【後継者の事例】事業承継の準備をしないで経営者になってしまった後継者

株式会社T食品工業
売上高20億円、従業員50名
*関連会社あり

田中正(父)65歳:代表取締役会長
田中一郎(兄)40歳:代表取締役社長 ※後継者
田中次郎(弟)35歳:従業員
田中勝(叔父)60歳:取締役営業部長

 

加工食品の製造、販売を業とする株式会社T食品加工の後継者,田中一郎さんは、3年前に代表取締役社長に就任しました。ただ,その際同時に,父で前社長の田中正さんが、代表取締役会長に就いたため、実質的な経営権は父の正さんが握ったままで,一郎さんが経営者として意思決定することはあまりありませんでした。

でも,一郎さんは、それでもよかったのです。
自分が経営する自信はなかったし、むしろ、まだ元気な父が経営をしてくれるなら、自分は何もしないでよいと思い。気が楽になっていました。

一郎さんは、後継者の時、銀行が主催する後継者塾に200万円を出して通ったことがありました。ですが,今となっては何を勉強したのか、まったく残っていなかったので、経営することに対してはよくわからず、受け身だったのです。

そんなある日、父で会長の正さんが突然倒れました・・・。
幸い、命に別状はありませんでしたが、長期入院をすることになってしまいました。

病室のベッドの上で父である正さんは、一郎さんに告げました。
「おれはもう経営することはできない。お前も、もう社長なのだから自分で経営をはじめてくれ。」
といって、印鑑と通帳を渡したのです。
「え・・・」
突然の申し出に、言葉を失ったのですが、少しして気を取り直し、
「今、おれがやらなければだれがやるんだ!」と、
ふつふつと「親父の代わりに、やってやる!」という気持ちが
湧きあがってきました!

しかし・・・実は、そこから地獄の日々が始まったのでした・・・。

次の日、一郎さんが会社に行くと,従業員はみんな,会長の事情を知っていて、全体的に重い空気になっていました。

「これからは、おれがしっかりしないといけない。おれがみんなをひっぱるんだ!」
そう思い、一郎さんは気持ちを高めて、全従業員を集めて話をしました。

「親父が倒れたことは、みんな知っていると思う。
これからはおれが経営者となって、この会社を導いていこうと思います。みなさんよろしくお願いします。」

従業員はみんな,一郎さんの話を聞いていましたが、だれも反応しませんでした。
いえ、反応できなかったのでしょう。一郎さんは,従業員の目が,期待ではなく、不安に溢れているように感じました。

夕方になり、3人の社員が一郎さんのもとを訪ねました。

(従業員)「こんな時に申し訳ないが、やめさせてほしい。」
(一郎)「え、なんで?」
(従業員)「俺たちは、会長に育てられて、会長に恩義があるから今までやってきたが、一郎さんの経営についていくつもりはない。」

一郎さんは、従業員との信頼関係を作るためのコミュニケーションをほとんどしていなかったので、こんなときに引き留めるすべを知りませんでした・・・。結果、引き留めも虚しく、3人は辞めていきました。

また、一郎さんは、決算書を見たことはありますが、財務のことはよくわからず、会長と経理担当に任せていました。
しかし,経営するためには、財務を知らないといけないだろうと思い、一郎さんは,経理担当に
「会社の財務について教えてほしい!」
と相談をしましたが、帰ってきた返事は、
「一郎さんは、財務なんてみなくても大丈夫です!自分がちゃんとやってますから!財務状態も良好ですし!」
といったものでした。
それを聞いて少し安心したのですが、なにか違和感も感じた一郎さん。友達である税理士の山田さんに当社の財務状態を確認してほしいと相談をしました。

そして,なんとか情報をかき集め、山田さんに確認をしてもらうと,その結果、
「複数の会社を経由する取引等をしていて、実際の財務状態が見えにくい状態になっている。情報が足りないので定かではないが、もしかしたら実質的には赤字かもしれない。また、もしかしたらだれかが横領しているかも・・・」
ということが判明したのです。

一郎さんは、自分は社長だったのに何も知らなかったと反省するとともに、でもそれを知って、経営者としてどうすればいいんだろう・・・とさらに頭を悩ませてしまいました。

このように,蓋を空けてみると,事業自体はうまくいっていなかったのです。食品加工の現場には日々出向き、関わっていたのに、うまくいっていなかったなんて、一郎さんはまったく知りませんでした・・・。

事業を立て直さなければ・・・・・でも、経営者として何をすればよいのだろう・・・。

一郎さんは、事業が赤字、財務状態は不明確、しかも人が辞めていく,という状態で、
それでも、なんとか会社を復活させなければ!と、寝ずに1から勉強をしたり、さまざまな人に相談したりして、苦しみながら必死に経営して、もがきました。

しかし、やることすべてが裏目にでていくのです。

専門家とともに新たな評価制度を導入し,従業員のモチベーションアップと働き方改善を試みましたが、逆に従業員から信用を無くすことになりました。

このように一郎さんは、専門家に相談していたし、経営の勉強もしていたので、経営のための知識はなんとか得ていましたが、「後継者が経営する」ということがどういうことかまったくわかっていなかったのです。

・・・・それから、2年ほど経ち、苦しみもがきながらも、なんとなく経営者としてやるべきことが見えてきたころ、父親である正さんの容態が急変し、他界しました。

母親は亡くなっていたため、相続は弟の次郎さんと一郎さんの二人で行なうことになりました。そして,生前父から仲良くするようにと言われていたので、二人は,遺産分割において会社の株式を等分するということになり、その結果,父の保有していた800株(80%)を、一郎さんが400株(40%)、次郎さんが400株(40%)で相続することになりました。
ちなみに、のこりの20%の200株は、叔父で取締役営業部長の田中勝さんがもっていました。

正さんの御葬式が終わり,相続関係の処理も終わったある日、弟の次郎と叔父が社長室にやってきて、こう告げました。
(次郎)「一郎さんの経営では会社がつぶれてしまうので、これからは俺がやるから」

(一郎)「?!。どういうこと?」

(次郎)「叔父さんと俺とで60%の株式を所有しているから、取締役を解任できるんだ。兄さんには辞めてもらうよ。」

(一郎)「!!!!!!」

一郎さんは,株式について何も知りませんでした。当たり前に相続時に二郎さんと半半にしていたのです。言うまでもなく,叔父さんの持分など頭にはありませんでした。

兄弟だから、親族だからと安心して、信用していましたが,気がついたときには時既に遅し。いままで寝ずにもがいてきた努力も水の泡、一郎さんはくやしさがこみ上げてきましたが、どうすることもできませんでした。

一郎さんはこれまでを振り返り,経営者として何も知らなかったこと、そして経営者になるまでに何の準備もしていなかったことを、深く深く後悔したのです。
これから、どう生きていけばいいんだろう・・・。

 

この事例の失敗したポイントは、こちらのコラムで解説をご覧ください。

【コラム】後継者が経営者になる準備をしていないと、会社をつぶす!?

 

職分に徹する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

私の故郷、北海道の「ソメスサドル」という会社をご存じでしょうか。

北海道砂川市に本社、工場を構える馬具、革製品メーカーです。

内外の一流ジョッキーが使う鞍を手がけ、宮内庁に馬具を収めている国内唯一の馬具メーカーです。

そして、鞄やベルトなどの高級革製品を製作するだけではなく、修理まで全て行うという会社で、最近話題になった銀座シックスに出店しているというすごい会社です。と、ここまで書きましたが、私自身、まったく存じ上げませんでした(すみません)、北海道関係者の小さな集まりで社長である染谷昇氏のご講演をお聞きするまでは。

 

私が、あえて実名でご紹介したいと考えたのは、先に述べたようなすごい会社だからではありません。社長のご講演の中で触れられた企業理念にビビット(ずいぶん昔の松田聖子さんみたいですが)来たからです。

 

《企業理念》
道具屋であることを誇りに持ち、社員とその家族が幸せになること。
《行動基準》
お客さまから一流と評価される、ものづくりとサービスを提供する。
北海道企業として、地域の活性化に貢献すること。

 

企業理念や行動基準と言えば、相当に美辞麗句を並べた抽象的なものが多いのですが(大企業では、事業が多岐にわたり、すべてが共有できる理念は抽象的にならざるを得ないという側面があります)、それらが具体的な社員の行動に結びつかなければ、外向けの宣伝文句に終わってしまう危険があるのですが、この企業理念や行動基準は言います。

「俺たちはただの道具屋だけれど、その道具屋であることに誇りを持って仕事をしよう。そして、女房も子供も、爺ちゃん婆ちゃんみんなで幸せになろうよ。そのためには、一流のものを作らなければならないし、修理もお客さんおために一流の技術で対応する準備と努力を惜しまない。そうすれば、わがふるさと北海道が元気になるために役に立てるような会社になれる。だから、頑張ろう」と。

ご講演の中で、皮革加工の職人さんたちの平均年齢は優に70歳を超えているなかで、何と当社のそれは30歳代(社長のご講演では両方正確な数字をおっしゃっていたのですが何せ認知症予備軍の身)だとか、そのような若い人たちが一流ジョッキーや宮内庁御用達の超一流品をつくることができていることが驚きを禁じ得ません。

高校を卒業したての若者が流れ作業ではなく、すべての工程を先輩社員と一緒に携わるそうですが、そのなかで技術が受け継がれて行く上下と、互いに切磋琢磨する水平の人間関係がつくられ、一流の職人が育っていくのだと思います。

 

一方で、染谷社長は毎日すべての社員に挨拶をして回るのだといいます。人と人からできている会社という組織が、まわりの人を含めて幸せを届けるためには、ここの人のみならず、むしろ人と人の間にある何かが生み出す力が必要だとお考えで、その繋がりの入り口であり基本である挨拶を率先垂範されているのだろうと思います。そして、一人ひとりの価値を大事に育てる強い意志が伝わってきます。

「職分」という言葉があります。「その職についている者がしなければならない仕事」「各人がそれぞれの立場で力を尽くしてなすべき務め」(デジタル大辞泉)という意味ですが、

武士、商人、学者、医者そして人の行い全般について、与えられた職分を全うすることで

本来もつ善なる本性に至ることを説いた江戸時代中期の思想家「石田梅岩」は、士農工商の身分制度の中で、それぞれの職分を誇りを持って全うすることを訴えています。

また、そのうえで、こんなことも言っています「或る者は心を労し、或るものは者は力を労すと日うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治るものは人に養わるるは、天下の通義なり」

江戸時代、京都市井の思想が北の大地で花開いています。

すごい会社には、訳があるのですね。

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ワインの香り

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

先日、教育テレビ「サイエンス・ゼロ」で「今宵はワイン夜話 香りのヒミツ大解明!」という番組がありました。

ワインといえば、私のようなおじ(い)さんには少しおしゃれで高級なお酒といったイメージです。でも、ワインのおいしさの大きな要素である「香り」について科学的に分析するということで、「少しは女性に薀蓄を語れるかも・・。」という下心とともに、興味深く見させてもらいました。

番組では、目隠しをし、鼻をつまんでワインをストローで飲んだ、番組MCの南沢奈央さんが、「赤ワインと白ワインの違いが本当に判らない」と驚いていました。

また、ガスクロマトグラフで数十の成分に分解された臭いを順番に南沢さんが嗅いでいましたが、マスカット、チョコレート、乳製品、薬品などと順番に出てくる臭いから感じるイメージをを報告していましたが、嫌な臭いと顔をしかめる場面も何度かありました。ワインの臭いの研究をしている東原和成東大教授によりますと、味覚には甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つですが、臭いは数十万種類もあるそうです。

ワインの香りを造っているにおいの成分も数百種類あるそうで、南沢さんが嗅いだワインの臭い成分も20種類くらいあったようです。

東原教授によれば、「くさい臭いがベースにあることによって、ワインの香りが立体的になり奥深さができて、よりおいしく感じる」とのことでした。

ニュージーランドでは、近年ワインの品質があがっており、その重要な役割を果たしている「サーカロマイセス・セルビアジェ」という酵母の存在が明らかになったそうです。

野生のその酵母はワイナリーのなかには生息しておらず、6キロも離れた花などで発見されたそうです。

酵母は一人で移動できませんから、それを運んできたものを調べたところ、なんとハエらしいとのこと。

ここでも、どちらかというと嫌われ者の「ハエ」の羽が、おいしいワインをくれたキューピットの羽であったことになります。

なんと、私たちの心まで癒してくれるワインの香りやおいしさは「嫌な臭い」や「嫌なハエ」の働きなしに、私たちは享受できなかったのです。

このことから二つの気づきを得ることができました。

一つ目は、私たちが生きる地球という環境の恵みの偉大さと奥深さです。

ワインに象徴されるような、私たちが受け取る恵みは、ブドウの実や木、あるいは太陽や雨といった目に見えるものだけではなく、はるかに大きな自然の仕組みの中でもたらされているということです。

なので、役に立たないからとかいった単純なあるいは表面的なことで、人やことを排除することは自分自身のメリットを排除することになるということです。

もう一つは、私たち自身や社会などについてです。人は、正しいことや思いやりや優しさ、一生懸命など、いい人と評価される面だけではなく、人を妬んだり、怒ったり、時には意地悪くなったりしたりするものです。

特に、経営を考えてみると、社員やその家族に対する愛情や思いやりは、もちろん重要ですが、時には、解雇を言い渡さなければならないようなつらい局面に出会うことも覚悟しなくてはなりません。

人もワインと同じで、いろいろな側面をもっているからこそ、そして嫌な自分を(嫉妬や正義面の両方)自覚しているからこそ、さらに、そのすべての自分を、その必要なときに行動として出していける自信と覚悟があるからこそ、おいしい味が出てくるのではないかということです。

その為には、自然に自分らしく生きていくことを、失敗をして反省を積み重ねていくしかないのかもしれません。

そう簡単に深い味は出せません。ワインだって熟成が必要です。ただし、人は寝かせるだけでは熟成しませんのでお気を付けを・・・。

 

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経営理念を実践する

後継者の学校パートナーの中小企業診断士岡部眞明です。

経営理念は、会社の向かう方向や考えを示すために必要なものです。

でも、それをどう実践できなければ意味がありません。

朝礼で毎日唱和する。大きく書いて壁に貼っておく。社員手帳に記載して、いつでも見て、確認できるようにしておく。すべて有効な方法です。

でも、日々の仕事にどう生かしていけばよいのでしょうか。

経営理念は、一人ひとりの社員が、生産や営業の現場で、毎日の仕事のなかで、その理念に基づいて、行動=実践しなければ意味がありません。やる気を出して。

企業理念を実践するといっても、やる気がなければ、壁中に貼っておいても(もちろん。やるなということではありません)、無理ですよね。無視されては。

やる気=モチベーションは、やりがいとか、生きがいとかという物語から生ずるものでした。それは、「何故、その仕事をするのか」とか、「何のために商品を売るのか」ということ問いに対する哲学(的な回答)が求められているのです。

企業理念とは、従業員の「何故」に対する究極の回答なのです。それは、同時に顧客の「何故」にたいする究極の回答でなければなりません。

一人ひとりの従業員のモチベーションが、一致して一つの方向へ向かわなければ、効率的ではありませんし、大きな成果を生むこともできません。

そして、日々の仕事の現場で実践していくことが何より重要ですし、そのことが、顧客満足を生み出すことになる訳です。

私が、顧客の歓びを求めてプレゼンテーションの質を高めるのは、会社の理念「顧客の喜びを追求します」だとします。

私は、顧客が商品を使用する場面の応じた最適な使用方法や、商品の特性を学習して顧客に提供することで、その商品を使う目的が達成されて、顧客の喜びにつながることになります。

経営理念は、良い製品の提供ではなく、顧客の喜びにあるわけです。よい商品を提供することは、目的ではなく、経営理念実現の手段なのです。

しかし、経営理念実現のためには、もちろん良い商品が必要ですから、製造あるいは仕入の現場では、品質をいかに向上させるかが、経営理念実現のために行うべき仕事になります。

調達部門では、良い製品を適正な価格で提供するために原材料、仕入れ商品の安全性や価格についての十分な配慮が求められるでしょうし、輸送についても同様の配慮は求められます。

このように、企業理念実現のために、私が営業の現場で、プレゼンテーションのために行った、商品知識の学習と同じように、会社の各部門で経営理念実現のために求められる具体的取組が、それぞれ決められることになります。

これと同じように、会社の各部門、各グループ、係と、経営理念実現のために「何をすればよいのか」がより具体的に下位の組織に浸透することになります。

つまり、「顧客の喜び」のために会社は「何」(どんな商品)をどうやって顧客に届けるのかが、会社全体として一つの意志を持った行動が生まれることになるわけです。

この「何」と「どうやって」を一人ひとりが現場で実践すると、私が苦手なプレゼンテーションを何とか克服したように、自信ややりがいの正のスパイラルが生まれ、更なるモチベーションのアップと、業績のアップにつながっていくことになるでしょう。(自分の話は、少し控えめに・・・)

具体的に、そのような組織の構造をつくりあげ、実践していくのはそうかんたんなことではありません。

だからこそ、多くの組織や人事管理に関するノウハウ本が読まれているわけです。それらは、ほぼそのすべて正しい主張がなされているとおもいます。(ノウハウ本はあまり好きではないというか、嫌いな部類に入りますので、ほとんど読んだことがありませんが)

しかし、会社をはじめとする組織は、(社会はと言ってもいいかもしれませんが)、人と人の関係で作られています。人生と同じように、ノウハウで解決できることはほんの少しです。難しいから、面白いのです。経営も、人生も。

これらの話は後継者の学校でも。

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歴史に学ぶ後継者経営 徳川家康の軌跡②

「不遇のときに、後継者は何をすべきでしょうか」

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。

今回からは、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯から、後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

その1回目は、不遇であるときに、後継者は何をしたらいいのだろうか、それを家康の人生から考えて参ります。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

なおこのブログは全て、歴史に関する考え方については全くの私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

「後継者」とは、時と場合によっては、会社の中で中途半端な立場におかれて肩身が狭かったり、あるいは事業承継と言ってもなにをしたらいいのかわからない、というもどかしい気持ちでモヤモヤしていることがあったりするかもしれませんね。

 

まだ社長でもないし、かといって普通の社員とも違います。

将来、会社の社長になる予定の社員、と言えばいいのでしょうか。

考えれば考えるほど、モヤモヤしませんか?

 

でも、いつかは「その日」、会社を継いで社長として経営をしなければならない日は来るのです。

たとえ中途半端であっても、モヤモヤしていても、準備はしておく必要はあります。

そして、どんな状況であっても、その気さえあれば、やる気さえあれば、準備はできるのです。

現に、徳川家康はそれをやりました。

 

東海道新幹線の「のぞみ」に東京から乗車して、まもなく名古屋駅に到着するときに、必ず流れるアナウンスがあります。

 

「ただいま、三河安城駅を通過いたしました。定刻通り運行しております。まもなく、名古屋駅に到着します」

徳川家、かつての松平家の発祥の地は、この三河安城駅の近辺で、かつて「安祥」と呼ばれていたところです。

 

しかし、松平元康、後の徳川家康が生まれたときは、松平家にとって一大危機の時でした。

家康の祖父である松平清康は、優れた武将として領土を拡大しますが、戦いのさなかで部下に裏切られ25歳で急死し、その嫡男(息子)、つまり家康の父である松平広忠は、駿河国と遠江国(ほぼ静岡県にあたります)の大名であった今川義元を頼ります。

いわば、伸び盛りのベンチャー企業が、社長の急死によって老舗の会社の子会社になったようなものですね。

 

父の松平広忠も24歳で病死してしまい、まだ幼かった6歳の徳川家康は人質として今川家の本拠である駿府城(今の静岡市)に預けられてしまいました。

人質として駿府城では大事に扱われたものの、外出も自由にできず、常に周囲の監視の下にあったわけで、いわば「籠(かご)の中の鳥」みたいなものですね。

これ以上に、半端な環境というのもないように思います。

普通なら、その環境に絶望して、投げやりになったり、無気力になったりしてもおかしくはありません。

 

しかし、家康は違いました。

自分が人質に取られているおかげで、三河国の家臣たちは過酷な戦争にかり出されて命を落とし、あるいは今川家に自分たちの収穫を取り上げられて、貧しい生活を強いられているという噂を聞いていました。

自分は武将としてしっかりと成長して、いつか国許に帰って松平家を承継し、家臣たちのリーダーとして彼らを守らなければならない。

周りがどのような環境であっても、そういう自覚をしっかりと持っていました。

いや、持たざるを得なかった、というべきかもしれません。

 

優れたリーダーになるために、自分にできることはなんでもしなければならない。

しかし、行動の自由を奪われた家康にできることは、当然のことながら限られています。

今、自分にできることは何だろうか。

それは、身の回りにいる優れた人から「学ぶ」ことでした。

 

当時、今川義元の政治と軍事の右腕を務めていた、太原雪斎という今川家の重臣がいました。太原雪斎は、詩歌に詳しい教養人であると同時に、政治、経済、軍事、外交に明るい、いわゆる「軍師」のような存在でした。

世にも名高い「今川・武田・北条の三国同盟」をまとめたのも、太原雪斎です。

 

徳川家康は、太原雪斎を師として仰ぎ、リーダーになるための学問を授けてもらいます。太原雪斎も、家康の優れた資質を買っており、かつ熱心な学びの姿勢に心打たれ、行く末は今川家の頼もしい同盟者となってもらうべく、厳しく教育しました。決して長くない期間であったものの、家康は大名になるための基礎を太原雪斎からじかにたたき込まれました。

 

また、今川義元は、織田信長に討たれたために決して評価が高くない武将ですが、「今川仮名目録」という国を治めるための法律が残っているように、優れた統治力を持っていました。

徳川家康もその影響を受け、後に自らもしっかりとした法律に基づいた政治を行うようになります。

 

今川義元と太原雪斎。人質でありながら、徳川家康は彼らから大名として生きていくための手ほどきを受け、後に独立した時にそれを見事に生かしていくことになります。

 

また、家康の優れた人から学ぼうとする姿勢は、終生変わることはありませんでした。後に同盟を組むことになる織田信長や豊臣秀吉、あるいは若い家康にとって強大な敵であった武田信玄からも、そのいいところを必死になって取り入れようと努力しました。

 

徳川家康は、人一倍素直であるという優れた資質はありましたが、決して天才的な人物ではありませんでした。かつ人生のスタートは人質という、極めて不遇な環境でした。

しかし、周りの優れた人たち、時には家臣からも、必死になって学んでいくことで、彼は三河の田舎領主から天下人へと登り詰めていったのです。

 

後継者の皆さん!もし、不遇であると思うならば、あるいはなにをしたらいいのかわからないならば、それが「学ぶ」に一番いいときなのかもしれません。

ただし、「学び」はその内容も重要です。事業承継を学びたいと思っていらっしゃるのであれば、後継者の学校は最適な学びの場であると自負しております。

 

事業を継ぐために何を学んだらいいんだろう、何をしたらいいんだろうか、と思う人は、後継者インタビュー(無料)を受けてみて下さい。時間はそれほどかかりません。だいたい、30分~1時間ほどです。

ご自分の事業承継の「現在」が整理され、すっきりすると好評です。お気軽にお問い合わせいただければと思います。

 

また、後継者の学校の入門講座では「事業承継の本質」についてわかりやすくお伝えしております。学校はまだかな~と思う人でも、無料ですのでお気軽に出席してみてください。

 

後継者の学校

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補助金等の予算について

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

今年の国会は、森友学園が、大阪豊中市に建設していた小学校をめぐって、国会は、そしてマスコミも大騒ぎといった状況です。予算は、成立し国政の運営への影響は、当面何とか免れたものの、まだまだ尾を引きそうです。

しかし、ついに渦中の人、籠池元理事長(結局、理事長を辞任してしまいました)を国の補助金5千万円余りを不正に受給したとして「補助金等の予算の適正化に関する法律」(以下「適正化法」)という、長い名前の法律に違反した容疑での告発状を、大阪地検が受理したというニュースが流れました。

私には国民を補助金に狙う悪者と決めつけている天下の悪法としか思えないのですが、この法律が想定するような人が出てきてしまいました。

今回は、この正義の味方の法律が対象としている国の補助金等について見てみましょう。

補助金等とは、何でしょうか。国の予算の一般的な定義では、補助金等とは、補助金、負担金、交付金、補給金、委託費をいいます。

これらの経費の合計は、一般会計では30兆円で全体の30%、特別会計では17兆円で特別会計のほとんどが補助金等といわれる経費で占められています。

この補助金等のうち、適正化法の対象になるのは、①補助金②負担金(国際条約に基づく分担金を除く)③利子補給金④その他相当の反対給付を受けない給付金であって政令で定めるもの(適正化法第2条)となっています。ということは、先の補助金等のうち、委託費は適正化法の対象から外れるように読めるのですが、④の政令で定めるもので、多くの委託費が適正化法の適用を受けるものとして政令で定められています。

この委託費のうち適用を受けるかどうかを決めるのは、予算を作る段階で要求する各省庁が財務省と一つ一つ協議して決めます。

また、これら補助金等が実際に交付される際には、個別に「交付要綱」といわれる取扱要領を定めますが、この要綱は当然適正化法に則って規定がつくられています。この要綱は各省庁がつくりますが、その過程で財務省のチェックが入ります。この要綱のチェックは、適正化法の対象以外のものについても行われ、チェックは適正化法対象補助金等の交付要綱とほぼ同じ基準で行われるため、実質的に補助金、負担金、利子補給金、委託費のすべてが適正化法または同等の規制を受けることになっています。

もっとも、これらの経費は「相当の反対給付」を国が受けない訳ですから、国民の税金を財源としたお金をあげるわけですから厳しい規制を受けることは当然と言えば当然です。(一方、反対給付のないものまで、法律上認められるべき、事業者の権利が実質上制限される事態が発生します。)

国がこれらの支出を行う場合に求められる要件としては①その事業が、国家的見地において公益性があると認められること②その事業の事務、事業の実施に資するものであること③財政援助の作用をもつものであること、とされています。

この適正化法には、公正かつ効率的に使用されるよう努めなければならない、あるいは誠実に補助事業を行うように努めなければならない(適正化法第3条)と求められているほか、交付省庁の指導に従うことや帳簿の整備など適正に使用され、その確認のための事務作業が求められます。

それが守られなければ交付の取り消しや補助金の返納を求められる場合があります。最後は、今回のように(まだ、起訴もされていませんが)「偽りその他不正の手段により補助金等の交付を受け、又は間接補助金等の交付若しくは融通を受けた者は、五年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」ということになります。

国のお金を使うのは、結構大変なんですよね。

事業承継を進める前に、補助金や助成金をチェックしておくことも大切ですね。

後継者の学校でサポートできることがあります。

詳しくはこちら!
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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(最終回)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

なお、今回以降も、また前回以前も、歴史の解釈に関しては全く私の私見であることを、あらかじめお断りしておきます。

 

今回は、石田三成の最終回です。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成は、着々と力をつけて堂々と挑戦しました。

 

徳川家康は、豊臣政権が文禄・慶長の役(朝鮮侵攻)で大名たちや領民たちを疲弊させていること、豊臣政権だけが富むような施策に対して、世間の見る目が厳しくなっていることを、政権の重臣として肌で感じていて、秀吉亡き後は自分が政権を取った方が豊臣政権よりも世の中をよくできる、と思っていました。

 

そういう意味では、あくまで豊臣政権への忠誠心だけで行動していた石田三成よりは、家康の方がはるかに視野が広かったと思われますし、その考え方を支持する大名が多かったのは事実です。

 

ただし、たとえ人心を失うような政治をしていたとしても、権力を握っていたのは豊臣家であり、豊臣家に対して忠誠心を持っている大名は多かったこと、またそのような家康の動きに反感を抱いている大名もいました。

 

三成が挙兵していたという報を聞いて、宇都宮まで進んでいた徳川家康はいったん江戸に引き返します。ともに従軍した武将たちは、ほとんど全て家康側(東軍)につくことを誓いました。

一方、三成に味方して豊臣側についた武将たちは、「西軍」と呼ばれます。西軍は石田三成がとりまとめ役でしたが、表には出ないようにとの島左近のアドバイスを受け入れて、毛利輝元に総大将を依頼しました。

 

江戸にいる家康、大坂にいる三成、それぞれ味方を一人でも多くすべく、各地の大名に書状を送ります。

 

名目上の主君は豊臣であるものの、トップに力量があるのは徳川であるため、各地の大名の判断は複雑になります。

表向きは西軍についたものの、裏では家康に使者を送って忠誠を誓っているようなケースがかなり多かったようです。

このそれぞれの大名の思惑が、関ヶ原の戦いをより複雑なものにしました。

 

戦いのための準備を一通り終えて、徳川家康は西へと向かいます。

 

家康西上の報を受けて、石田三成も大垣城に入りますが、前に申し上げたとおり徳川家康は城攻めを苦手としていたので、三成の佐和山城へ向かうふりをして誘い出そうとします。

一方、三成も野外で堂々と決戦して勝つ自信があったため、大垣城を出て関ヶ原で待ち構えます。

 

こうして、さほど広くはない関ヶ原に、東軍約7万5千人、西軍約11万人もの兵士が布陣しました。

 

意外と三成が頑張ったどころか、むしろ西軍の方が多いではないか!と思われる方も、もしかするといらっしゃるかもしれません。

 

明治時代にドイツから招聘された、戦略戦術に長けた参謀将校であるクレメンス・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て即座に「西軍の勝ち」と断定したという話が知られています(これは創作という説もありますが)。

 

しかしながら、先ほども触れたとおり関ヶ原の戦いは極めて「政治的」な戦いであり、東軍のほとんどは徳川家康に忠誠を誓っていたのに対して、西軍で石田三成の指揮のもとに動いたのは3万人もいないような状況でした。

あとは、「日和見」をしていたのです。どちらかが勝ちそうになったら、そちらに味方しようと。

実質的には、東軍7万5千人対西軍3万人ですから、やはり東軍の方が優勢だったわけですね。

 

様々な思惑が交差する中、いよいよ関ヶ原の戦いの幕が上がります。

 

東軍の先鋒の武将たち、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、みな「三成憎し」で家康に味方した者たちでした。争って、自分こそ憎き三成の首を上げてやろうと、石田三成隊へ殺到します。

 

石田三成隊の総大将は、当然のこと、島左近です。

 

この日の島左近の戦いぶりは、のちのちまで語り継がれるほど激しいものでした。

乱戦の中央に、鬼神のごとく馬上で仁王立ちとなり

「かかれえーっ、かかれえーっ」

戦場で鍛えた、低く鋭く響き渡る塩辛声で叱咤する声に応えるように、三成の兵士たちは攻めてきた東軍を苦もなく蹴散らします。

この一戦にかける三成の意気込みで一つになった士卒たちの形相をみて、東軍の武将である田中吉政は怖気をふるいます。

「こいつら、死ぬ覚悟で戦っている」と。

 

細川忠興は、戦いから10年たっても、この島左近の突撃の夢にうなされたと述懐しています。

 

石田三成を「ソロバンしかできない、腰抜け侍」と普段から罵っていた福島正則や黒田長政も、島左近の猛烈な突撃に防戦一方となります。

 

東軍に不利となってきた戦況を見つめる徳川家康の顔に、次第に焦りの色が見え始めます。つい、癖となっている指の爪を噛む仕草が激しくなります。

圧勝するどころの話ではない。目の前で東軍が敗北しつつある。周りで日和見している武将たちが、心変わりするかもしれない。

一人の武将が寝返ると、周りの武将たちも雪崩を打ったように西軍へ味方するのは目に見えています。そうなれば、さしもの徳川軍も敗亡せざるを得ない。

 

今川義元、織田信長、豊臣秀吉に仕え、若い頃からこき使われてきた苦労にじっと耐えてきた己の人生。

苦労も知らない、豊臣の小憎らしい若造に、自分と家臣たちが営々と積み上げてきたものをひっくり返されてなるものか。

 

徳川家康は、臆病なほど慎重なことで有名でしたが、生きるか死ぬかの土壇場になると人変わりがしたように大胆になります。この相反する二面性が、もしかすると家康に天下を取らせたのかもしれません。

 

部下を呼び、家康は命じます。

 

「松尾山に鉄砲を撃て」

 

部下は耳を疑います。松尾山には、東軍への裏切りを約した小早川秀秋1万5千人が布陣しています。もしも、鉄砲を撃って怒らせでもしたら、西軍に寝返られ、東軍は敗亡しないとも限りません。

 

「いいから行け!金吾(小早川秀秋のこと)につるべ打ちで撃ってやれ!何をぼやぼやしているのだと」

 

徳川家康の陣から撃ちまくられた小早川秀秋は、その気迫に震え上がり、松尾山から西軍へと攻め下ります。松尾山から一番近くに布陣していたのは、大谷吉継でした。反撃もあえなく吉継は戦死して、島左近も鉄砲で撃たれて屍をさらし、西軍は敗北しました。

 

石田三成は戦場から落ち延びますが、山中で捕縛されて京都で打ち首にされます。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康に上杉景勝と直江兼続は降伏し、はるか北国へと押し込められることになります。

 

3年後に徳川家康は征夷大将軍に就任して、江戸に徳川幕府を開くことになるのは、ご存じの通りです。

 

石田三成は徳川家康に敵対したために、江戸時代は散々な汚名を着せられます。

 

しかし、多くの大名が強い徳川家康になびく中、豊臣を守ろうと立ち上がった石田三成の勇気と忠誠心は、江戸時代であっても心ある人々、例えば水戸光圀などには賞賛されていました。

強大な家康に徒手空拳で立ち向かった三成の勇気を思えば、汚名ぐらいはむしろ名誉なことかもしれません。どうでもいい敵ならば、憎まれることはないからです。

 

何よりも、石田三成が自ら証明したように、普段から必要な努力を惜しまなければ、たとえ圧倒的な敵を相手にしても対等に戦えるところまで持っていくことができること、これは私たちに大きな勇気とヒントを与えてくれますね。

 

一時的な人の評判やその時の気分に流されず、長い目で見て自分にとって必要な努力を営々と続けること、自分がしなければならないことをたとえ嫌われてもやり続けること、そうすることによって人からの本当の信頼を得ることができるということを、石田三成の生涯は教えてくれるように思います。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(4)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密は、紹介した歌にあるように、三成が大きな代償を払って重臣を招いたこと、また身分不相応なほどの大きな城を築いたことで、三成が大名として飛躍的に力をつけたことにあると前回まで申し上げました。

 

初回で申し上げたとおり、石田三成は「へいくゎい者」(横柄者)と呼ばれていたように、無愛想で冷たい、とりつく島もない官僚のような印象を相手に与えていました。そのおかげで、豊臣政権の中では人気がなかったと言われています。

 

しかし、三成が豊臣政権の中でそのような態度を取らざるを得なかったのは、それなりの事情があります。

 

豊臣政権は、秀吉が子飼いの部下の中から取り立てたり、あるいは大きな利益を餌にして味方につけたりした武将が大名の多くを占めていました。野心と勢いはあるが、統制が取れていないのです。大坂城内で平気で泥酔して暴れたり、口論がエスカレートして取っ組み合いの喧嘩になったり、あるいは戦いで周りの動きなど一切構わずに、自分の手柄をたてようと抜け駆けしたおかげで、他の武将が危機に陥ったりするなど、様々なトラブルを起こす武将が多かったようです。

 

そのような中で、武将たちに対してしっかりとしたまともな統制を取ろうとすると、それをする人間は自然と嫌われ者になるのは、世の習いですね。その嫌われ役を、政権のトップである秀吉は当然やりませんので、そういう汚れ仕事は、部下に回ってくるのは時代を問いません。

 

石田三成は、豊臣政権の中での自分のすべきことを理解して、几帳面なほどにそれを実行しただけなんですね。ただし、秀吉が存命のあいだは、三成は自らの職務だけ考えていれば十分でしたが、後継者が育っていなかった秀吉亡き後の豊臣政権にあっては、もう少し政治的な動きが求められていたのです。その変化に適応するだけの力が三成には不足していたのに対して、経験豊富でスタッフも充実していた家康はうまく対応することができました。どのような違いがそこにあったのか、それはまた稿を改めて申し上げたいと思います。

 

そのように、石田三成が自らの職務に忠実であるほど、特に「武断派」と呼ばれる武闘派の武将(普通の会社で言うと、「現場」ですね)からは嫌われましたが、一方でストイックなほどに自らを高め、嫌われることもいとわずに自分の職務に邁進する三成に惚れ込む人たちもいたのです。

 

前々回で紹介した島左近もその一人であり、また武将として活躍した舞兵庫などもそうですが、一般的に世に知られているのは豊臣政権を同じ官僚として支えた大谷吉継と、上杉景勝の右腕であった直江兼続の二人でしょうか。

 

大谷吉継は、石田三成と同様に、少年の頃に秀吉に見込まれて取り立てられ、秀吉をして「大軍を紀之介(吉継の幼名)の采配に任せてみたい」と言わしめるほどの器量がありました。三成とは肝胆相照らす仲であり、無二の親友と言ってもいい間柄だったのです。

 

二人の間柄を示すエピソードを紹介したいと思います。

 

後年、大谷吉継は重病(ハンセン氏病と言われています)を患い、顔を布で隠していました。ある日、茶会に呼ばれましたが、吉継はお茶を飲んだときにうっかりと膿を茶碗の中に落としてしまいます。当然、参加者はお茶を飲むふりをして茶碗に口をつけませんでしたが、三成は膿ごとそのお茶を飲み干して、さらにお代わりを所望したと伝えられています。それを見ていた吉継がどう思ったか、申し上げるまでもないかと思います。

 

一方、直江兼続と三成の強い絆も有名です。直江兼続は、ご存じの通り義を重んじる上杉家の重臣ですが、自身も義理堅く剛毅な人柄で知られていました。

あるときに、秀吉の居城であった伏見城内で、仙台の伊達政宗が金の小判を、「皆見たことがないだろう」と半分自慢げに出席者に見せていたところ、兼続は小判を扇子の上に載せて受け取りました。政宗は兼続が遠慮しているのだろうと、「手に取って見よ」と言ったところ、「小判など、武士の手の汚れになるわ」と扇子で投げて返したそうです。

兼続の誇り高さ、気の強さが推し量れるエピソードですね。

 

直江兼続が上杉家と上杉景勝を強く想う心、そして石田三成が豊臣家と豊臣秀吉に抱く熱い忠誠心、似た者同士が一晩明かしてお互いの主君について語り合った夜もあったのではないでしょうか。

 

石田三成、大谷吉継、直江兼続は、三人ともそれぞれ秀吉亡き後の豊臣政権について憂慮していましたが、思いも空しく秀吉は病死してしまいます。

 

豊臣秀吉の死後、三人が懸念していたとおり、秀吉の遺言に反して徳川家康が大名との婚姻政策を進めたため、石田三成が奉行としてその行為を弾劾します。しかし、三成は家康党である加藤清正や福島正則から命を狙われて、家康の仲介で和解する代わりに豊臣政権からの引退を強制されることとなります。

 

石田三成という弾劾者がいなくなったことで、徳川家康の行動を縛る者は中央にいなくなりました。暗に反家康党とみられていた会津の上杉家が、家康に近い家臣を追放したり、国境の城を修築したりしていることについて家康がとがめたところ、「直江状」と呼ばれる直江兼続からの反論が来たことを受けて、徳川家康は会津を征伐することを決意します。

 

福島正則、黒田長政、細川忠興など家康党と呼ばれる秀吉の家臣を率いて、徳川家康は会津を目指して東へ下りますが、その隙をついて石田三成は家康討伐のために関西で挙兵します。

 

実は、「直江状」による家康への挑発は石田三成と直江兼続との密謀だったと伝えられています。その確証はないとも言われていますが。

そして、実は三成の挙兵も徳川家康の目論見通りであり、石田三成側についた軍勢を、豊臣政権の家康党の武将とともに打ち破ることで、徳川政権を強引に成立させてしまおうというシナリオだったとも言われています。

 

徳川家康とも意思疎通のあった大谷吉継は、強大な家康には到底三成の勝ち目がないとみて挙兵をとどまるように説得しますが、最終的には三成の熱意に押し切られて、三成と志をともにすることを決意します。

 

こうして、石田三成は徳川家康との戦端を開くことになったのです。

しかし、決して三成は独りで立ち上がったわけではなく、有力な協力者がいたわけですね。大きい志を持って、孤独であってもぶれずにすべき努力をし続けていれば、必ずそれを見てくれる人はいるのです。もしも三成がその場の状況に左右されているだけの人間であれば、そもそも家康への挑戦すらできなかったことでしょう。

 

徳川家康への石田三成の挑戦がどのような結末を迎えたか、次回は最終回です。

 

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歴史に学ぶ後継者経営 石田三成の挑戦(3)

私主に日本の歴史から後継者経営に学べる題材をとって、皆さんと一緒に後継者経営を考えて参りたいと思います。今回は、「関ヶ原の合戦」の片方の主役だった、石田三成の行跡に後継者としての生き様のヒントが得られないか、皆さんとみて参りたいと思います。

 

後継者の皆様

 

後継者の学校パートナーで、日本の歴史を愛する石橋治朗です。

 

私は主として日本の歴史から題材をとって、事業承継や後継者経営のありかたを皆さんと考えていきたいと思っています。

 

今回もまた、石田三成の続きです。

 

関ヶ原の戦いで、260万石という強大な国力と、豊臣政権における5大老の筆頭という権威、そして圧倒的な戦歴をもつ徳川家康に対して、19万石の国力しかない石田三成がどうやって挑戦したのか。

その秘密を、今回もまた続けて考えたいと思います。

 

前回、石田三成の挑戦を探る鍵が、当時の三成をはやした次の歌にあると申し上げました。

「治部少(じぶしょう・三成のこと)に 過ぎたるものが二つあり

島の左近に 佐和山の城」

 

「島の左近」、島左近は前回申し上げましたね。

今回は、「佐和山の城」です。

 

「佐和山の城」とは、現在の彦根市にある佐和山城のことです。城は現存していませんが、城跡が彦根城のすぐそばにあり、電車の車窓から眺めることができます。城跡といっても、単なる山なのですが。

 

もともとは六角氏や浅井氏の城だったようです。秀吉の時代になって、三成が佐和山19万石の領主を任されて、佐和山城に入りました。

 

石田三成は、城主になってすぐに、佐和山城を徹底的に改修します。改修どころか、ほとんど別の城に作り替えます。

標高が232mもある山の上に、5層(5階建て)もの大天守を築くのです。

 

秀吉の築いた大坂城、徳川家康が徳川幕府を開いてから築いた江戸城も、それぞれ天守は5層でした。

19万石ごときのちっちゃな大名が築くような規模の城ではありません。だからこそ、「過ぎたるもの」と歌われたわけですね。

もちろん、三成にはそれだけの大きな城を作った目論見がありました。

 

彦根市をGoogle mapなどで見てください。

地形がわかる地図だともっといいのですが、岐阜から滋賀県へとたどってみると、関ヶ原付近は南北の山に挟まれていて、滋賀県に入ると平地が広がるような地形になっていますね。

彦根は、関ヶ原を通り抜けて平地に入ったすぐのところに位置しています。

 

岐阜方面から滋賀県を通って大阪に攻めてくるような敵は、大軍であるほど関ヶ原を通らざるを得ず、その関ヶ原を過ぎると彦根に突き当たります。

ここに強力な要塞を作れば、関ヶ原に敵を封じ込めることができます。

 

豊臣秀吉が、石田三成を佐和山城に入れた理由がわかりますね。また、三成も自分の役割を十二分に理解していました。

仮に徳川家康が大軍で攻めてきても、持ちこたえられる城を築いたわけです。

 

また、当時の城は単に敵が攻めてきたときにこもる「軍事目的」だけのものではなく、内政や外交の拠点であり、かつ城の周りには「城下町」ができるため、経済の中心としての機能も果たしていたわけです。

 

特に、佐和山城は日本の五街道の一つである「中山道」に面していて、旅人の往来が多い場所でした。そこに見上げるような立派な城がそびえ立っていると、いやでも人目につくようになります。当時は、みな徒歩で旅をしていましたから、道中は退屈なんですね。立派な建造物があると、ついつい見とれてしまうわけです。「なんて、すごい城なんだろう!なぜ、こんな鄙びた場所にこんな立派な城があるのか!」と。

その評判は人から人へと伝わり、ついには世間の評判になります。世間の評判が高くなるにつれて、佐和山の人たちは佐和山城を誇りに思うようになり、また石田三成への忠誠心も高くなるのです。

 

関ヶ原の合戦のあとで、石田三成の領地を任された井伊直政(徳川家の重臣)は、その佐和山城を使わずにこれを徹底的に破壊して、改めて新しく彦根城を築きました。おそらく、石田三成への領民の思いを消すためでしょうか。いかに、佐和山の人たちが佐和山城を誇りに思っていたか、石田三成を信頼していたかがうかがえるエピソードです。

 

さらに石田三成が徹底しているのは、城の外観が立派であるのに対して、内装は極めて質素だったことです。内壁を塗ることもなく、床は板張りで、庭にも大したお金をかけていませんでした。まさしく実用一点張りの城だったのです。城内に金銀の蓄えもほとんどありませんでした。いかに、三成が自分のためではなく、豊臣秀吉に尽くすため、あるいは領民のためにお金を使っていたかがわかります。

 

この佐和山城があるおかげで、徳川家康の行動も大きく影響を受けます。城を攻めるのを極端に苦手としていた家康は、関ヶ原の合戦の直前に石田三成が大垣城に籠もっていたことをみて、より強固な佐和山城へ籠もられないように、大垣城を迂回して佐和山へ向かいます。それを見た石田三成がそうはさせじと家康を先回りすることで、関ヶ原で戦いが起きることになるわけです。

 

石田三成は、自分に足りないところ、また自分がするべきこと、準備することをよく心得ていて、そのためだけにお金を使ったのです。すなわち、「人」と「器」に投資したわけですね。立派な武将と城を持つことで、石田三成の力量に対する世間の信用力はぐんと上がりました。

 

島左近を招き、佐和山城を築いた石田三成は、どのように家康に挑戦したか、それをさらに見ていきたいと思います。

 

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入国禁止措置と企業のあり方

後継者の学校パートナー中小企業診断士の岡部眞明です。

トランプ大統領が就任してひと月がたとうとしています。矢継ぎ早に発布していた大統領令もこの頃は少し落ち着いてきたようです。今回は、前回予告した通り1月27日に出された中東・アフリカ7か国から市民入国を禁止する大統領令について考えてみます。

大統領令で指定された7か国は、イラク、シリア、イラン、スーダン、リビア、ソマリア、イエメンで、テロ支援国家、内戦状態・政情不安が続いていることが理由として挙げられたようです。

この大統領令が発布されると正規なビザを持っている人々までも入国できずに、アメリカのみならず各国の空港で大きな混乱が引き起こされました。

大統領令に異議を唱えた司法省のトップはその日のうちに解任されたりして、さすがアメリカとびっくりするやら、納得するやら、トランプ政権の船出は、ある意味ダイナミック(ハチャメチャにも見えますが)なものです。(あくまで、現在進行形なので)

その後、というより発布直後から、この大統領令に対する批判は、アメリカ政界の与野党問わず、法曹界からも批判続出で、ワシントン州の連邦地裁が効力の停止の決定をし、政権側が控訴する騒ぎとなりましたが、結局、大統領令の差し止めが決定しました。

政権側は、控訴をあきらめ、新たな入国管理措置を講ずることとなり、この大統領令による混乱は、当面回避されることになりそうです。

この大統領令は、シリアからの難民は無期限停止としているものの、他の国からの難民の受け入れは90日あるいは120日間停止することと、生体認証による出入国管理システムの整備を進めるなどの内容であり、まったく正しいとは言わないまでも、全くダメという内容でもないのです。

そもそも、自分の国に誰(何)を入れて、誰(何)を入れないかは、まったく100%その国の判断によることになっています。私たちが、アメリカに行くとき(短期)に入国のための査証(ビザ)が不要なのは、アメリカ人が日本に来るときに同じ扱いになっているからです(うちの国の人を受け入れてくれるなら、同じ条件であなたの国からの人も受け入れますよ)。これを互恵協定といいますが、今回の大統領令にも、互いの協定が本当に互恵関係になっているかを再検討するとなっています。

政権側は、大統領令は「合法で適切」であり、「大統領令は国土を守るためのもので、大統領には米国民を守る憲法上の権限と責任がある」(http://www.bbc.com/japanese/38866319)と表明しています。

注目すべきは、この大統領令については、調査の時期や機関によっても違いがありますが、ほぼ50%の人が支持しているという事実です。これは、移民に対するこの原則は十分に説得力と実行力を持っているということを示しています。

一方で、雇用問題では概ね協力姿勢だったアマゾンなどの大企業が、「アップルは移民なしに成り立たない」(ティム・クック)、「移民がこの会社とこの国、そして世界にもたらすポジティブな力を目の当たりにしてきた」(インテルCEOサティア・ナデラ)など、一斉に反発しています。

企業が大規模化しグローバル化し、従業員の国籍も多様化していく中で、一つの統一したシステムとして機能していくためには、同じ価値観のもとに糾合する文化と価値観が必要とされていることを強く意識させるものでした。

翻って、わが日本は、難民の受け入れ人数の累計(平成18~27年)が、284人であり(法務省統計)、今回の大統領令による今年度受入数を5万人まで(11万人から半減)とは比べ物になりませんが(こと難民移管する限り、大統領令より何百倍も自国民の安全を守っていることになります)、企業の現状では、国際的な展開をしている企業だけではなく、国内にとどまっている企業についても、外国人労働者の問題は(欧米の難民問題は、労働力不足を補うことから始まっていることをみても)避けて通ることはできない問題ではないでしょうか。

ドラッカーは、日本の明治以降の発展を「近代国産業国家という新しい目的のために、日本独自の共同体伝統および人間の価値観をはたらかせた事実こそ、なぜ日本が成功したかを示している」(ドラッカー全集5「伝統的経営仮説の終焉」ダイヤモンド社)と言っています。

国際間の距離が、物理的にも、技術的にも縮まり、地域の伝統や価値観が日々、直接接触する世の中で、それらを融合する役割を否が応でも担わなければならない時代になっているように思えます。宗教的にも寛容な日本の役割が求められているのではないでしょうか。

 

このように移民や外国人労働者という観点から

「文化違いを受入れ、発展させる」ことは

事業承継にもつながることではないでしょうか。

 

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