して自分に有利な状況を作り出すことに極めて長けていました。

しかし、毛利元就本人は本当に誠実な、人情に篤い人物だったようです。そうでなければ、謀略は成功しないのでしょう。

 

毛利元就で有名なエピソードは、なんといっても「三本の矢」として知られている、息子たちへの戒めですね。

 

毛利元就には、後継者候補として三人の息子がいました。

毛利隆元、吉川元春、小早川隆景です。

毛利隆元は温厚で篤実な常識人、吉川元春は猪突猛進型の猛将、小早川隆景は冷静沈着な知謀派と、それぞれ元就の違う側面を継いでいたようです。

 

能力は隆元よりも弟たちの元春、隆景が優れていたようですが、元就は「三子教訓状」で三人に伝えます。

宗家である隆元を中心として、他の二人は宗家を支えるように努めること。

隆元は他の二人に対して、寛容な親心をもって接すること。

 

元春と隆景は、有力な家臣の養子になっていましたが、決して毛利宗家を疎かにしないよう、また宗家である隆元は他の二人をいたわり、三本の矢のように三人で団結して毛利家をもり立てていくように説いています。吉川と小早川のそれぞれの「川」の字をとって、「毛利両川」と呼ばれていました。

 

伝承されている「三本の矢」とは、事実は異なっていたようですが、ニュアンスは似たようなものですね。

 

しかし、史実は元就の希望したとおりには進みませんでした。

 

 

まず、宗家の隆元が若くして急逝します。元就は後見人として実権を握っていたので、毛利家の勢力には影響しませんでしたが、長男が親よりも先に亡くなったため、事業承継はいったん頓挫してしまいます。

 

その後、毛利隆元の嫡子である輝元が毛利宗家の当主に就任します。

 

元就亡き後の輝元の時代は、織田信長との過酷な戦いに直面しますが、本能寺の変で救われるとともに、豊臣秀吉と同盟することで前回の上杉景勝と同様に、奉行を務めることになります。

 

ここまでは吉川元春と小早川隆景が協力し、毛利家をもり立てていたのでうまくいきましたが、吉川元春と小早川隆景が逝去することにより、家内が必ずしも一枚岩とは言えなくなります。

 

吉川家は元春の嫡男である広家が継ぎ、小早川家は豊臣秀吉の意向により秀吉の甥である秀秋が継ぎます。

すでにこの時点で、「毛利両川」体制はなかば崩壊します。

毛利宗家で有力なアドバイザーであった、外交担当の安国寺恵瓊と、吉川広家とは考え方が合わなかったようです。次第に、毛利宗家と両川のうち残った吉川家との間に、すきま風が吹くというか、ボタンの掛け違いが生じてきます。

 

このような微妙な状況で、まさに天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦を迎えたのは、毛利家にとって運の悪いことでした。

 

外交担当の安国寺恵瓊は豊臣側に、軍事を担当していた吉川広家は徳川側につくことをそれぞれ主張して、物別れになります。

 

毛利宗家は安国寺恵瓊に従って西軍側の当主となりますが、吉川広家は徳川家康に裏で通じて、関ヶ原の戦いでは西軍方に参加せず傍観を決め込むことで、西軍の敗退の原因を作ります。

まさに、この一大事に至って、毛利宗家と吉川家はそれぞれ勝手にばらばらな行動を取ることになってしまいました。

 

吉川広家は徳川家康から恩賞を受け取りますが、毛利宗家は西軍側の当主になった責任を問われ、一〇カ国に及ぶ領土を家康から全て取り上げられます。皮肉にも、そのうち周防国と長門国(今の山口県)は吉川広家に与えられることになる領土でした。

 

吉川広家の嘆願もあり、その後毛利宗家は吉川広家に与えられる二カ国への減封にとどまりますが、いずれにしても一二〇万石から三七万石への大減封という処分を受けます。前回の上杉景勝と、ほぼ同じですね。

 

三人(三家)仲良く、という毛利元就の戒めは、それを直接聞かされた代まではうまく機能しましたが、その後は三家がばらばらになってしまい、毛利家の衰微する原因となりました。元就の戒めは、上杉とは違って「理念」までには至らなかったということですね。

しかし、毛利家も減封をきっかけとして家中が団結し、国力を増して幕末の討幕運動の中心を担うことになるのですが。

 

毛利の失敗から学べることは、物事の決断と実権はできるだけ集中しなければならない、ということでしょうか。兄弟同士が協力することは、毛利家の躍進の原動力となりましたが、いざリスクに直面したときに、吉川家は勝手な行動を取ることで毛利家を危機に陥れました。いわゆる「三本の矢」は、いざというときに組織を守る「統治基盤」として、有効に機能しなかったということですね。

 

後継者経営においても、兄弟でちからを合わせて会社を切り盛りするケースが少なくないと思いますが、仲の良さは別として、どちらが最終決定の責任を有しているか、については明確に決めておき、厳格に運用する必要があります。

 

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 上杉謙信のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。五回目は、川中島の戦いで武田信玄と抗争を繰り広げた、上杉謙信の事業承継です。事業承継には理念が必要であり、理念は貫き通すことによって「価値」となり「ブランド」となるのです。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史評論家(笑)である、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回は、戦国時代の中心的な存在であったにもかかわらず、名家であった武田家を滅ぼすこととなった武田信玄を取り上げました。

 

そして戦国シリーズの第三回目は、その信玄と宿命の対決を繰り広げた、武闘派ボスキャラの一人である上杉謙信を取り上げたいと思います。

 

上杉謙信、島津義弘、真田信繁(幸村)

戦国ゲームでの武闘派ビッグスリーです。

特に「信長の野望」で謙信が騎馬隊を率いているときは要注意です。

中途半端な戦闘力のキャラクターが周りをうろうろしていると、謙信の騎馬隊から突撃を受けて戦死します。

バージョンによっては、突撃するときに青い稲妻が走るのですが、実際に謙信が率いる部隊からは青い光が立ち上っていたという伝説があるくらいです。馬上の謙信を見たら、逃げるにしかず。戦国ゲームでの大原則の一つです。

 

上杉謙信、別の名を長尾景虎といいます。関東管領という室町幕府における重要な役職を代々上杉家が務めていましたが、長尾景虎は請われて上杉家を相続しました。そのときに、上杉謙信へ改名したわけです。

もともとは、越後(今の新潟県)の守護代を務めていた長尾家の後継者でした。

 

越後、新潟県ですが、地図をご覧になっていただいて、新潟県の長さを指で測って東海道や九州で比べてみてください。

東海道ですと東京から名古屋近辺まで、九州だと縦の長さが新潟県の長さとほぼ同じです。実は、端から端まで330キロもあります。

要は、国が広いんですね。

 

広いので、なかなかまとまりません。信濃(長野県)も広いので統一した大名が現れず、武田信玄により征服されましたが、越後の長尾家も家中の争いでばらばらでした。

 

長尾景虎は父為景の四男として生まれますが、武田信玄と同じく為景から疎まれて、お寺に入れられます。もともと信仰心は篤い方でしたが、戦争ゲームに熱中しすぎてお寺から見放されます(笑)父為景が没した後で、兄の晴景とともに越後統一のために戦いますが、戦場にデビューした当初からあまりにも強すぎて、晴景と不仲になります。しかしながら、家臣団の推薦もあって晴景に替わって当主になり、22歳の時に越後を統一します。

 

越後の戦国大名となった景虎ですが、その後も重臣である北条高広に背かれたりと、家中はなかなかまとまりません。それに嫌気がさしたのか、27歳の時に隠居と出家を突然宣言して、高野山へと出発してしまいます。

 

慌てた家臣たちは景虎を追い、説得して連れ戻します。家臣の懇願もあって景虎は出家を思いとどまりましたが、そのときに自らの決意を家臣たちに宣言します。

 

領土を拡大するためではなく、「義」のために戦うこと

一族の争いを絶つために、女性との交わりを絶つこと

自分は毘沙門天(戦いの仏神)の生まれ変わりであること

 

それを聞いた家臣たちの反応はおそらく、「はぁ~…なんすかそれ?」だったことだろうと思います。武士の生き甲斐は命を懸けて領土を拡大することであり、子孫を残して家を継承していくことです。最後の戦争オタク宣言は百歩譲るにしても。まあ、若君の短気にはやった妄言だろうと、たかをくくって聞き流したことでしょう。

 

しかしながら、景虎は大まじめでした。基本的に、この人は言葉は悪いですが、クソ真面目で常に本気な人です。

信長にしろあるいは景虎にしろ、何かをなす人はクソ真面目で本気なのかもしれません。

 

武田信玄の回で申し上げましたとおり、信玄に領土を奪われた村上氏を助けて雪深い北信濃で10年にもわたって川中島の戦いを繰り広げ、関東では北条氏康から攻められた上杉氏を助けて、自らが養子になることで上杉家を復興し、あるいは信長によって追放された足利義昭のために京都を目指したりと、「義」のための戦いに明け暮れることとなります。

 

当然のことながら、家臣からはブーイングです。懇願して謙信に戻ってもらった手前、面と向かって言う家臣はおりませんでしたが、一銭にもならない戦いばかりしやがってと不満はたまります。

さほど景虎と戦う気のなかった武田信玄からは、迷惑顔で物好きな輩との陰口を叩かれる始末。

隔絶した戦闘力を持っていたので周りの大名からは畏怖されましたが、戦う割になんの成果もあげないので、当時は少々軽く見られていたようです。

 

戦いに明け暮れた挙げ句に、また出陣しようとしていた寒い日の朝、上杉謙信は脳溢血により倒れて帰らぬ人となりました。

戦う一生であったのに、得られた領土はほんのわずかでした。

全うしたのは、「義」と「不犯」だけです。

振り返ってみれば、なんとも空しい人生だったと、あるいは思われるかもしれません。

 

しかしながら、上杉謙信の真価はその死後に評価されることとなります。

 

相続争い(謙信は後継者を指定しなかったので)に勝って、謙信の後を継いだ上杉景勝は、本能寺の変による信長の死で九死に一生を得ます。

景勝は機敏に豊臣秀吉と同盟して、会津一二〇万石の当主となり、豊臣家における奉行の一人にまで出世します。

景勝の能力も秀吉から評価されておりましたが、それ以上に「上杉は謙信公以来、義を重んじる家であり、決して裏切らない」という声望が高まっていたからです。

 

どんな方法を使っても領土を拡大することに価値があった戦国時代から、世の中は大きく変わっていました。「義」を守る武士こそが真の武士であると、評価されるようになってきていたのです。

 

豊臣秀吉が亡くなり、その子である秀頼が幼少であったために、また戦乱の日が到来します。

豊臣との「義」を守るか、勢いのある徳川につくか、右往左往する大名のなかで、上杉家の姿勢はみじんも動きません。

 

かぶき者の前田慶次は、「武士をみたいなら上杉家に行け」と食客になります。

 

関ヶ原の戦いを経て、西軍側であった上杉家は敗者となり、徳川家による処分を受けることになります。

 

上杉景勝は重臣の直江兼続とともに謝罪のため上洛しますが、「真の武士」である上杉家の行列を見ようという観衆が絶えなかったそうです。

 

徳川家康も、敵対したとはいえ「義」を重んじる上杉家の方針は、これから平和な時代を作る上で欠かせない理念だと考えて、改易(家の断絶)せずに残すこととしました。

上杉謙信の「義」の理念は、敵からも評価されるほどに当時において重視される「価値」になっていたということですね。かの信玄も、死の床で後継者の勝頼に「自分の亡き後は景虎を頼れ」と言い残したと伝えられています。

 

しかし、敗者ですから一二〇万石から三〇万石まで減封されます。いわば売上が四分の一となったわけですから、家臣への給与は払えなくなります。「上杉家」の家来は武士の鑑、どこからも引く手あまたであり、再就職には困りません。上杉景勝は家臣たちに再就職を進めます。

 

しかし、家臣は一人も辞めませんでした。

上杉家の一員として、窮乏に耐える生活を選びます。

目の前の栄進よりも、謙信公の理念に殉じる方を選んだわけですね。

裏切りが続出してみじめに滅亡した前回の武田家とは、なんとも違うと思いませんか。

 

上杉謙信の掲げた「義」は、当初は全く理解されなかったものの、家臣たちと共有することで上杉家の「理念」になり、継続していくことで次第に「価値」として認められるようになり、さらに磨き上げていくことで「真の武士」という「ブランド」となりました。

 

後継者経営においても、創業者が遺そうとした価値や理念を発見し、それを継続し共有していくことで、お金では測ることのできない「価値」を遺せるようになるのではないでしょうか。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

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事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校

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歴史に学ぶ後継者経営 武田信玄のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。

四回目は、戦国時代の台風の目であった武田信玄の事業承継です。事業承継には寛容な心が必要であり、また目先の利益にとらわれて「義」を破ってはいけません。そうでないと、悲劇を招くことになりかねません。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史の語り部(笑)、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回から、日本史の華、戦国時代に舞台を移して、いきなりのボスキャラ中のボスキャラである織田信長を取り上げました。

 

そして戦国シリーズの第二回目は、戦国時代はこの人を抜きにして語ることができない、やはりボスキャラの一人である武田信玄を取り上げたいと思います。

 

織田信長も、ドラマや小説に取り上げられることが多い人物ですが、武田信玄も多いですよね。戦国ゲームでの評価(能力パラメータ)も極めて高いです。

 

武田信玄という名前、いかがですか。重々しい名前で、重厚なイメージを感じませんか。

実は、もともとは「晴信」という諱(昔の成人名)だったのですが、出家して「信玄」と名乗るようになりました。

 

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という格言でも有名です。

 

しかし、信玄(晴信)自身は、信心深そうな名前とは、あるいは格言とは真逆な人生を送ることになります。

 

実は、信玄も後継者です。というか、それなりに血筋のいい武家は、事業承継をすることを前提としています。武士にとって大切な仕事(存在意義)は、「家を継ぐ」ことと「名を挙げる」ことです。

 

信玄が生まれた「武田氏」は、由緒正しい清和源氏を源流とする「甲斐武田氏」という、武士の超名門の宗家です。甲斐は今の山梨県ですね。有名どころのおぼっちゃま、といったところでしょうか。

 

しかしながら時代は戦国。武田氏も代を追うごとに衰微して、内乱状態となっていましたが、17代目の当主である武田信虎が一族の争いをおさめて、甲斐国を統一しました。信玄はその信虎の長男として、この世に生を受けました。弟の一人に、後に信玄の貴重な右腕の一人となる信繁がいます。

 

しかしながら、よくある話ですが、父の信虎と長男の信玄こと晴信はそりが合いませんでした。信虎はおとなしくて鈍重な晴信よりも、利発な信繁をかわいがります。

 

普通の家庭であれば、男同士の親子の不仲は「よくあるね~」で住む話です。創業者と後継者ですと、会社の中がぎくしゃくして周りが大変な思いをしたりしますが、まあ、それだけの話ですよね。

 

しかし、武田家は武家ですね。武家は、皆さん腰に刀というコワい一物を帯びております。

武家での不仲は、刃傷沙汰という物騒な事態になりかねないのです。

 

武田信虎がどのように考えていたか、真実は不明なのですが、武田晴信にしてみると廃嫡される(跡継ぎの身分を剥奪される)という危惧を抱くような情勢だったのは間違いありません。

廃嫡されると、最悪の場合、晴信は切腹を命じられることもあります。現に、後にそのような事件が武田氏を襲いますが、それはまた後の話。

 

さて、晴信はどのような行動に出たでしょうか。

 

なんとなんと、父の信虎を国外に追放してしまいます。

 

信虎を、同盟を結んでいる今川家(駿河や遠江、今の静岡県から愛知県の一部までの守護大名)へ追放してしまい、晴信自身が武田家の当主としておさまります。

事実上、武田家を「乗っ取って」しまったわけですね。

 

背景には、家臣団と信虎の対立があったと言われています。

武士同士の対立は、お互いの命をかけているところもあるので、晴信の行動はやむを得ないのかもしれません。

しかしながら、この行動は後々の武田家に暗い影を落とすきっかけになります。

 

その後、晴信は家臣団を掌握して信濃(今の長野県)へ侵攻を開始して、信濃の各地の大名を併呑して勢力を大きく拡大します。関東地方の北条氏や今川氏といわゆる甲相駿三国同盟を結び、背後の安全も確保します。

もともと、武田晴信の心底には京都へ武田の旗を立てるという野望があり、そこへ向けて、着々と準備を進めていました。

 

しかし、北信濃の村上氏を攻めたことをきっかけとして、10年近くに及ぶ「越後の虎」こと上杉謙信との抗争、いわゆる「川中島の戦い」に巻き込まれ、貴重な時間を空費することになります。

 

そんな中、戦国時代の勢力地図を一変させる驚天動地の出来事が起こります。

 

前回にご登場いただいた、尾張のボスキャラ織田信長が、戦国時代の代表的なやられ役である今川義元を「桶狭間の戦い」で敗死させます。

今川家も足利幕府における名門であり、東海道におけるバランサーとしての役割を果たす貴重な存在でした。

今川家の後継者は今川氏真、蹴鞠(貴族のサッカーのような遊び)の名手であるということだけが取り柄の、暗愚な後継者(いやな響きですが)で有名です。

今川家の領地には、貴重な物産の集結地である港があります。水運が当時の中心的な運送手段だったので、港を支配していることは経済的にも軍事的にも、計り知れないほど有利だったのです。

 

名門の跡継ぎが愚か(何回聞いてもいやな響きです)で、しかもその支配地には莫大な富がある。

 

隣には、山が多くて農地に恵まれないが、強大な軍事力を有している有能で野心的な大名がいる。

 

要するに、飢えた野良猫の目の前にでっぷりと太ったネズミがのこのこと現れたわけです。

どのような結末を迎えるか、誰の目にも明らかですね。

 

しかしながら、武田と今川は同盟を結んでいて、信玄(すでに出家していました)の長男である義信の正室(奥さん)は今川義元の娘です。

嫁の実家を攻めることなんて、できるのでしょうか。

当然のことながら、武田義信は猛反対します。

またしても、武田家の父と長男の対立です。家臣たちは、信虎と晴信の対立が脳裏に浮かびます。

しかし一方で、今回は武田家にとっては貴重な領土を拡大できる千載一遇のチャンスでもあるのです…

 

さて、信玄はどのような行動に出たでしょうか。

 

また、やってしまいました。

 

長男の義信を廃嫡して後に切腹させ、義信の嫁は実家に帰してしまいます。

デジャヴ、というか懲りないというか…。

義信に賛同していた家来たちも、一網打尽で粛清されてしまいます。

 

晴れて家中の意見を統一(?)した信玄は、徳川家康と組んで今川の領土に攻め入り、駿河国と念願の港を手中におさめることになります。こうして、武田家は一気に国力を高めることになりました。

 

でも、その代償として、武田信玄の手はべっとりと血塗られることになりました。

どんなに手を洗おうと、数珠を数えながら読経しようと、決してその血をぬぐうことはできません。

 

そんな信玄を織田信長は、「信玄坊主」と揶揄します。

法衣を纏おうが数珠を手にしようがお寺に多額の財産を寄進しようが、その手は血で汚れた破戒僧に過ぎない、とでもいうように。

 

国力を高め、上杉謙信を越後(今の新潟県)に封じ込めて、いよいよ信玄は念願の西上作戦を開始して京都を目指します。

しかし、そのときすでに信玄の身体は病魔に蝕まれていました。

 

甲斐国から東海道に現れた武田信玄の軍列は、今でも伝説となっております。脇目も振らず私語もせず、咳一つ聞こえない、見事に統制された軍列が粛々と京都を目指して進軍していきます。武田軍の強さは、信玄の意のままに一糸乱れず動く、機械のような統制の強さでした。

しかし、それは本当の強さだったのかどうか。もしかすると、親父を追い出し長男に腹を切らせる信玄への畏怖だったのかもしれません。

 

武田軍に侵入された徳川家康は、その重厚な隊列に対して果敢に挑みますが、三方原でフルボッコにされ、散々に破られて逃走し、恐怖のあまり脱糞してしまいます(笑)

とはいえ、家臣たちはそんな不甲斐ない家康を身を挺して守り、身代わりになって死ぬ家臣も出しながら、なんとか浜松城まで帰還させます。

 

家康を難なく破って勝ち誇った武田軍ですが、のちに信玄の死で西上をあきらめて国に帰ります。

 

信玄は、自分の亡き後のことを心配して、新たな後継者となっていた勝頼に「三年間は喪に服して、国をまとめるように」と遺言します。

 

しかし、信玄に対する恐怖でまとまっていたに過ぎなかった家臣団をまとめる力は勝頼になく、長篠の戦いで信長に惨敗し、家康にはだんだんと領地を侵食され、最後には家臣団のみならず親類からも裏切られて、逃避行のなか山中で寂しく切腹し、ここに武田家は滅亡しました。

「人は城、人は石垣、人は堀」どころではない、お互いの信頼感に乏しい内情だったということですね。

 

武田が滅んだのは、勝頼が暗愚だったせいと言われていますが、私はどちらかというと信玄に原因があると思っています。

信虎を追放したのはやむを得ない事情もありましたが、義信と対立したときにその自らの行為が記憶によみがえり、義信を恐れて結局は切腹させるという暴挙に及んでしまいました。

 

その信玄の行為により、家臣たちは信玄を恐れるようになったのではないでしょうか。表向きは忠誠を誓っていても、心の中はどうだったでしょうか。恐怖による統制は、後の反動がより怖いのです。

 

そもそも、戦国時代の家臣は主人に対してよく背きました。織田信長にしろ徳川家康にしろ、あるいは上杉謙信にしても、家臣にはしょっちゅう背かれ、裏切られています。むしろ背くのが家臣の仕事のひとつ、とでもいうように。あるいは、それが人情の一つの側面なのかもしれませんね。

 

背くことに対して厳しく対応することも時には必要ですが、多くの場合に彼らは背いた家臣たちを赦しています。

のちに逆境で助けてくれるのは、むしろかつて背いた家臣だったりもします。

 

武田家の失敗で私たち後継者が学べるのは、「承継には寛容な心が必要」であり、「目先の利益にとらわれて、義を破ってはいけない」ということだと思います。

「寛容」と「正義」を喪ったとき、人は傲慢になるとともに信望を喪うことになるのではないでしょうか。

 

次回は、信玄とは対照的に、その「義」を愚直に守り切った上杉謙信を取り上げたいと思います。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校
http://school-k.jp/

歴史に学ぶ後継者経営 織田信長のケース

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営とは、を考えて参りたいと思います。

三回目は、戦国時代のボスキャラ、織田信長の後継者時代のエピソードから。事業承継は、一日にして成らず、であります。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーにして後継者の歴史考証家(笑)、石橋治朗です。

 

私はこのブログを通じて、事業承継はどのようにすればうまくいくのか、後継者経営にはなにが大切なのだろうか、創業者経営とはなにが違ってくるのかについて、主として日本の歴史を題材にして皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 

前回までは、江戸時代のお話でした。江戸時代は、本来は非常に面白いんです。しかしながら、やっぱり「地味な時代」なんですね。書いていて、あるいは読んでいて、面白い!と思えるのは戦国時代とか、江戸時代の終わり、「幕末」ですよね。

 

そこで、しばらくは戦国時代に舞台を移したいと思います。

戦国シリーズの第一回目は、なんといってもボスキャラ中のボスキャラ、織田信長を取り上げたいと思います。

 

ブログを読まれている方は、戦国ゲームの代表作である「信長の野望」というゲームをされたことがある人が多いのではないでしょうか。私も、このゲームにはまり、そのおかげで歴史に興味を持つようになりました。

 

戦国ゲームには、実に様々な武将が出てきますけれども、なかでも織田信長はゲームの名前に使われてしまうほど、時代を代表する存在であります。信長を取り扱った著書もいっぱいありますよね。著名な経営者、創業者で織田信長の生き方にインスパイアされている人も多いです。ソフトバンクの孫正義氏は自らを織田信長に例えるほどです。

 

「日本史において唯一の創造的天才」「日本史に革命を起こした男」「日本には収まりきらないほどのスケールの大きさ」

などなど…

 

しかし!

後継者の皆様には朗報です。

 

実は、織田信長もれっきとした後継者なんです。

 

しかも、後継者時代には「うつけ者」「たわけ殿」(愚か者)と、親戚一同のみならず家来からも総スカンでした。こんな愚かな長男が継いだら織田家の将来が不安なので、弟の信行を後継者にしようという動きもあったほどです。

要するに、後継者時代の織田信長は家中から軽んじられ、馬鹿にされていたんですね。

 

なんか、そういう話を聞くとちょっと嬉しくならないですか(笑)

私は少し、嬉しくなったりします。

 

嬉しくなるところが、後継者の罠の一つなんですが(笑)

 

織田信長が「うつけ者」と呼ばれていたのは、考えていることや行動があまりにも独創的であり、合理的でありすぎて時代のはるか先を走っていたために、周りから理解されなかったせいですね。

そもそもが、私のような凡人とはスケールが違うので、比較のしようがないのに、ついつい比較してしまうところが甘いところです。とうてい信長になぞ、なれっこないのに…。

 

そんな、孤独な後継者時代を過ごした信長にも、理解者はありました。

 

一人は、実の父親である織田信秀です。

 

織田信秀も、同時代で見ると優れた武将であり、独立した戦国大名でした。領国は尾張国(今の名古屋付近)の一部で、織田の同族同士で領土を争っていましたが、知謀や武力に優れ、有力な部下を育成する力もあり、一代で織田家の中でも有力な存在へ勢力を拡大しました。

しかし、脳溢血(流行病とも言われている)で42歳の若さで世を去っています。

 

織田信秀は、長男信長の悪評を知っていながら、決して後継者の立場から外すことなく、隣国の美濃国(今の岐阜県)で強力な存在となりつつあった斎藤道三の娘と政略結婚をさせて、信長の地歩を固めています。周りの評判に流されることなく、自分の眼で信長の潜在的な能力について確信を持っていたのかもしれません。

 

もう一人の理解者は、その美濃国の斎藤道三でした。

 

斎藤道三は、戦国時代の代名詞ともいえる「下克上」(地位が低いが実力を持っている者が、地位が高いが能力の低い者に取って代わること)の例として語り継がれる存在です。

 

僧侶から商人になり、縁を頼って美濃国の家臣へと転身し、知謀によって美濃国の守護大名である土岐頼芸を追放して当主に上り詰めました。

 

斎藤道三の行跡は「美濃の国盗り」とも呼ばれていますが、近年では斎藤道三の所行は二代にわたるという説が有力になっています。

 

そんな道三が、先ほども申しましたとおり眼に入れても痛くないほどの存在であった娘、「濃姫」と呼ばれることになる「帰蝶」を信長に政略結婚で嫁がせることになります。

 

そこはやはり戦国時代、織田家に濃姫を送り込み、「うつけ者」と評判だった信長の代にあわよくば乗っ取ってやろうという計算ずくも道三になかったとは言えないでしょう。

 

縁談によりかつて戦った織田家との関係が縁結びによって改善した頃を見計らって、斎藤道三は織田信長との会見を申し込みます。

舅として、あるいはライバルの領主として、将来の領主の器を見極めてやろうと思ったのかもしれません。

 

会見は、お互いの国境近くにある正徳寺(聖徳寺)というお寺で行われることになりました。

 

斎藤道三は、忠実な家臣である猪子兵助らを引き連れて、密かに信長が通るであろう道中の小屋に隠れます。噂ではたわけ殿で名高い信長が、どんな格好で来るのか陰からのぞき見てやろうという魂胆です。

 

やがて現れた信長の姿は、やはりたわけ殿と評されるのにふさわしいものでした。

 

髪は茶筅髷(ポニーテールですね、要するに…)、上半身は浴衣を半身裸でまとい、刀はあろうことかわらの縄で腰に巻いて、腰回りには他に麻縄で火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴だったようです。前を向かず、半身でぶらぶら馬にまたがってゆらゆらとやってきました。原始人というか、野蛮人というか…

マジメな三つ揃いスーツの政治家の列に、ギンギラギンのふざけた格好をした暴走族のあんちゃんがひとり混じっているという感じといえば、わかりやすいでしょうか。

 

斎藤道三の家来たちは、これをみて一斉に吹き出し、「うわさに違わない愚か者でございますな!」と喜びます。

 

しかしながら、その中で斎藤道三だけは押し黙り、行列をじっと見つめています。

 

野蛮人の信長が引き連れてきた行列の槍は、鮮やかな朱塗りの三間半(約7メートル)で統一されています。一間半(約3メートル)が常識だった当時では常識破りな長さです。長い槍は、訓練されていない兵士でもそのリーチの長さを生かして驚くべき威力を発揮することができます。

 

さらに驚くべきは、その後に現れたおびただしい数の鉄砲隊です。戦国時代を終わらせることになる武器になりますが、当時では入手も困難で目が飛び出るほどの価格だった鉄砲を、これだけ揃えているような大名はそうそういません。

 

驚きを胸にしまいこみ、斎藤道三は会見に臨みます。

婿が珍妙な格好をしているのに、舅が正装をする必要もないだろうと、道三は普段着で座って待ちました。

 

そこへ、いよいよ織田信長が登場します。

 

その姿を見て、またもや道三はあっと度肝を抜かれます。

 

先ほどの野蛮人はどこへやら、髪をつややかに折髷に結い上げて、褐色の長袖に長袴、大小の刀をぴたりと帯び、これ以上ない見事な若殿ぶりで織田信長が現れました。

道三の前まで静かに歩みを進め、挨拶をして対面に座ります。

肩すかしを食わされてバツが悪い思いで苦虫をかみつぶした道三が、目の前に座っています。

 

無言のまま対面し、二人は別れます。

 

帰り道、道三は猪子兵助に信長を見た感想を尋ねます。兵助はにこやかに「殿にとっておめでたいことでございます」と、信長のうつけ者ぶりを揶揄します。

 

それを聞いた道三は、「おめでたいのはその方の頭よ。俺の子らはあのうつけ殿の門前に馬をつなぐ(家来になる)ことになるだろう」と呟きます。

 

舅である斎藤道三が、織田信長の資質を見抜いた瞬間でした。

 

二人の父、実父と舅に認められた織田信長は、信秀の死で織田家を継承し、尾張に責めてきた今川義元を桶狭間の戦いで打ち破り、斎藤道三の死後に美濃国を攻め取って、京都へと織田の旗を進める足がかりを作ります。その後の活躍は、歴史が証明すると通りです。その活躍を、後継者時代に認めてくれた二人は見ることはありませんでした。

 

でも、実父や舅が認めてくれたからといっても、信長が何もしていなかったわけではありません。

 

むしろ、周りの悪評をよそに、自ら信じるところに従って黙って努力し続けていたのだと思います。

 

自分なりに、合理的な軍備は何か、合理的な服装は何か、考えに考えてそれをつきつめたのが道三の見た信長の姿であり、当然にそのような努力は武将の後継者として必要な他の分野にも及んでいたことでしょう。

 

道三との会見の時も、おそらく信長は密かに道三のことを調べ上げ、隠れて自分の行列を見るだろうということ、あるいは会見で普段着で来るだろうということも予想して、計算してあのような行動をとったのでしょう。そして、賢明な道三はそのことにも気づいたはずです。

 

織田信長は、たとえうつけ者、たわけ殿と呼ばれようとも、必要なときが来れば抜くことができるように自分の心の刃、能力の刃を研ぎ続けていたのだろうと思います。

 

後継者は、いつ承継の時が来るかわからないのです。信長も、おそらく想定よりは5年くらい承継は早かったことでしょう。でも、事業承継は一日にして成らず。思い立ったときから努力し続けなければ、間に合いません。

 

皆さんも、周りにどう思われようとも、そのいつか、のために自分の心と能力の刃を研ぎませんか。

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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後継者の学校
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