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歴史に学ぶ後継者経営 真田丸④(真田昌幸)

samurai

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナー、今年はすっかり「真田丸」ウオッチャーとなっています石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

ようやく、数ヶ月にわたって(ブログはたったの4回ではあるのですが(汗))、見て参りました「真田丸」も、今回で一応区切りになります。

 

前回まで、主家であった武田家が滅び、自分の居城である岩櫃城へ帰って知謀を巡らせた上で自らを織田信長に首尾良く売り込んだところまではよかったものの、本能寺の変により再び戦国の混乱に巻き込まれて、すっかり困り果てた真田昌幸の去就を見て参りました。放映されたのは、もう半年前になるのですが…(汗汗)

 

ところで、真田昌幸が巻き込まれた、本能寺の変に端を発する甲信地方の混乱は、「天正壬午の乱」と呼ばれています。天正10年(1582年)の干支が「壬午」だったからです。

これは、どのくらいすごい混乱なのでしょう。おそらく、こないだのリーマンショック程度は、「乱」とさえ言われない程度のものかもしれません。少々ショックは強かったけれども、単なる景気変動に過ぎないからです。

「乱」というのは、あらゆる秩序が失われ、人々がお互いに疑心暗鬼に陥って、明日生きていけるかわからない、そういう状況をいうのでしょう。「真田丸」でも、信之と信繁が人質を伴って新府城から岩櫃へ落ち延びる道中は、命と財産を狙われる危険に絶えず襲われていました。そんな思いをしてたどり着いた岩櫃城は、新府城や安土城に比べれば粗末でみすぼらしかったとしても、どれだけ心強い存在だったでしょう。

 

そのような極限の状況の中で、家族と家臣と国人たちを敵から守らなくてはならない、しかし味方はおらず見渡せば皆敵ばかりにみえる状況の中で、真田昌幸が背負っていた責任感とプレッシャーはいかほどのものか、それもまた穏やかな時代に生きるわたしたちの想像をはるかに絶するものがあります。

その中でいかに的外れであったりピントがはずれていたり、あるいは臆するような行動を取ったとしても、決して責められるべきではありません。とはいえ、事態を打開しなければ、武田のように真田も滅び、真田親子の首は桶に入れられて見世物としてさらされるのです。そのような時代でした。

 

さて、本能寺の変で自分の知謀で勝ち取ったと思ったものが全てひっくり返された昌幸は、自らの知謀でさんざん振り回して心に傷を負わせた信之に助けを求めます。

昌幸から見ると、信之(源三郎)は杓子定規で考え方が硬いように思われ、逆に信繁(源二郎)は素直で知恵が回るけれども、思慮深さに欠けるように感じます。いずれにしても、まだ自分の手足になるには両人とも頼りない存在。

しかし、この絶体絶命のピンチの場面で、昌幸は二人から起死回生の大事な気づきを得ることになります。

 

昌幸から意見を求められて、信之は「我らは織田家についたのだから、家臣としての道を貫き、滝川一益を助けて明智を討伐し、織田信長の仇を討つべき」と進言します。信之は常に、まっすぐな原則論、王道を述べるんですね。そこが昌幸から「面白くない」と酷評されるゆえんですが。

しかし、このまっすぐさが昌幸の琴線に触れることになります。ずっと、大名たちの裏をかくことに熱中するあまりに、すっかり策におぼれかかっていた自分の現状に気づかされるのです。

昌幸は言わんことか「なぜ、もっとそれを早く言わない」と信之をとがめます。信之は立腹して「ずっと、申しておりました!」と返しますが。そりゃ怒りますよね。信之はぶれていないのですから。

 

真田昌幸は、信之の進言に従って滝川一益に助太刀を申し出ますが、それまで散々に策におぼれすぎたしっぺ返し、一益から信用されず逆に人質を求められてしまいます。こうしてみると、自分の策謀は全く的を射ていなかったことに改めて気づかされるのですが、それでもそのことに気づかないよりはよほどにいい。

ただし、いざというときのために、巨大な勢力である北条にも真田信伊から気脈を通じておく策も忘れないのですが…

 

そこへ、安土から真田信繁が命からがら逃げ帰ってきます。一緒に人質として同行していた姉の村松殿を護りきることができず、すっかり意気消沈して帰ってきます。

昌幸も、羽柴秀吉が明智を討滅したとの報を聞いて、滝川一益が天下を取る目がなくなったことを嘆きます。

「わしの肩入れした者は、ことごとく運を逃す。源三郎教えてくれ…わしは、疫病神か?」

自分が頼ろうとした大名たちは、ことごとくつまづいてしまう。いったい、この先誰に頼ればいいのか…

 

お互いに意気消沈した二人は、示し合わせたわけでもないのに物見櫓へ登ります。

 

そこからは、はるかに真田の里が見渡せます。

 

信繁は、「ここで姉上と追いかけっこをしておりました…」と述懐します。

 

昌幸は、「力が欲しいのう…織田や北条や上杉と対等にわたりあえるちからが…」と自らの悲運を嘆きます。

 

二人は、それぞれ違った思いを胸に真田の里を眺めます。

 

落ち行く夕陽が差し掛かる、信濃の雄大な山々の美しさ、細やかに手入れがなされたまばゆいような田園風景、もう少しすると豊かな収穫をもたらすであろう畑と甲斐甲斐しく働く百姓の姿、路を盛んに行き交う行商たちの列、そして戦国のなかにあって無邪気にじゃれあう元気いっぱいな子供たち…

 

信繁が、独り言のように

「私は、この景色を見るといつも思うのです。たとえ領主が変わっても、この信濃の景色が変わるわけではない。いつも静かに、あの山々はそこにある。人間のいさかいを笑っているように。

私は、この景色が好きです。信濃は、日本国の真ん中ですから。信濃に生まれたことを、誇りに思います。

父上の子として生まれたことを、誇りに思います」

 

昌幸は里を眺めながら、電気で打たれたようにはっと気づくのです。

 

力がない、と思い込んでいたのは自分だと。

なぜ、北条も上杉も徳川も信濃をうかがうのか。

信濃が豊かな土地だからだ。信濃を欲しいからだ。

信濃には、よい材木が獲れる山々がある。それを運ぶ川も流れている。よい馬も育つ。

街道が通り、人が集まる。東と西を結ぶ、要の土地なのだ。

力がないなんてとんでもない、この信濃がある限り、自分たちは大名たちと対等にわたりあえるのだと。

 

そして何よりも、真田には人がいる。真田を信頼して慕ってくれる民たち、武田に比べれば土臭いけれども忠誠心のあつい家臣たち、そして父親である自分を誇りに思ってくれている息子たち。

これ以上、自分は何を求めるのだと。十分すぎるほどではないか…

 

真田昌幸は、決意します。

 

もう大名たちの顔色をうかがうのはごめんだ。信濃を使って、餓狼のように欲深な大名たちを操ってやる。隙あらば打ち倒す。

そして、この真田をなんとしても守りきってみせると。

大ばくちを打ってやる!と覚悟を決めます。そう、やっと腹が据わったのです。

 

腹が据わると、不思議なことに迷いが消えて、どんどんと打ち手が出てくるのです。これまでのように、周りが困惑するような策ではなく、味方を生かし敵を縦横無尽に欺く打ち手が。策ではなく知謀がわいてくるのです。

息子たちや家臣が昌幸を見る目も変わってきます。父を見上げる信繁の目が輝いてきます。それまで疑いと戸惑いで父を眺めていた信之も、信服するようになります。

 

それにしても、これまで真田昌幸のやることなすことは、なぜ空回りしてしまったのでしょうか。

それは、自分は力のない、誰か大きい勢力に頼らなくては生き延びられない「国人」だと思い込んでいたこと、つまり国人としての「自己概念」で行動していたからだと思います。

 

しかし、国人として行動すると打ち手は限られるんですね。誰につけばいいかをまず見極めなくてはならないし、その相手の力と心理を読まなくてはならない。

これは、安定した状況で力関係がはっきりとわかるのであれば、ある程度打ち手は明確になりますが、天正壬午の乱のような混乱の極みのなかでお互いに疑心暗鬼になっている状況では、ほとんど打ち手がありません。選択肢が少なければ、どんなにすごい知謀の持ち主でも、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

でも、自分に軸を持ったちからのある大名であればどうでしょうか。そのちからを生かしていけば、どんなに周りが混乱していても打ち手はあるものなんです。

 

真田昌幸は決してちからがないわけではなかったのです。それに気づかなかっただけなのです。でも、すっかり自分を国人だと思い込んでいて、自分のちからをありのままに見ることができなかったのです。このように、周りとずれている自己概念、自己認識で行動していると、現状を変えることはなかなかできないのです。

 

でも、策を考えるのに疲れ果てて、ゼロベースに立ち返って真田の里をぼんやりと眺めたおかげで、昌幸は自分の持っているちからを客観的に見ることができたのです。

 

つまり、真田昌幸は自己を客観視することによって、自己概念が変わったということなんです。

もっと言えば、自己概念が「国人」から「大名」へと成長したのです。

 

会社で例えると、課長から部長、部長から社長へ成長するように。ここで言うのは地位ではなくて、「自己概念」ですが。

いや、戦国にあっては、もっと切実なことかもしれません。もし真田が大名にならず国人の自己概念のままであれば、大名たちに引きずり回された挙げ句に滅亡したかもしれないからです。

 

自己の客観視によって、自分が持っているちからを正しく把握することができる。ちからがあるとわかれば、「決意と覚悟」も定まります。ちからがないのに覚悟って定まらないと思いませんか。例えば、借金ばかりあって売上がない会社を継ごうと思っても、覚悟ってできませんよね。昌幸も同じです。国人ではとても頼りなさ過ぎて覚悟なぞできなかったけど、「ああ、信濃って実は恵まれた国なんだ。それを押さえてる自分には立派なちからがあるから、大名に頼らなくても自立できるんだ」と覚悟が定まり、「よし、絶対に奴らには負けない!真田を守りきってみせる!」と決意ができたのです。

 

真田昌幸は、こうして「国人」から「大名」へと成長して、天正壬午の乱を乗り切り、上田城の戦いで徳川軍を打ち破って、戦国に一躍その名を轟かせることになるのです。

 

こうしてみると、正しい自己概念を持つことはすごく大切なことですね。自己概念が変わることで、現状への意味づけが変わり、自分の行動が、目の色が段違いに変わるのです。後継者の学校では、キャリアの視点から後継者の「自己概念」に切り込むプログラムを準備しています。これって、すごいことなんですよ。期待してもらって全然構いませんよ。期待してください!

 

ブログを読んで興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非後継者の学校の説明会にご参加下さい。

その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

事業承継に関する自身の悩みが整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

後継者の学校
http://school-k.jp/

 

歴史に学ぶ後継者経営 真田丸③(真田昌幸)

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私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、「真田丸」から題材をとって、真田昌幸の後継者としての成長を見て参りたいと思います。真田丸、お勧めですので見てください。昌幸、信之、信繁それぞれがそれぞれの承継をしていきます。

後継者の学校パートナー、この頃はすっかり「真田丸」ウオッチャーである石橋治朗です。

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

前々回からの続きで、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」を取り上げて、後継者のあり方を考えてみたいと思います。

今回取り上げるのは第6話くらいまでですね。前回からも時間がたってしまい、既にだいぶ昔の話ですので、ご覧になられている方はもう忘れちゃったよ、と思われるかもしれませんが、どうかおつきあいください(汗)。

 

さて、前回は「真田丸」以前の真田家の話、当時真田家が置かれていた環境や歴史について、少し説明させていただきました。今回から、いよいよ「真田丸」での真田昌幸について、お話ししたいと思います。

 

武田家が滅び、真田昌幸は本拠である岩櫃城へ戻って今後の方針を考えます。

 

ただし、真田家は独立した大名ではなく、「国衆」と呼ばれる地方の有力者の一つに過ぎません。信濃の大名は武田家であり、国衆はその武田家に協力する代わりに庇護を受けている、いわば大企業の系列会社のような存在でした。「国人」とも言われたりします。

大名から見ると、国衆は平時には自分の手の届かない地元住民を代わりに治めてくれて、合戦になった時には兵士を連れてきて一緒に戦ってくれる頼もしい存在である一方で、いつ何時敵方にいつ寝返るかもわからない存在でもありました。自分の家臣とは違って、人質を取って警戒する一方で、丁重に扱っていたようです。「真田丸」の中で、武田勝頼が真田昌幸の人質を解放したのは、いかに昌幸が勝頼から信頼され感謝されていたかを示すエピソードです。

 

また国衆にとっては、大名は自分たちを守ってくれる、頼れる存在でした。

それがいなくなってしまったのですから、一大事です。

 

まして、真田家が治めていたのは信濃から上野(今の群馬県)にまたがる地域であり、北は上杉、上野の南には北条、甲斐国(今の山梨県)からは織田が迫ってきていて、元々は武田家の敵方になったり同盟を組んだ相手だったりと、過去のいきさつが複雑な相手ばかりに囲まれています。一方と手を組めば、他の相手を敵に回すことになる。しかも過去のいきさつから考えると、手を組んだ相手が100%信頼できるとはとても言えない。

 

このような困難な「外患」(外からの脅威)に加えて、真田昌幸は「内憂」も抱えています。国衆たちです。

武田家からは、真田家が有力な国衆であると扱われていましたが、それはあくまで武田家内部の話で、当の国衆たちはそのように思っていません。人によって違いはあるものの、真田家を含む北信濃と上野の国衆は皆平等な立場だと認識しています。特に「黙れ、小童!」の室賀正武ですね(笑)もう、古いですが…(汗)

 

従って、昌幸がいろいろな案を出しても、自分の利害やメンツにとらわれて全くまとまりません。

 

また、当の真田昌幸はどうだったのでしょうか。

 

前回申し上げましたとおり、真田昌幸は外様でありながら、武田家のエリートコース、大企業で言うとオーナー一族の親類にもなれるチャンスがありました。そこから兄たちの死や武田家の滅亡によって、一気に中小零細企業のような真田家の当主に「落ちぶれた」わけです。

 

そういう経験をした真田昌幸の意識って、どうでしょうか?想像してみてください。

 

自分や自分の周りの全てが武田家に比べると頼りない存在だなあ~と、思ってしまうのも無理はないですよね。

 

武田一族や家臣たちに比べると、意識も能力も低いのに我欲だけは一人前な国衆たち。

完成前だったが立派だった新府城に比べると、貧弱そのものの岩櫃城。

広大な領土と金山(「真田丸」では触れられていませんが武田家の財力を支えていた)を持っていた武田家に比べて、真田の領土は貧しく兵士も少ない。

そして、自分の危機感をよそにわかりきってることばかり言う長男と脳天気な次男坊。

 

「真田丸」の真田昌幸は、胡桃をもてあそびながら独り苦悩します。

自分が頼ることができるのはなにもない。頼れるのは、武田信玄の薫陶を受けた己の知謀のみ。この知謀でしか、この難局は打開することができない。そう思い込んでいます。

 

でも、果たして本当に、そうなのでしょうか。昌幸は自分の知謀しか頼ることができないのでしょうか。真田家はよるべなき存在なのでしょうか。

 

ところで、皆さんは「キャリア理論」というものをご存じでしょうか。

古い話をしていたのに、突然「キャリア」とかカタカナ用語を持ち出して、ごめんなさい。

でも、この時期の迷っている真田昌幸を考える上で、「キャリア理論」を使うのが非常にぴったりなのです。

「キャリア理論」とは、「キャリア」に関する理論ですね。当たり前か。

「キャリア」とは、皆さんご想像の通り狭い意味では「職歴」「経歴」を意味しますが、本来はもっと広い、人の「人生」について考えるものなのです。仕事も含めて、どうすれば自分の人生を有意義なものにすることができるのか、それをいろいろな人が考えている、非常に奥の深い学問です。決して、大学やハローワークの「就職相談」だけではないのです。

 

その「キャリア理論」で非常に大切な概念として、「自己概念」というものがあるのです。「自己概念」とは、文字通り「自己」に関する「概念」です。これも当たり前か。

非常に簡潔に言ってしまうと、自分や自分に近い人たちは、自分をどのようにとらえているか、考えているのか、ということです。家族をみてみると、親は自分を自分の子供の親と考えているし、子供は自分を親の子供と考えています。これはあまりいい例ではないかもしれません。会社で言うと、新入社員は新入社員としての、課長は課長としての、社長は社長としての自己概念を持っています。

 

自己概念の重要性は、自分をどうとらえているかというそのものよりも、自分をどうとらえるかによってその人の行動に影響を及ぼす、ということにあります。新入社員は新入社員の行動をしますし、課長も社長もそれぞれ課長と社長の行動をします。もしも、ここで新入社員が社長のような、あるいは社長が課長のような行動を取ったらどうなるでしょうか?自分も周りも混乱しますね。自己概念が自分の行動や周囲と一致していると、割と物事は上手くいきますし、不整合を起こしているといろいろなあつれきが起こったり、自分のしたいことがうまくいかなかったりします。

自己概念は、本当はもっと深い概念なのですが、今回はこの辺にしておきますね。

 

さて、この「自己概念」という考え方を真田昌幸に当てはめてみるとどうでしょうか?

 

昌幸は、先ほども述べたとおり真田家を「頼りない、ちからのない“国人”」ととらえています。昌幸の場合不幸なのは、かつて強大な武田家の一族に連なるところまで登り詰めたところから、あれよあれよという間に地方の一豪族の当主にまで身を落としてしまったという意識があるために、余計に真田家を小さい存在だととらえてしまっているのですね。

 

それを示す象徴的なシーンがあります。

 

昌幸は、信之(源三郎)に「わしは海を見たことがない…山育ちだから」と述懐します。そして、「国衆(国人)は、力のある大名にすがるしかないのだ…」と呟きます。

しかしながら、武田家で武藤喜兵衛のときに、昌幸は家康を三方ヶ原の戦いで追い詰めていたはず。三方ヶ原は浜名湖の東側にあり、海はすぐそこです。信之からそれを聞かされた高梨内記も「そんなことはないはず…」といぶかります。

ここで「海」とは、「港」のことなんですね。有力な大名は、交易の拠点となる良港を有していました。武田信玄は、清水港が欲しいがあまりに、同盟を破って今川を攻めたくらいです。

自分は国衆であり、国衆は大名にすがるしかない、という自己概念から、思わずこのような一言が出てしまったのですね。

私も、これを聞いていて思わず膝を打ってしまいました。三谷幸喜、芸が細かい!と。

 

そのような自己概念を持っていると、どうなるでしょうか。昌幸の行動は「国人」という枠に押し込められて、いや自ら押し込めているために、非常に選択肢が少なくなってしまいます。そのような状況では、得意の知謀も飛躍のためのつばさを失ってしまっているも同然です。

 

武田が滅亡し、織田が攻めてきているいま、北の上杉に掛け合うか、北条に頭を下げるか。

 

真田昌幸は、皆の意表をついて、敵方と思われた織田に売り込んで、見事に成功させます。それはよかったのですが、一本気だけれども少々知恵の回らない長男を謀略のだしにつかい、心に傷を負わせてしまいます。得々としている父親を見て、源三郎は情けないとともに不信感を抱きます。昌幸は確かに、知恵は回るけれども、なぜかそれに心から納得することができない思い。なぜなんだろう…

 

織田信長に、真田家を高く売り込んで得意の絶頂にいた昌幸に、しかしながらこれ以上ない天の鉄槌が下ります。

 

本能寺の変!

 

真田昌幸が「知恵」を絞ってこねくりあげたものが、全て粉々に砕け散ります。

 

源三郎と二人になった昌幸は、こともあろうにもてあそんだ長男に対して「俺はどうしたらいいんだ!」とすがります。どの面下げて、とはこのことですが…

でも、ここで徹底的に、心の底から自分の「知恵」に自信を喪ったことが、昌幸が変わってゆくきっかけとなります。

そして、二人の息子たちが、昌幸を変えていくのです。

二人のそれぞれの個性で…

 

変わった真田昌幸は、国衆としてうろうろしていた真田家を、戦国を生き抜いて明治まで続く大名へと変えていきます。

 

ようやく、次回完結編です。

 

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その前に、まず後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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後継者の学校 http://school-k.jp/