カテゴリー別アーカイブ: 後継者の覚悟

桜の時期に思い出したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

北陸や北海道に大雪をもたらした三十数年ぶりという寒さの冬も3月終盤ともなれば、例年よりずいぶん早く桜がほころび、この原稿を書いている今日あたりは、ここ千葉県でも桜が5分咲きになっています。東京では、すでに満開を迎え、上野公園などの花見の名所の盛会ぶりをニュースは伝えています。

「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子を食べて花の下を歩いて絶景だの春爛漫だのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html)

これは、山賊と美しい女を描いた坂口安吾の短編「桜の森の満開の下」の冒頭部分です。

山賊は旅人を襲い、女のあまりの美しさに夫を殺し、その女房を奪います。女は、殺された夫の仇を取るかのように、夫となった山賊に我儘を言い続けます。まず、手始めに山賊が旅人から奪った7人の妻のうち、老婆以外の6人を殺させ、その後も、京の街人の死体を求め続けるのです。

山賊は、満開の桜の木の下で感じる不安と、美しい彼女に自分の肚を知られる恐怖とを胸に抱きながら女の我儘に従い続けます。そして、山賊は、女を殺すことを考えますが、決断できません。

あるとき、花盛りのふるさとの山へ帰ることを決意します。すると、女は、山賊の心変わりに鬼となって山賊に襲いかかりますが、山賊は鬼を殺してしまいます。鬼だと思った死体は女となって横たわっています。女を失った後、男が感じた不安や恐怖は孤独だったのかもしれないと気づきます。女を失い本当に孤独になった男は、温かい気持ちに包まれます。もう孤独を恐れることはないのです。男と女の上に桜の花びらが降り注ぎます、女の体も、女の体に降り注ぐ花びらをかき分けようとする男の手も身体も消えていました。

猟奇的ともいえる要求をする女の心の内は、夫を殺された恨みだったのでしょう、むごたらしいこともいとわない山賊の心には深い孤独が宿っていました。それは、彼が桜の木の下で感じる孤独と同じ孤独が花見の喧噪に酔う現代人の心にひそんでいると安吾は言いたいのかもしれません。

安吾は、日本人について「我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約とは逆なものである」といい、また、「歴史は常に人間を嗅ぎ出している。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、洞察の結果である点に於いては全く人間的なものである」((「堕落論」青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html)ともいいます。

「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ」「人間は正しく堕ちきる道を堕ちきることが必要なのだ。・・・堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければならない。」と、安吾は堕落論を結んでいます。

無頼派といわれた安吾がいう、「正しく堕ちきる」には、人間の孤独や恨み、人性への深い洞察が必要なのだろうと思います。

そして、僧侶松原泰道師

「花が咲いている 精いっぱい咲いている 私たちも 精いっぱい生きよう」(松原泰道)

(「致知」2016.2 鎌倉円覚寺管長 横田南嶺「願いに生きた禅僧たちの知恵」より)。

深く人を見つめる目線の先には、同じものが見えているように感じるのは私だけでしょうか。

私たちも、人の弱さや悲しみを全て乗り終えてこんな境地になれれば、きっと良い会社になると思います。

後継者の学校

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ピョンチャンオリンピックで一番感動したこと

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

ピョンチャンオリンピックが終わりました。わが日本としての結果は、冬のオリンピック史上最高のメダル獲得(金メダル4個、銀メダル5個、銅メダル4個)がという結果で、事前の予想を大きく超える盛り上がりでした。

オリンピックは、スポーツの素晴らしさやその舞台にかけた選手たちの物語に心を打たれるシーンを常に用意してくれます。今回も、スピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒選手がレース後、銀メダルに終わったイ・サンファ選手の肩を抱き健闘をたたえる姿、4年越しの銅メダルを獲得した高梨沙羅選手を抱きしめて祝福する伊藤有希選手を見て感動した!方が多かったのではないでしょうか。

その他にも数々の感動シーンがありましたが、今回取り上げるのは平野歩夢選手(19)です。

皆さんもご存じのとおり、彼は、スノーボードハーフパイプで銀メダルを獲得しました。

彼は、前回、ソチで銀メダルを獲得しているので、15歳の頃から世界の実力者であり続けたのです。2017年3月の大会で、左ひざ靭帯と肝臓を損傷する全治3ヶ月の大けがを負い、それから1年足らずで、彼の実力を世界に示す銀メダルだったのです。

スノーボードといえば何年か前の大麻吸引事件のイメージからか、おじさんとしてはあまり良いイメージではありませんでした。実際、テレビに移される平野選手はピアスをした現代っ子で、近頃の若いもんそのものという印象でした。

発する言葉も「まわりを黙らせるすべりをするしかない。狙うのは金メダル」と強気の発言、「もう少し謙虚な発言はできないのか、若者よ」と、私。でも、口調はあくまで穏やかです「!?」。「この子、いや、この青年、本当はすごいかも」

そして、別のインタビューでは、ここで「イェーイ!とか言いましょうか」との問いに「いえ、僕はそういう人間ではないので」と断る場面に出くわした私は、「歩夢ファンになるかも。」と、印象が変わっていきました。

そんなこんなで、迎えた決勝では、「ダブルコーク1440(4回宙返り2回ひねりということらしい)」という、世界でもできるのは2~3人というわけのわからない大技を2回連続で成功させ一時トップに出ますが、最後に、第一人者のショーン・ホワイト選手に逆転されて、惜しくも銀メダルに終わりというものでした。

昨年の大けがは、ダブルコーク1440(「せんよんひゃくよんじゅう」ではなく「フォーテーンフォティ」と読みます、念のため。)にチャレンジした際に起きたアクシデントだったそうで、恐怖もあったはずのその技をオリンピックの大舞台で2回も決める精神力の強さはさすがと言わざるを得ません。

試合後のインタビューです。「前回も銀で、上を目指すために4年間練習してきたので、ちょっと悔しさも残っているが、自分が今できる範囲の中では、全力でやれたのかな、と素直に思う。楽しかったです。最後の3人、みんな争って、最後の順番もいい並びというか。今までイチの大会だったと思う。本当に、全ての人たちに、感謝しかない。終わってみて考えると…。その力が今回、この大会でも結果になったのかなと思う。」(https://matome.naver.jp/odai/2151921022199982301

平野歩夢、高梨沙羅、伊藤有希、高木美帆、高木菜那…女性ばかりになってしまいましたが…。渡部暁斗さんも言葉もすごかったけれど、骨折していたことを明かさなかったのもすごいというより、美しい!彼の美学なのでしょう。

選手一人ひとりに、悔しさや挫折があり、選手の数だけの物語が詰まった2週間余が過ぎた今、祭りの後のうら寂しさより、日本の若者はことのほかの(失礼)素晴らしさが残った大会でした。

社長、人が育つには挫折も時間も必要です。だから、渡すための時間と心と環境の準備が肝心です。

大塚家具の顛末から見えてくるもの

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

2015年の(株)大塚家具の事業承継を巡る騒動から3年が経とうとしています。

今年になって、当時の主役 大塚勝久氏(匠大塚会長)が、ダイヤモンドオンライン(“父娘げんか”を経て語る「事業承継ここを誤った」http://diamond.jp/articles/-/155073(以下「ダイヤモンド」))で心情を語っています。

現在、大塚久美子社長率いる大塚家具は、昨期決算(2016.1.1~2016.12.31)で46億円の営業損失を計上し、今期も赤字決算となる見込みです。一方、「大塚家具との争いにならないよう、・・・ぶつからないようにしてきた」と、古巣に配慮してきた勝久会長も苦しい戦いが続いているようです。

大塚家具は、入店時に作成する顧客ファイルによる個別対応で、新婚夫婦や新築時のまとめ買いによって売上をのばしていましたが、2001年(売上高731億円、経常利益76億円(Kabutan 、https://kabutan.jp/stock/finance?code=8186))をピークに徐々に売上を落としていきます。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

2008年、勝久氏は、それまでの不良資産を整理したうえで(経常利益→当期純損失計上)、久美子氏への社長交代を決意します。久美子氏は、会員制を廃止し、カジュアル路線へ舵を切るものの、グラフにあるように業績は改善しません。そして、長男勝之氏の人事を巡り両氏は対立し、久美子氏解任、勝久社長の再登板、勝久社長解任、久美子社長再登板と皆さんご存知の顛末に至った訳です。
大塚家具が苦しむ中、ライバル「ニトリ」は順調に売上を伸ばし続け、小売業界に君臨する大企業に成長しました。

(有価証券報告書から筆者作成)
(有価証券報告書から筆者作成)

大塚家具の苦戦については「ライバルであるニトリの事業ドメインが優れていた」「商品回転率がニトリの方が短く効率が良い」「リーズナブルで統一感のある品揃えがクロスセリングを導いている」とニトリの優位性を説く

意見や「カジュアル路線はニトリとの競合に勝てなかった」「会員制の廃止で来店客が増えたが、販売員のクロージングが甘くなり、成約率が低くなった」と、大塚家具に原因を求める考えなど外野の経営学者諸氏の意見はいろいろです。

住宅着工件数の減少や少子化晩婚化など社会構造の変化、リーマンショック、消費税アップ、失われた20年といわれる経済状況がありますが、方や中国等の海外で安価な家具を製作し家具業界のSPAともいうべきニトリに対し、高・中級家具を軸とし国内メーカーの家具を販売する大塚家具や匠大塚のビジネスモデルや財務指標を比較してもあまり意味がないのです。

両社の決定的な違いは、まさに事業承継にあったのです。

大塚家の5人の子供は、「自慢の子」で、「大塚家具のために役に立つだろう」と「長女は経済、長男(匠大塚の勝之社長)は彫刻科、二女は法律、三女が芸術学部、次男が建築」を専攻、勝久氏も、「資産管理会社の株を兄弟5人で均等に」分割します。娘に社長を譲るときも、父は、不良資産を精算して引き渡しました。久美子氏も、「誰かに代わってもらえるなら、代わってほしいと思いましたよ。」と述回するほど、平穏を求める仲の良い家庭でした。ところが、父は、会社を追われ、従業員は娘の会社を去ってしまったのです。

 

これに対し、ニトリは、創業社長の父義雄氏が1989年に亡くなった際、その遺産の不動産を母みつ子氏が、現社長の昭雄氏が株式を、他の弟妹が現金を相続しました。ところが、2007年になって、昭雄氏は、相続時の遺産分割協議書は偽造だとして、母や弟たちから告訴され、(一審は昭雄氏勝訴、その後和解)兄弟は会社を去ってしまいます。

この顛末のどちらの主張が正しいのかは別にして、少なくとも株式の全てを確保した昭雄氏が、強力な意志と力をもって、ニトリという会社に対したことがうかがえます。だからこそ、強力に「SPA」路線を進められたのです。

株式を分割した大塚家具に対し、集中させたニトリ。

お金を持った久美子氏の大塚家具は、従業員を失い、販売員のクロージングの悪化で売上を落とし、勝久氏の匠大塚は資金枯渇に苦しむことになります。

一方、ニトリの昭雄社長は、家族をだましても(あくまで、みつ子氏の弁ですが)株式という権力基盤を得、今の隆盛を迎えます。

 

事業承継を考えるうえで、決定的に重要な要素がこの両社の騒動の中にあります。

①人は善意や合理的考えだけで動くものではなく、むしろ、往々にして善意から悪意が生まれ、合理性からは不合理な結末がもたらされること。

②そのような顛末を収拾、整理するためには力が必要であり、事業承継の場合は、株式がその力を与えてくれる手段であること。

③ただし、力の本当の根源は、会社を乗っ取るという強い意思の力であること。

ただし、友好的に。

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※SPA(Specialty store retailer of Private label Apparel: 企画から製造、小売までを一貫して行うアパレル業界のビジネスモデルのこと。製造小売ともいう。ユニクロが有名)

 

 

独立しようとするときに、後継者は何をすべきでしょうか|歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡③

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

久しぶりの2回目は、独立できるようなチャンスが到来したときに、後継者はどのような振る舞いをすればいいのか、それを家康が実際にとった行動からヒントを得たいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者、あるいは後継者以外の経営者でも同じですが、ふとしたときに大きなチャンスが転がり込んで来ることがあります。ずっと親会社に首根っこを押さえられていた状況から解放されて独立できるような、ある意味で人生を変えるようなチャンスが巡ってくるとき、それが思いがけないことであればあるほど、かえって戸惑ったりもします。あるいは、有頂天になってしまって、後で思わぬ失敗を招いてしまうような行動をとってしまいかねないリスクもあります。

 

このようなときに、何を心がけて行動すればいいのでしょうか。

この場合に注意すべきは、地に足をつけた行動をすることですね。

地に足をつけた行動とは、受けていた恩や義理を忘れないように心がけることです。

そうすれば、大きな失敗をすることはありません。

徳川家康は、賢明にもそのように行動しました。

 

それは、かの名高い「桶狭間の戦い」の時です。

 

よく知られているように、尾張国(名古屋市周辺)へと進出してきた今川義元の軍勢を織田信長は迎え撃ち、桶狭間と呼ばれる地において奇襲攻撃をかけて、今川義元を戦死させました。

 

このときに、徳川家康は三河国の家来たちを率いて、今川勢の一番先頭に立って激戦を交え、大きな手柄を立てます。

しかし、後方で今川の軍勢が負けて逃げ帰ってしまったため、前線で置いてきぼりとなってしまいます。幸い、織田信長は今川義元を打ち破るので精一杯で、孤立した家康の軍勢を攻める気配はありません。

 

前回申し上げましたとおり、三河国は今川家の子会社みたいなもので、その支配のもとに戦争のたびに便利使いされるような扱いを受けていました。

しかし、力を持った武将であった今川義元が倒れ、後継者として今川氏真が後を継ぐこととなります。今川氏真は、蹴鞠(サッカーのような遊戯)が得意だけの、極めて凡庸な武将でした。

今川家も、義元の急死により、大混乱のなかにあります。

 

夢にまで見た、戦国大名として独立できる、これ以上ない千載一遇のチャンスとは、まさにこのときのことです。

今川家が三河国の徳川家(当時は松平家)を支配するに至った経緯は、弱みにつけ込んだ不当なやり方であって、逆に今川家に弱みがある今このときに、徳川家康が独立しても、決して攻められる道理はありません。むしろ、戦国の世においては賞賛される行動でしょう。

 

では、徳川家康はどのように行動したのでしょうか。

 

家康は、自分の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)には帰らずに、織田家との前線にずっと居続けました。というのも、岡崎城には今川家の家臣がいたからです。

今川家の許可が出ないので、岡崎城には入らない、という理由です。

家康は、今川家が危機に陥ったからといって、手のひらを返すような行動は慎んだわけです。

 

それどころか、三河国にある織田家の砦などを攻撃し、今川氏真にも「是非一緒に、今川義元の仇をうちましょう。私が先鋒を勤めます」と催促します。

 

手のひらを返すどころか、今川義元から受けた恩を返すような行動に出ました。

味方である今川家からは、「お若いのに、なんと義理堅い律儀な三河殿(家康)」との評判を得ます。

 

もちろん、この家康の行動には二面性があります。

今川家からは、こき使われもしたけれども、織田家からも守ってもらったわけで、その恩と義理はあったわけです。それは、たとえ状況が変わっても、守らなくてはならないものです。

一方で、今川氏真が噂通りには暗愚ではなく、もしかすると隠れた能力をもっているかもしれません。それを確かめるまでは、軽率な行動は慎まなくてはならないのです。仇討ちの催促をしたのは、そこを確かめる意味合いもありました。

 

このときの家康の行動は、味方だけではなくて敵方も注視していました。

織田信長ですね。

織田信長は、三河国の武士の強さに舌を巻くと同時に、軽挙妄動しない家康の義理堅さも高く評価しました。

この若く、よく働いて、しかも信じられないほどに義理堅さをもっている家康と、同盟を組むことができたならば、自分は美濃国(岐阜県)の攻略に専念できる。

そうですね。本当の実力は、味方よりもむしろ敵方の方が的確に評価していることが多いのです。

 

結局、今川氏真は家康からの仇討ちの催促には乗らず、岡崎城から今川家の家臣は退去します。

人がいなくなった城を放置しておくのは危険、という理由で、徳川家康は自分の城を取り戻しました。

そして、父親の仇も討てないとは、という今川氏真の評判が落ちたところを見計らって、今川家に預けられていた人質を家臣の計略で取り戻し、晴れて今川家から独立することとなります。

隣の尾張国の織田信長とは、戦国時代において最も強固と言われた同盟を、本能寺の変まで変わることなく組むことになるのです。

この独立については、今川氏真は非難したものの、敵味方ともに天晴れな行動として賞賛しました。

 

ここで、もしも徳川家康が今川家の弱みにつけ込んで、これまでの恩や義理を足蹴にするように独立したらどうなったでしょうか。

そのときはよくても、周りからの信頼は得られず、今川家と織田家から早々に攻められて滅ぼされてしまったかもしれません。

 

徳川家康は、独立に当たって踏まえるべき順番を間違えなかったのです。新しくきたチャンスよりも、それまで受けたものをまず大切にしました。それをしっかり踏まえた上で、チャンスをつかんだわけです。

 

実は、チャンスの時ほど行動するのは難しいのかもしれませんね。

チャンスの時に、どのように行動したらいいか。

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

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論理的判断は理にかなっているのか

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年初めてのブログです。前回のから2か月以上経ってしまいました。

少しばかり、言い訳を言わせていただくと、年末らしく「2017年を振り返って」と題して投稿させていただこうと思っていました。しかし、2017年の日本企業を振り返るとすれば、やはり、「不正」「ねつ造」について書かなければならないことになってしまいます。「一体何回書けば終わりになるのか?」と気が滅入ってしまって、筆(キーボードを打つ手)が進まないのです。

いくら批判してみても、彼らの行為には、(彼らなりの)合理的な理由(=論理)がある(はずな)のです。そうでなければ、こんなにも多くの大企業で起こるはずがない(はずな)のです。

そこで今回は、二年越しの宿題になった論理的な判断について考えてみたいと思います。

論理的な考え方は、「経営学」の世界では、ロジカル・シンキングと格好よく言い直して使われたりしています。

なるほど、会社では「ああすればこうなって、この部分はコストに見合う利益があがらないから削ることにしよう」とか、「統計的に考えて、この商品は女性層に受け入れられそうだから、生産量を増やそう」とかいうことはよくききますね。

ところが、往々にして削った機能が原因で故障が起きたり、受けるはずの商品が意外に受けが悪かったりして、なかなか思い通りにはいかないものです。

それはそうですよね、今まで問題がなかったからといって将来もそうなるのかは保証の限りではないし、統計だって過去の出来事の集計や分析である限り、将来の出来事を正確に言い当てることなんてできない(はずな)のです。論理的思考の典型ともいえるスーパーコンピュータを使っても、明日の天気予報が外れるんですから。

もちろん、私たち人間は経験や過去の教訓に学んで未来を予測し現実に対処し繁栄をしてきたわけです。しかし、その結果は必ずしも正しいと言えることばかりではなかった、例えば、地球温暖化問題や私の人生のように・・・。

これは人間の知識の形成過程が経験によらなければならないという超えることができない限界があるためで仕方がないことなのです。

かのドイツの哲学者ヘーゲルは「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」という有名な言葉を残しています。これは、人間のことを考える哲学は、夕暮れに現れる梟のように(ミネルバはギリシャの女神アテナ(ゼウスの子)のことで、梟とともに智の象徴とされています。日本では「福朗」のお土産もありますね)現実の出来事におくれて現れるという意味で、我々人間の認知能力の悲しい現実を表しているのだそうです。

論理的であることには、常に認知的な限界を持っているのですね。

また、私たち人間は論理だけで考え、行動しているわけではありません。私たちの経験は感情も作りだします。思考とその結果の限界を補完しているのが感情といえます。

私たちは、理屈に合わないことに対して怒ったりしますし、悲しい経験や嬉しい経験が糧になって努力を重ねて成功するなどということもよく聞きますが、感情が私たちの行動に強い影響を及ぼしていることは実感としても納得できると思います。

そして、私たち人間は自我を持っています。自我とは、自分が自分である根本といえるものですが、これも自分を取り巻く人々や物事との関係や経験から形作られています。

私はこうしていわば他人から創り上げられた自我というフィルターを通して世の中で起きる様々なことを経験し生活しているわけで、そのうえで論理や感情が生まれるわけです。

この様に論理的思考そのものに認知的な限界があるうえに、人間の行動には感情や自我の介在があり論理的思考だけでは説明できないのです。

このブログを書いている最中、星野仙一さんの訃報が流れました。星野さんといえば、闘将と呼ばれ強力な個性で闘争心むき出しの姿がすぐに浮かびますが、その一方で選手やスタッフの奥さんお誕生日に花束を贈るなど、細やかな心遣いの人であったそうです。

星野さんの野球理論の話はあまり聞いたことがありませんが、人間としての感性が人を惹きつけ、そう強いとは思えない3つの球団を優勝に導いたのです。

論理は勿論大切ですが、物事を論理通り進めるのは人の力なのです。人は論理だけでは動かない、むしろ、論理では動かない。人を論理通り動かす仕組みを常に供給することこそ経営者(リーダー)の仕事ですね。

▼後継者が経営者となり先代を超えていく者達の学び場

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経営において、無謀な冒険は禁物 ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡⑤~

私は、主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

4回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

4回目は、力をつけてきた家康が、「暴挙」とも言える行動に出て徳川家は存亡の危機に直面しますが、そこで家康がなにを学んだか、というところに焦点を当てます。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者のみならず経営者にとって、で力をつけて成功しつつあるときに、一番落とし穴に入りがちなリスクがあるものです。

成功体験を積み重ねることは成長していくことにおいて大事ですが、成功しているときこそ勇み足に注意したいものです。

 

徳川家康も、独立して三河一向一揆を鎮圧して内部を固め、武田信玄と協力して今川家を滅ぼして遠江国を領土に加えました。

これまで三河国(愛知県東部)だけだった領地が、今の静岡県西部まで広がったことになります。

 

今川義元の下で、厳しい戦いに駆り出されていた三河の武士たちは、そのおかげで戦いにめっぽう強く、「尾張(織田家)の武士3人に三河武士1人が匹敵する」との評判をとりました。今川義元の軍師であった太原雪斎から采配(戦いの指揮)を学んだ家康のもとで、織田信長を助けて姉川の合戦(織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の戦い)に大苦戦の末かろうじて勝ち、おかげで家康は「東海道一の弓取り(名将)」とまで呼称されるようになります。

 

自信を深めつつあった家康と三河武士たちに、しかし大きな試練が訪れることになります。

 

室町幕府の15代将軍である足利義昭を擁して京都へ攻め上った織田信長は、天下の政治を巡って義昭と対立するようになります。

義昭は各地の戦国大名たちに密書を送り、信長包囲網を形成して、自分にとって邪魔な存在となりつつあった信長を京都から追い落とそうと画策していました。

 

その信長包囲網で最も強力な勢力であったのは、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を支配していた、かの武田信玄です。

「風林火山(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」の軍旗で有名ですね。

武田信玄の配下の兵士たちは、伝説的な名将である信玄によって鍛え上げられ、磨き込まれた精兵たちでした。

やはり、信玄に見込まれた選り抜きの武将たちの指揮のもと、上杉謙信や北条氏康たちと幾度となく戦って、ほとんど負けたことがありません。

かろうじて、「軍神」と称された上杉謙信の越後軍団だけが、武田軍団と対等の戦いができたと言われています。

 

武田信玄と国境を接していた家康は、次第に武田信玄と対立するようになり、その武田軍からの強烈な圧力に耐えていました。

しかし、武田信玄は足利義昭からの依頼に応えて、ついに「山」が動き出しました。

 

元亀3年(1572年)10月、武田信玄は甲府を出発し京都を目指して西上を開始します。

 

信玄の本隊が青崩峠を越えて東海道へ出たときの様子は、伝説として語られています。

その行軍は粛々として、二万人が踏みならす地響きのみが聞こえ、私語する者や脇見をする者は一人もなく、あたかも一匹の巨大な猛獣が突き進むさまを見ているようだったとのことです。

武田軍は徳川領内の城を一撃で粉砕して、悠々と進撃します。

 

織田信長からは3千人の援軍が徳川軍に加わり、この一大危機への対処について軍議を開きます。

当然のことながら、強い武田軍への勝ち目は万に一つもない、浜松城へ籠城すべきと言う意見が大勢を占めました。

 

しかし、普段は人一倍慎重な家康が、この時ばかりは狂ったように城を出て野戦で戦う!と強硬に主張して、家臣や援軍としてきている織田家の武将たちは度肝を抜かれます。

武田軍は、遠江国の主要な城を落とした後、浜松城を素通りして、浜松の北にある三方ヶ原へと進軍しようとしていました。

 

家康が出戦論を唱えたのは、次のような判断によるものでした。

・籠城していると、遠江国の他の武将たちが武田家に寝返る恐れがある。

・近畿で苦戦している織田信長への体面もある。

・遠江国の地形をこちらは熟知しているのだから、うまく背後から突けばたとえ人数で劣っていても勝つチャンスはある。

 

しかし、おそらくそれらの判断以上に、数々の合戦に勝利してきた自らの手腕に、家康が自信を持ち始めていたことが大きいでしょう。

たとえ、武田信玄が名将であっても、武田軍がいかに強くても、今の自分なら互角以上に戦える自信がある。

 

こうして、大将が主戦論を唱えているわけですから、家臣や織田家の武将たちは押し切られ、浜松城を出て武田軍の後を追うことになります。

 

粛々と浜松の北を進軍する武田軍は約3万人、徳川・織田連合軍は1万5千人、圧倒的に人数が劣勢ですが、背後を突かれると確かにあっけなく大軍が負けることもあります。

桶狭間の戦いでの今川義元のように。

あるいは、徳川家康は桶狭間の戦いでの織田信長を意識したのかもしれません。

しかし、武田信玄は今川義元ではありませんでした。

 

浜松の北に、三方ヶ原という台地があり、武田軍はそこを登っていくところでした。家康としては、敵に気づかれないように後をついていき、三方ヶ原を下ろうとしたときに背後から攻め下れば、勝機があると考えていました。

高い所から下にいる敵を攻撃するのが、一番有利だからです。

 

ところが、武田信玄はそのような家康の目算は百も承知でした。

わざと本陣を通常とは逆に先行させて、家康が台地を登ってきたところで軍勢を反転させ、あっという間に行軍隊形から戦闘用の陣形に変換したのです。

そのまま、追いすがってくる徳川軍を待ち構えていました。

坂の上に万全な魚鱗の陣(楔のような縦に鋭い陣形)で待ち構えている武田軍を見て、徳川家康は罠にかかったことを悟ります。

武田信玄は、家康の心の動きまで全て計算して、最初から城を攻めずに徳川軍を誘い出して撃滅するつもりだったのです。

百戦錬磨の武田信玄の方が、徳川家康よりもはるかに役者が上でした。

 

家康は、破れかぶれの鶴翼の陣(横に広がる陣形)で武田軍に対抗しようとします。戦いの火蓋が切られ、さすがに強い徳川軍は持ちこたえますが、織田の援軍が潰乱して一気に敗勢となり、散々に徳川・織田連合軍は打ち破られます。

 

家康を始めとして、徳川・織田連合軍は散り散りになって武田軍から逃げます。家康も単騎命からがら逃げますが、武田軍の追い討ちにあって危うく捕まりそうになりました。

しかし、忠実な三河武士たちが家康の窮地を救います。

三河一向一揆で、一揆側についたものの許されて帰参した夏目正吉は、その恩を返そうと家康の名を名乗って武田軍の追撃の群れの中へ突撃して戦死します。

そのような家臣たちが、他にも何人もいました。

家臣たちは、家康あっての徳川家であることを、過去の辛酸をなめた経験から、心に刻んでいたのです。

そしてまた、このような徹底的な敗北を経験することで、そのような家臣たちの強い思いを家康も思い知らされることとなりました。

 

命からがら浜松城へと逃げ帰った家康は、その敗北して憔悴した姿を絵師に描かせます。

これがかの有名な「顰像(しかみぞう)」です。

家康はこの絵を生涯座右に置いて、自分の思い上がりの戒めとしたと伝えられています。

 

この戦いの後、徳川家康は無理な戦いをしなくなります。勝てる情勢になるまで、勝てる戦力を持てるまで辛抱強く粘り強く待つようになり、むやみやたらと決戦をしなくなります。

家臣たちにとって自分がなくてはならない存在であると同様に、自分にとって家臣は何よりも大切な存在なのであり、彼らの命を損ねるような戦いをしてはならないと、三方ヶ原の戦いの痛切な敗北経験から学んだのでした。

 

そして、この経験が「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の合戦で生きることになります。

大垣城に籠城する石田三成をおびき出すために、徳川家康は大垣城を素通りして、三成の居城である佐和山城へ向かいます。

家康の目論見通りに、三成は大垣城を出て関ヶ原へ向かわざるを得なくなりました。

痛烈な敗北の経験が、後々の大勝利に生かされたわけです。

 

また、強大な武田信玄に挑戦した「無謀」な経験は、家康の声望を高めました。

「三河殿(家康の通称)は、かの信玄公に挑んだお方」として、後年になってカリスマ的な尊敬を受けることになります。

関ヶ原の戦いの頃になると、武田信玄も上杉謙信も伝説的な存在であり、そのレジェンドたちと互角に戦った家康に戦いを挑むこと自体が「無謀」なことになったのです。

家康に挑戦したのは、かの石田三成だけでした。

無謀な経験は、家康のいろいろな意味での財産になったと言えるでしょう。

 

自信があるときほど、過信へつながりやすい落とし穴があること、そして忠実な部下たちこそが経営者にとって何よりも財産であり、何よりも尊重しなければならないこと。

いくら成功を積み重ねても、一度の痛烈な敗北が命取りになることがある。成功以上に大敗のリスクを徹底的に避けることが重要であること。

それを、三方ヶ原での家康の敗北から私たちも学ぶことができます。

これもまた、事業承継の本質の一つです。

経営の本質でもありますね。

 

「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

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内部の危機に対して、どのように対処するか ~歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡④~

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

3回目の今回もまた、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

またまた、前回から空いてしまいましたが、3回目は独立したての家康が遭遇した「三河一向一揆」という、内部の危機に対してどのように対処したかを見ることで、後継者が会社を継いでまもなく到来する危機へのヒントを得られないか、見ていきましょう。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

久しぶりに、投稿させていただきます。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

後継者にとって、事業を承継した直後は、経営の全てを掌握していないため様々な危機に襲われる可能性が低くはないでしょう。ある意味で、不安定な時期です。

徳川家康も、ようやく今川氏から独立したとはいえ、内外にリスクを抱えていました。

 

それが表面化したのが、永禄6年(1563年)でした。独立してから3年目ですが、本願寺の寺領(寺の管理する土地)に不用意に踏み入ったことをきっかけとして、三河の西部で一向一揆が吹き荒れました。一向一揆とは、浄土真宗の門徒(一向宗)による宗教一揆です。戦国時代の後半では、越後(新潟県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、越前(福井県)、三河と尾張(愛知県)で、この一向一揆が大名に対抗しうるほどの勢力を持っていました。

 

徳川家康にとって誤算だったのは、少なくない家臣たちが自分から離反して、一揆側についたことです。

原因としては、一向宗の結びつきが強く、家臣たちが主君よりも一族の信仰による結束を選択せざるを得なかったことです。また、今川などの外部からの揺さぶりもあったかもしれません。

なによりも、二十歳にようやくなったばかりの徳川家康が、まだ家臣から認めてもらえていなかったことが、主たる原因と思われます。

今川氏による苦難の支配を経て、ようやく独立して主君と家臣ともにほっとしたものの、落ち着いてみるとまだ主君である家康に頼りないところがあったのかもしれません。

 

隣国には今川が健在であり、同盟者である織田信長も美濃国(岐阜県)の斎藤氏との戦いの展望が見えず、家康は内外にリスクを抱えることになります。

まして、宗教を中心にしている勢力は士気も高く、戦いも手強いため、妥協する大名も少なくありませんでした。

 

しかし、徳川家康はむしろこれをチャンスに変えます。

 

家臣が二分されたおかげで、戦いには苦戦するものの、一つ一つしらみつぶしに反乱を正面から戦って抑え込んでいきます。

反乱側についた家臣たちも、主君を相手としては戦いにくく、降伏したり他国へ逃亡したりして、次第に一揆の勢力は減退していきました。

戦いを通じて、本願寺(浄土真宗)勢力も弱められ、徳川家康の支配下へと組み込まれていくことになります。

 

結果として、一揆が終息したときには、戦いを通じて家康と家臣との絆は深まり、また家康の声望も上がっていました。

まさに、ピンチをチャンスへと変えたわけです。

 

一揆側について、家康に負けて他国へ逃亡し、後に家臣へと帰参した中には、かの有名な本多正信もいます。他国を流浪する中で、様々な経験や人脈を作り、後に家康が天下を取るにあたって多大な力を発揮しました。

また、同じように一揆側について、降伏して家臣になった中には、夏目吉信がいます。家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとなって戦死します。

「犬のように忠実な」三河家臣団が、数々の紆余曲折を経て作り上げられていったのです。

 

独立したばかりの時、あるいは事業を承継したばかりの時は、様々な苦難が襲ってくることもあるかもしれません。

しかし、その時こそ自らの力量を上げるチャンスなのかもしれませんね。

 

それを学ぶには、歴史をしっかりと押さえることと、事業承継の本質をつかむことが肝要です。

 

歴史はこのブログで学んでいただくとして、「事業承継の本質」については、後継者の学校の入門講座でわかりやすくお伝えしております。学校はどうかな、と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

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ウルトラマラソンで考える社長の年齢と事業承継

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

先日、岩手県で開催された「岩手銀河100㎞チャレンジマラソン」に参加しました。結果は二年ぶりの完走。

制限時間14時間ぎりぎりの13時間31分1秒の817位、60代男性の部83位という成績でした。

今年は、強い風が吹き、時より雨も混じる寒いコンデションでしたが、そのコンデションが功を奏したのか、完走者が例年よりずいぶん多かったようです。(参加者は、約2,500人位?)

この大会は、このところ毎年参加していますが、今回は4回目です。完走できたのは今回を含めて2回目、完走率は50%。これをどう見るか?私個人のことはこれくらいにして、私の成績から見えてく、元気な高齢者の姿です。

私は、制限時間まで30分しか残っていない、ほぼビリ(完走を報告した電話での女房の第一声です)の順位です。

私の順位から全完走者数を840人、60歳以上を90人と推定することにします。完走者のうち60歳以上の割合は10.7%です。

日本全体の60歳以上の割合は、33.0%(総務省統計局ホームページ「日本の統計」から筆者計算)と比べると少なく見えますが、若い人に混じって、10人に一人は60歳以上の人が100㎞の距離を走りきったのですから、高齢者(統計上は65歳以上ですが)パワーに改めて脱帽といったところでしょうか。

ところで、日本の社長の平均年齢は、上昇を続け2016年では、61.19歳、年齢分布では70代以上が全体の24.12%で増加傾向(60代社長の割合は減少傾向)ということです。

(「2016年全国社長の年齢調査」(株)東京商工リサーチホームページより)

この二つからは、60代になっても体力的にも元気で、70代になってもまだまだ頑張っている日本の社長の元気な姿が見えてきます。

なるほど、事業承継が進まないはずですね。

「元気で頑張っているんだからいいことじゃないですか。」

もちろん、そのとおりです。でも、事業承継について、一般的に言われているように、「とにかくきちんと、サラリーマンが定年退職する年齢までには、事業承継を考えないとダメ、無責任」とまでは言わなくてもいいのではないでしょうか、とも言えそうです。だって、元気なんですから、100㎞完走するくらい。

私が出場した大会が開催されたのは、6月11日、一月前です。筋肉痛が回復し、トレーニングを開始できたのが2週間後、足のマメが何とか治ったのは昨日です。(なので、ブログを書く気力も回復したのでしょう)

私の40代の100キロマラソン所要時間は8時間、表彰台には駆け上がるほどで、筋肉痛はありませんでしたし、休養も自分へのご褒美としての1週間だけでした。

確実に、落ちているのです、体力も気力も。でも、世間で言われていることに合わせる必要はありません。

61.19歳社長の体力は、100㎞完走する人と同じくらいあるのです。しかし、落ちてきていることも認めなければなりません。統計の社長のように70歳代になだれ込むのではなく、今から、じっくり進めればいいのです。

自分の人生、自分の会社なのですからね。でも、自分の会社は、ずーっと続いてほしいですよね。自分らしく、しっかり続いてくれるように、今からでも遅くありません。

始めましょう、事業承継。自分らしく。

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【後継者の事例】事業承継の準備をしないで経営者になってしまった後継者

株式会社T食品工業
売上高20億円、従業員50名
*関連会社あり

田中正(父)65歳:代表取締役会長
田中一郎(兄)40歳:代表取締役社長 ※後継者
田中次郎(弟)35歳:従業員
田中勝(叔父)60歳:取締役営業部長

 

加工食品の製造、販売を業とする株式会社T食品加工の後継者,田中一郎さんは、3年前に代表取締役社長に就任しました。ただ,その際同時に,父で前社長の田中正さんが、代表取締役会長に就いたため、実質的な経営権は父の正さんが握ったままで,一郎さんが経営者として意思決定することはあまりありませんでした。

でも,一郎さんは、それでもよかったのです。
自分が経営する自信はなかったし、むしろ、まだ元気な父が経営をしてくれるなら、自分は何もしないでよいと思い。気が楽になっていました。

一郎さんは、後継者の時、銀行が主催する後継者塾に200万円を出して通ったことがありました。ですが,今となっては何を勉強したのか、まったく残っていなかったので、経営することに対してはよくわからず、受け身だったのです。

そんなある日、父で会長の正さんが突然倒れました・・・。
幸い、命に別状はありませんでしたが、長期入院をすることになってしまいました。

病室のベッドの上で父である正さんは、一郎さんに告げました。
「おれはもう経営することはできない。お前も、もう社長なのだから自分で経営をはじめてくれ。」
といって、印鑑と通帳を渡したのです。
「え・・・」
突然の申し出に、言葉を失ったのですが、少しして気を取り直し、
「今、おれがやらなければだれがやるんだ!」と、
ふつふつと「親父の代わりに、やってやる!」という気持ちが
湧きあがってきました!

しかし・・・実は、そこから地獄の日々が始まったのでした・・・。

次の日、一郎さんが会社に行くと,従業員はみんな,会長の事情を知っていて、全体的に重い空気になっていました。

「これからは、おれがしっかりしないといけない。おれがみんなをひっぱるんだ!」
そう思い、一郎さんは気持ちを高めて、全従業員を集めて話をしました。

「親父が倒れたことは、みんな知っていると思う。
これからはおれが経営者となって、この会社を導いていこうと思います。みなさんよろしくお願いします。」

従業員はみんな,一郎さんの話を聞いていましたが、だれも反応しませんでした。
いえ、反応できなかったのでしょう。一郎さんは,従業員の目が,期待ではなく、不安に溢れているように感じました。

夕方になり、3人の社員が一郎さんのもとを訪ねました。

(従業員)「こんな時に申し訳ないが、やめさせてほしい。」
(一郎)「え、なんで?」
(従業員)「俺たちは、会長に育てられて、会長に恩義があるから今までやってきたが、一郎さんの経営についていくつもりはない。」

一郎さんは、従業員との信頼関係を作るためのコミュニケーションをほとんどしていなかったので、こんなときに引き留めるすべを知りませんでした・・・。結果、引き留めも虚しく、3人は辞めていきました。

また、一郎さんは、決算書を見たことはありますが、財務のことはよくわからず、会長と経理担当に任せていました。
しかし,経営するためには、財務を知らないといけないだろうと思い、一郎さんは,経理担当に
「会社の財務について教えてほしい!」
と相談をしましたが、帰ってきた返事は、
「一郎さんは、財務なんてみなくても大丈夫です!自分がちゃんとやってますから!財務状態も良好ですし!」
といったものでした。
それを聞いて少し安心したのですが、なにか違和感も感じた一郎さん。友達である税理士の山田さんに当社の財務状態を確認してほしいと相談をしました。

そして,なんとか情報をかき集め、山田さんに確認をしてもらうと,その結果、
「複数の会社を経由する取引等をしていて、実際の財務状態が見えにくい状態になっている。情報が足りないので定かではないが、もしかしたら実質的には赤字かもしれない。また、もしかしたらだれかが横領しているかも・・・」
ということが判明したのです。

一郎さんは、自分は社長だったのに何も知らなかったと反省するとともに、でもそれを知って、経営者としてどうすればいいんだろう・・・とさらに頭を悩ませてしまいました。

このように,蓋を空けてみると,事業自体はうまくいっていなかったのです。食品加工の現場には日々出向き、関わっていたのに、うまくいっていなかったなんて、一郎さんはまったく知りませんでした・・・。

事業を立て直さなければ・・・・・でも、経営者として何をすればよいのだろう・・・。

一郎さんは、事業が赤字、財務状態は不明確、しかも人が辞めていく,という状態で、
それでも、なんとか会社を復活させなければ!と、寝ずに1から勉強をしたり、さまざまな人に相談したりして、苦しみながら必死に経営して、もがきました。

しかし、やることすべてが裏目にでていくのです。

専門家とともに新たな評価制度を導入し,従業員のモチベーションアップと働き方改善を試みましたが、逆に従業員から信用を無くすことになりました。

このように一郎さんは、専門家に相談していたし、経営の勉強もしていたので、経営のための知識はなんとか得ていましたが、「後継者が経営する」ということがどういうことかまったくわかっていなかったのです。

・・・・それから、2年ほど経ち、苦しみもがきながらも、なんとなく経営者としてやるべきことが見えてきたころ、父親である正さんの容態が急変し、他界しました。

母親は亡くなっていたため、相続は弟の次郎さんと一郎さんの二人で行なうことになりました。そして,生前父から仲良くするようにと言われていたので、二人は,遺産分割において会社の株式を等分するということになり、その結果,父の保有していた800株(80%)を、一郎さんが400株(40%)、次郎さんが400株(40%)で相続することになりました。
ちなみに、のこりの20%の200株は、叔父で取締役営業部長の田中勝さんがもっていました。

正さんの御葬式が終わり,相続関係の処理も終わったある日、弟の次郎と叔父が社長室にやってきて、こう告げました。
(次郎)「一郎さんの経営では会社がつぶれてしまうので、これからは俺がやるから」

(一郎)「?!。どういうこと?」

(次郎)「叔父さんと俺とで60%の株式を所有しているから、取締役を解任できるんだ。兄さんには辞めてもらうよ。」

(一郎)「!!!!!!」

一郎さんは,株式について何も知りませんでした。当たり前に相続時に二郎さんと半半にしていたのです。言うまでもなく,叔父さんの持分など頭にはありませんでした。

兄弟だから、親族だからと安心して、信用していましたが,気がついたときには時既に遅し。いままで寝ずにもがいてきた努力も水の泡、一郎さんはくやしさがこみ上げてきましたが、どうすることもできませんでした。

一郎さんはこれまでを振り返り,経営者として何も知らなかったこと、そして経営者になるまでに何の準備もしていなかったことを、深く深く後悔したのです。
これから、どう生きていけばいいんだろう・・・。

 

この事例の失敗したポイントは、こちらのコラムで解説をご覧ください。

【コラム】後継者が経営者になる準備をしていないと、会社をつぶす!?

 

歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡②

「不遇のときに、後継者は何をすべきでしょうか」

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

その1回目は、不遇であるときに、後継者は何をしたらいいのだろうか、それを家康の人生から考えて参ります。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

「後継者」とは、時と場合によっては、会社の中で中途半端な立場におかれて肩身が狭かったり、あるいは事業承継と言ってもなにをしたらいいのかわからない、というもどかしい気持ちでモヤモヤしていることがあったりするかもしれませんね。

 

まだ社長でもないし、かといって普通の社員とも違います。

将来、会社の社長になる予定の社員、と言えばいいのでしょうか。

考えれば考えるほど、モヤモヤしませんか?

 

でも、いつかは「その日」、会社を継いで社長として経営をしなければならない日は来るのです。

たとえ中途半端であっても、モヤモヤしていても、準備はしておく必要はあります。

そして、どんな状況であっても、その気さえあれば、やる気さえあれば、準備はできるのです。

現に、徳川家康はそれをやりました。

 

東海道新幹線の「のぞみ」に東京から乗車して、まもなく名古屋駅に到着するときに、必ず流れるアナウンスがあります。

 

「ただいま、三河安城駅を通過いたしました。定刻通り運行しております。まもなく、名古屋駅に到着します」

徳川家、かつての松平家の発祥の地は、この三河安城駅の近辺で、かつて「安祥」と呼ばれていたところです。

 

しかし、松平元康、後の徳川家康が生まれたときは、松平家にとって一大危機の時でした。

家康の祖父である松平清康は、優れた武将として領土を拡大しますが、戦いのさなかで部下に裏切られ25歳で急死し、その嫡男(息子)、つまり家康の父である松平広忠は、駿河国と遠江国(ほぼ静岡県にあたります)の大名であった今川義元を頼ります。

いわば、伸び盛りのベンチャー企業が、社長の急死によって老舗の会社の子会社になったようなものですね。

 

父の松平広忠も24歳で病死してしまい、まだ幼かった6歳の徳川家康は人質として今川家の本拠である駿府城(今の静岡市)に預けられてしまいました。

人質として駿府城では大事に扱われたものの、外出も自由にできず、常に周囲の監視の下にあったわけで、いわば「籠(かご)の中の鳥」みたいなものですね。

これ以上に、半端な環境というのもないように思います。

普通なら、その環境に絶望して、投げやりになったり、無気力になったりしてもおかしくはありません。

 

しかし、家康は違いました。

自分が人質に取られているおかげで、三河国の家臣たちは過酷な戦争にかり出されて命を落とし、あるいは今川家に自分たちの収穫を取り上げられて、貧しい生活を強いられているという噂を聞いていました。

自分は武将としてしっかりと成長して、いつか国許に帰って松平家を承継し、家臣たちのリーダーとして彼らを守らなければならない。

周りがどのような環境であっても、そういう自覚をしっかりと持っていました。

いや、持たざるを得なかった、というべきかもしれません。

 

優れたリーダーになるために、自分にできることはなんでもしなければならない。

しかし、行動の自由を奪われた家康にできることは、当然のことながら限られています。

今、自分にできることは何だろうか。

それは、身の回りにいる優れた人から「学ぶ」ことでした。

 

当時、今川義元の政治と軍事の右腕を務めていた、太原雪斎という今川家の重臣がいました。太原雪斎は、詩歌に詳しい教養人であると同時に、政治、経済、軍事、外交に明るい、いわゆる「軍師」のような存在でした。

世にも名高い「今川・武田・北条の三国同盟」をまとめたのも、太原雪斎です。

 

徳川家康は、太原雪斎を師として仰ぎ、リーダーになるための学問を授けてもらいます。太原雪斎も、家康の優れた資質を買っており、かつ熱心な学びの姿勢に心打たれ、行く末は今川家の頼もしい同盟者となってもらうべく、厳しく教育しました。決して長くない期間であったものの、家康は大名になるための基礎を太原雪斎からじかにたたき込まれました。

 

また、今川義元は、織田信長に討たれたために決して評価が高くない武将ですが、「今川仮名目録」という国を治めるための法律が残っているように、優れた統治力を持っていました。

徳川家康もその影響を受け、後に自らもしっかりとした法律に基づいた政治を行うようになります。

 

今川義元と太原雪斎。人質でありながら、徳川家康は彼らから大名として生きていくための手ほどきを受け、後に独立した時にそれを見事に生かしていくことになります。

 

また、家康の優れた人から学ぼうとする姿勢は、終生変わることはありませんでした。後に同盟を組むことになる織田信長や豊臣秀吉、あるいは若い家康にとって強大な敵であった武田信玄からも、そのいいところを必死になって取り入れようと努力しました。

 

徳川家康は、人一倍素直であるという優れた資質はありましたが、決して天才的な人物ではありませんでした。かつ人生のスタートは人質という、極めて不遇な環境でした。

しかし、周りの優れた人たち、時には家臣からも、必死になって学んでいくことで、彼は三河の田舎領主から天下人へと登り詰めていったのです。

 

後継者の皆さん!もし、不遇であると思うならば、あるいはなにをしたらいいのかわからないならば、それが「学ぶ」に一番いいときなのかもしれません。

ただし、「学び」はその内容も重要です。事業承継を学びたいと思っていらっしゃるのであれば、後継者の学校は最適な学びの場であると自負しております。

 

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