「不遇のときに、後継者は何をすべきでしょうか」
私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。
今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。
その1回目は、不遇であるときに、後継者は何をしたらいいのだろうか、それを家康の人生から考えて参ります。
後継者の皆様
後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。
私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。
なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。
「後継者」とは、時と場合によっては、会社の中で中途半端な立場におかれて肩身が狭かったり、あるいは事業承継と言ってもなにをしたらいいのかわからない、というもどかしい気持ちでモヤモヤしていることがあったりするかもしれませんね。
まだ社長でもないし、かといって普通の社員とも違います。
将来、会社の社長になる予定の社員、と言えばいいのでしょうか。
考えれば考えるほど、モヤモヤしませんか?
でも、いつかは「その日」、会社を継いで社長として経営をしなければならない日は来るのです。
たとえ中途半端であっても、モヤモヤしていても、準備はしておく必要はあります。
そして、どんな状況であっても、その気さえあれば、やる気さえあれば、準備はできるのです。
現に、徳川家康はそれをやりました。
東海道新幹線の「のぞみ」に東京から乗車して、まもなく名古屋駅に到着するときに、必ず流れるアナウンスがあります。
「ただいま、三河安城駅を通過いたしました。定刻通り運行しております。まもなく、名古屋駅に到着します」
徳川家、かつての松平家の発祥の地は、この三河安城駅の近辺で、かつて「安祥」と呼ばれていたところです。
しかし、松平元康、後の徳川家康が生まれたときは、松平家にとって一大危機の時でした。
家康の祖父である松平清康は、優れた武将として領土を拡大しますが、戦いのさなかで部下に裏切られ25歳で急死し、その嫡男(息子)、つまり家康の父である松平広忠は、駿河国と遠江国(ほぼ静岡県にあたります)の大名であった今川義元を頼ります。
いわば、伸び盛りのベンチャー企業が、社長の急死によって老舗の会社の子会社になったようなものですね。
父の松平広忠も24歳で病死してしまい、まだ幼かった6歳の徳川家康は人質として今川家の本拠である駿府城(今の静岡市)に預けられてしまいました。
人質として駿府城では大事に扱われたものの、外出も自由にできず、常に周囲の監視の下にあったわけで、いわば「籠(かご)の中の鳥」みたいなものですね。
これ以上に、半端な環境というのもないように思います。
普通なら、その環境に絶望して、投げやりになったり、無気力になったりしてもおかしくはありません。
しかし、家康は違いました。
自分が人質に取られているおかげで、三河国の家臣たちは過酷な戦争にかり出されて命を落とし、あるいは今川家に自分たちの収穫を取り上げられて、貧しい生活を強いられているという噂を聞いていました。
自分は武将としてしっかりと成長して、いつか国許に帰って松平家を承継し、家臣たちのリーダーとして彼らを守らなければならない。
周りがどのような環境であっても、そういう自覚をしっかりと持っていました。
いや、持たざるを得なかった、というべきかもしれません。
優れたリーダーになるために、自分にできることはなんでもしなければならない。
しかし、行動の自由を奪われた家康にできることは、当然のことながら限られています。
今、自分にできることは何だろうか。
それは、身の回りにいる優れた人から「学ぶ」ことでした。
当時、今川義元の政治と軍事の右腕を務めていた、太原雪斎という今川家の重臣がいました。太原雪斎は、詩歌に詳しい教養人であると同時に、政治、経済、軍事、外交に明るい、いわゆる「軍師」のような存在でした。
世にも名高い「今川・武田・北条の三国同盟」をまとめたのも、太原雪斎です。
徳川家康は、太原雪斎を師として仰ぎ、リーダーになるための学問を授けてもらいます。太原雪斎も、家康の優れた資質を買っており、かつ熱心な学びの姿勢に心打たれ、行く末は今川家の頼もしい同盟者となってもらうべく、厳しく教育しました。決して長くない期間であったものの、家康は大名になるための基礎を太原雪斎からじかにたたき込まれました。
また、今川義元は、織田信長に討たれたために決して評価が高くない武将ですが、「今川仮名目録」という国を治めるための法律が残っているように、優れた統治力を持っていました。
徳川家康もその影響を受け、後に自らもしっかりとした法律に基づいた政治を行うようになります。
今川義元と太原雪斎。人質でありながら、徳川家康は彼らから大名として生きていくための手ほどきを受け、後に独立した時にそれを見事に生かしていくことになります。
また、家康の優れた人から学ぼうとする姿勢は、終生変わることはありませんでした。後に同盟を組むことになる織田信長や豊臣秀吉、あるいは若い家康にとって強大な敵であった武田信玄からも、そのいいところを必死になって取り入れようと努力しました。
徳川家康は、人一倍素直であるという優れた資質はありましたが、決して天才的な人物ではありませんでした。かつ人生のスタートは人質という、極めて不遇な環境でした。
しかし、周りの優れた人たち、時には家臣からも、必死になって学んでいくことで、彼は三河の田舎領主から天下人へと登り詰めていったのです。
後継者の皆さん!もし、不遇であると思うならば、あるいはなにをしたらいいのかわからないならば、それが「学ぶ」に一番いいときなのかもしれません。
ただし、「学び」はその内容も重要です。事業承継を学びたいと思っていらっしゃるのであれば、後継者の学校は最適な学びの場であると自負しております。
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